人外崩し(小説)

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人外崩し

奥和也

第一章

散花

駅前のマックは、放課後になると制服だらけになる。私たちも制服だった。四人で窓際の席に座って、Aがポテトをつまみながら言った。

「待って、行かせたの?」

「行かせた」

「止めなかったの?」

「止めなかった」

Aがポテトを置いた。「さくら、それ度胸ありすぎじゃない?」

Bが「え、何の話」と言った。AがBに説明した。Cはストローでジュースをかき混ぜながら聞いていた。

「お見合いって、本物の?」とBが言った。

「書類と写真まで交換したやつ」

「それ、普通に彼女いなくなるやつじゃん」Bがシェイクを飲んだ。「怖くなかったの?」

怖いかどうかと聞かれると、よくわからなかった。止める理由を考えたとき、ひとつも出てこなかった、というだけの話だ。玄が見合いに行くことと、私が玄のそばにいたいと思っていることは、別の話だ。玄が行くなら行けばいい。その結果がどうなるかは、玄が決めることだ。

「怖いとか、そういう話じゃない」

「じゃあどういう話」

答えなかった。

Cがストローから口を離して、初めて口を開いた。「さくら、諦めたわけじゃないよね」

私はCを見た。Cはジュースを見ていた。

「諦めてない」

Cはそれ以上何も言わなかった。Aが「意味わかんない」と言った。Bが「ほんとに」と言った。

私はポテトを一本食べた。

婆さんに話したのは、その夜だった。

縁側に並んで座って、私が話した。婆さんは途中で一度も口を挟まなかった。最後まで聞いてから、お茶を一口飲んだ。

しばらく黙っていた。

それから言った。

「お前、できるようになったな」

私は庭を見た。暗くて、木の形だけが見えた。

「何が」

「手放すことが」

風が少し吹いた。

「手放したつもりはない」と私は言った。

「知ってる」と婆さんは言った。「だからできるようになったって言ってる」

二十四日の部活は、機材の片付けで少し遅くなった。

部室の鍵を閉めて、廊下に出たところで玄が言った。特に前置きはなかった。

「なんか見合い、無かったことになったよ」

私は鍵をポケットにしまいながら、玄を見た。

「面白かった?」

玄は少し考えた。「前日に相手に彼氏がいたことが発覚して、仲介した人が運営に呼ばれて、三ヶ月資格停止になったらしい」

「それで?」

「あと予定してた残り全部も自動でキャンセルになった」

「全部って何件」

「十九件」

私は少し計算した。「最初の一件と合わせて二十件?」

「そうなるね」

廊下が静かだった。暖房が切れていて、息が少し白かった。

玄は別に気にしている様子がなかった。こういうことが起きたから報告した、という顔だった。

「玄は何もしてないじゃん」と私は言った。

「そうなんだよね」と玄は言った。

私は少しだけ笑いそうになったのを、こらえた。

二十五日の朝、私はスマートフォンを持ったまま少し考えた。

それから玄にメッセージを送った。

「今日、フォーラス行かない?映画でもいいし、ただ行くだけでもいい」

既読がついた。しばらく間があった。

「いいよ」

私はスマートフォンを置いた。

布団の天井を見た。

心臓が、普通じゃない動き方をしていた。

金沢フォーラスは、駅の真横にある。改札を出てすぐのところで待ち合わせた。玄は時間の三分前に来た。私も三分前に来ていたので、二人同時に来た形になった。

チケット売り場の前に立った。上映中の一覧が並んでいた。

「何がいい?」と私は言った。

玄がボードを見た。しばらく見ていた。

「逆五輪の書だな」

「それにする?」

「うん」

私は窓口で二枚頼んだ。玄は財布を出した。私も出した。割り勘になった。

チケットを受け取りながら、私は「逆五輪の書」という文字を見た。三本の中で一番タイトルの意味がわからなかった。

「なんでそれ?」と私は聞いた。

「タイトルが気になった」

「クウとカイは?」

「それはわかる気がしたから」

「沈んだ鐘楼は?」

「それも」

玄はチケットを受け取った。「わかる気がするやつは後でいい」

私はそれ以上聞かなかった。

ポップコーンを買って、暗い中で二時間座った。

映画の内容は、半分くらいしか頭に入らなかった。

外に出たら夕方になっていた。駅前に人が多かった。

「面白かった?」と私は聞いた。

「うん」と玄は言った。「最後の構成、守破離だったね」

「映画の感想それ?」

「違う?」

「守破離って、あの?」

「ヨナスが最初、AIの言う通りに全部やるじゃないですか」

「うん」

「それが守。で、AIが一個ずつ消えていくうちに、自分で判断し始める。それが破。最後に残った四体と映画を完成させる時には、もうAIに言われて動いてない。それが離」

私は少し黙った。

「それ、正しい読み方?」

「たぶん」

「たぶん?」

「確かめてないから」

私はまた少し笑った。玄は別に笑わなかった。

駅の方に歩きながら、私は言った。

「また行こう」

玄は少し間を置いた。

「いいよ」

私はそのまま前を向いて歩いた。顔が、見せられる状態じゃなかったので。

改札の手前で、玄が言った。

「あ、そうだ。次、合コン行こうかな」

私は一瞬止まった。

それから、後ろから抱きついた。

「だーめ♡」

玄が固まった。改札前の人が何人か振り返った。私は気にしなかった。

玄がしばらく黙っていた。それから言った。

「……なんで」

「今日から私のもの」

また少し間があった。

「いいね。」と玄は言った。

私は離れなかった。

玄も、振り払わなかった。

二十八日の月曜日、朝のホームルーム前にAが私の席に来た。

「ちょっと待って」

「何」

「フォーラス行ったって本当?」

私は教科書を出しながら答えた。「本当」

「二人で?」

「二人で」

Aが固まった。しばらくして「えっ」と言った。私は教科書を机に置いた。

Bがどこからか走ってきた。「聞いた?さくらと霧島くん」「今聞いた」とAが言った。「どういうこと」「わかんない」

Cが来た。Cは私を見た。私はCを見た。

Cが小さく笑った。「やるじゃん」

「ありがとう」

ホームルームのチャイムが鳴った。AとBがまだ何か言っていたけど、先生が来たので終わった。

昼休み、Aが「ちゃんと説明して」と言った。

購買のパンを持ったBも来た。Cはすでにいた。四人で廊下の端に集まった。

私は順番に話した。十二月二十日のマックから始めて、二十二日に見合いが消滅したこと、二十四日に玄から報告があったこと、二十五日にフォーラスに行ったこと。最後に改札前のことも話した。

最後まで話し終えた。

しばらく誰も何も言わなかった。

Bが先に口を開いた。「高校生でお見合い二十件て」

「二十件」と私は言った。

「しかも全部キャンセル」

「全部」

Bがパンを持ったまま固まった。「小説かよ」とAが言った。

「現実です」

「いや、展開が小説なんだよ」AがBを見た。「聞いてた?書類と写真まで交換してたって」「聞いてた」「それが全部消えたって」「聞いてた」「しかも玄くん、何もしてないって」「聞いてた」

二人でしばらく確認し合っていた。

Cが私に聞いた。「映画、何の話だった?」

「玄の感想が守破離だった」

Cが少し間を置いた。「映画の感想 守破離」

「そう」

Cが笑った。声に出さない笑い方だった。「それで行ってよかったって思った?」

思った。というか、それ以外の感想が出てこなかった。守破離という言葉が出てきた瞬間に、この人のそばにいると決めた時のことを思い出した。何も変わっていなかった。何も変わらないまま、フォーラスの外に出ていた。

「思った」と私は言った。

Cはまた笑った。今度は少し声が出た。

AがBに向き直った。「意味わかる?」「わかんない」「だよね」「でもさくらはわかるんだね」「みたいだね」

二人がまた確認し合っていた。

チャイムが鳴った。

Aが歩きながら言った。「これ、絶対伝説になるから」

「やめて」

「なる」

Bが「なる」と言った。Cが何も言わなかった。

何も言わない方が、たぶん正しかった。

私は前を向いた。

窓の外、金沢の冬の空が、低くて白かった。

カメラが向いてきたのは、突然だった。

屋台を離れて少し歩いたところで、レポーターの女の人がマイクを持って立っていた。カメラマンが隣にいた。英語で何か言っていた。

私には選択肢がなかった。逃げるわけにもいかない。前に出た。

「地元のお祭りです」と英語で答えた。「石川県の、白鷹神社です」

カメラが動いた。女の人がまた英語で話しかけてきた。「ありがとうございます。ジェミニ・レポートです。石川の大祭、素晴らしいですね」

私は微笑んだ。カメラが回っていた。

しばらく話した。大祭の歴史のことを、神社のことを、石川の夏のことを、英語で答えた。

カメラが止まった。

「ありがとうございました」とレポーターの女の人が英語で言った。私も英語で返した。カメラマンが機材を片付け始めた。

それだけだった。

私は少し息を吐いた。突然で、隣に誰もいなくて、逃げるわけにもいかなかった。英語で答えられたのは、運がよかっただけだ。

人の流れに戻ろうとした、その瞬間だった。

「不用心だなあ。若くて綺麗なのに」

背後から、男の声だった。

反射的に体が動いた。前につんのめった。浴衣の裾が絡んで、体が傾いた。

後ろ襟が、引っ張られた。

誰かに掴まれていた。浴衣の後ろ襟を、片手でつかんだまま、支えられていた。

「あぶないあぶない。俺じゃなきゃお陀仏だ」

声が、すぐ後ろにあった。

「えっ」

私は振り返ろうとした。

「振り返るな」

静かな声だった。でも有無を言わせない感じがあった。私は止まった。

「家に帰るまでが大祭だ。絶対に振り返るなよ。そのまま鳥居の隅っこを潜って帰るんだ。寄り道禁止。以上」

少し間があった。

「あなたのために葬送曲、書きたくない」

後ろ襟が、離れた。

気配が消えた。

私はしばらく、その場に立っていた。人が流れていた。提灯の光が揺れていた。

鳥居の方を見た。

歩き出した。言われた通り、振り返らなかった。鳥居の隅っこを潜った。寄り道しなかった。

まっすぐ帰った。

風呂の中で、天井を見た。

お湯の音だけがしていた。

あの声は——智樹くんだ。

蒼井智樹。同じ学校の、一年生。神社に出入りしていると聞いたことがある。顔は知っている。でも話したことはない。

格闘技の達人??

浴衣の後ろ襟を片手で掴んで、転倒を止めた。しかも一瞬で。

私はお湯に少し沈んだ。

あなたのために葬送曲、書きたくない。

なんだったんだ。

翌日、中村に話した。

「後ろ襟を片手で掴んで、転倒を止めた」と言ったところで、中村が「待って」と手を上げた。

「片手で?」

「片手で」

「浴衣の後ろ襟を?」

「後ろ襟を」

中村がしばらく黙った。それから「かっこいい」と言った。

昼休みに広がった。夕方には五人になっていた。全員の反応は同じだった。

「惚れる」

「それ完全に惚れる案件じゃん」

「声は?」「低かった」「終わった、惚れる」

「振り返るなって言ったの?」「言った」「なんで?」「わからない」「わからないのに従ったの?」「従った」「それも惚れる」

最後の言葉を話したのは、そこで初めてだった。

「あなたのために葬送曲、書きたくない、って言われた」

全員が静止した。

「葬送曲」と誰かが繰り返した。

「そう」

「それって」

「わからない」

しばらく誰も何も言わなかった。

「致命傷じゃん」と中村が言った。

全員が頷いた。

私は自分の感想を確認した。

なんだったんだ。

かっこいいとか惚れるとか致命傷とか、そういう話じゃなくて、なんだったんだ、という感想しか出てこなかった。

「藤原さんは?」と誰かが聞いた。

「なんだったんだ、という感じ」

全員が少し黙った。

「それ、一番惚れてるやつじゃない?」と中村が言った。

違う、と私は思った。

たぶん。

図書室で蒼井智樹を見つけたのは、三日後の昼休みだった。

窓際の席で本を読んでいた。一人だった。

私は向かいの席に座った。蒼井が顔を上げた。

「藤原さん」

「大祭の夜、なんで声をかけたの」

遠回りする時間が惜しかった。蒼井は少し考えた。考えるというより、思い出している感じだった。

「嫌な気配がしたから」

「嫌な気配」

「藤原さんの周りに。カメラが離れたあとに急に」

私は少し間を置いた。「それで後ろ襟を掴んだ?」

「転びそうだったので」

「その前に声をかけたのが原因では」

「それはそう」

蒼井は特に悪びれなかった。私も追及する気にはなれなかった。

「音楽、やってるよね」と私は言った。

蒼井が少し首を傾けた。「調べましたか」

「調べた」

「ストレス解消です」

私は蒼井の顔を見た。嘘をついている感じはなかった。本当にそれだけの話だという顔だった。

「ストレス解消で葬儀曲を作るの?」

「作りやすいので」

「サンスクリット語と古代ギリシャ語が混在する曲も?」

「あれは弾みで」

私はしばらく黙った。

この人の才能に値段をつけようとしていたけど、値段の前に分類ができなかった。嫌な気配がわかって、ストレス解消で葬儀曲を作って、弾みで古代語の曲を作る。

「葬送曲、書きたくないって言ったのは」

蒼井が少し止まった。

「本当のことです」

「どういう意味で」

「書きたくない人には書きたくない」

私はしばらく蒼井を見た。蒼井は本を見ていた。

なんだったんだ。

「また何かあれば言ってください」と蒼井が言った。「気配、見ておきます」

「気配を見る」

「見るというか、感じる感じです」

私は椅子を引いた。「ありがとう」

「どういたしまして」

蒼井はまた本に目を落とした。

私は図書室を出た。

廊下を歩きながら、確認した。

なんだったんだ。

まだ、それしか出てこなかった。

十一月の最終週、図書室に蒼井がいなかった。

一日だけなら気にしない。二日続いたとき、少し確認した。三日目に、いないことが確定した。

私はしばらく窓際の席を見た。

本が一冊も置いていなかった。

中村に聞いた。「蒼井くん、見た?」「最近見ないね」「いつから」「さあ」

それだけだった。

クラスの男子に聞いた。顔を見た瞬間に、少し遠い目をした。

「蒼井? ああ——」

少し間があった。

「女の子紹介してって言われたんだけど、変態すぎて面倒見切れんかった」

「変態」

「いや、変態っていうか——なんか、こう——」

言葉を探していた。見つからなかった。「面倒見切れんかった」ともう一度言った。

「どこに行ったか知ってる?」

「知らない。気づいたらいなかった」

一年生の女子に聞いた。蒼井と同じクラスだった子だ。

「変わった子だったよ」とその子は言った。「なんか近寄りがたい。でも頭は良さそう」

「どこに行ったか知ってる?」

「転校したって聞いた」

「転校」

「うん。急だったよね。なんか、霧島家って三年間で一回だけ転校できるらしくて」

「霧島家」

「蒼井くんって霧島の分家なんだって。知ってた?」

知らなかった。

霧島。

玄と同じ、霧島。

「どこに転校したか聞いてる?」

その子は少し考えた。「聞いてない。ごめん」

職員室には行けなかった。転校先を教えてもらえる立場じゃない。

配信サイトを調べた。蒼井智樹名義の新曲が、十一月末から数曲上がっていた。

再生した。

椅子から転げ落ちそうになった。

葬送曲だった。歌詞は葬送曲だった。間違いなく葬送曲だった。でも編曲が——編曲が——

ハッピーハードコアだった。

私はイヤホンを外した。もう一度つけた。もう一度外した。

葬送曲の歌詞が、全力で浮かれたビートに乗っていた。

何があったんだ。

なんだったんだ。

十二月の第三週、用事で金沢駅の近くを歩いていた。

フォーラスの前を通ったとき、人影が見えた。

二人だった。

男の子と、女の子だった。

男の子は蒼井智樹だった。

女の子は——小柄で、童顔で、マフラーを巻いていた。どこかで見た顔だった。一瞬で思い出した。大祭のステージで、マイクを両手で持って、にこにこしていた子だった。

霧島アカネ。

二人は並んで歩いていた。蒼井が何か言った。アカネが笑った。

私は立ち止まっていた。

気づいたら、目が滲んでいた。

拭いた。また滲んだ。

蒼井は何も悪いことをしていない。彼女がいたわけでもない。私に何かを約束したわけでもない。「葬送曲書きたくない」と言った。それだけだ。

それだけだったのに。

二人の背中が遠くなった。

私はしばらく、その場に立っていた。

十二月の風が、冷たかった。

なんだったんだ。

今度は、違う意味だった。

「霧島カップルチャンネルです」とアカネが言った。

「姉弟です」と玄が言った。

「毎回言ってる」とアカネが言った。

「毎回必要だから」と玄が言った。

今回の報告は玄からだった。

「お見合いが消滅しました」

アカネがカメラに向かって頷いた。「消滅でございます」

「消えたんじゃなくて、相手側に問題があって運営から全部キャンセルになった」

「消滅でございます」

「同じこと言ってる」

「同じことです」

玄は少し間を置いた。「二十件」

アカネがまた頷いた。「二十件でございます」

しばらく沈黙があった。

「多い」とアカネが言った。

「親がやった」と玄が言った。

「存じております」とアカネが言った。

「その後、どうなったんですか」とアカネが玄に聞いた。台本はない。

「彼女ができた」

アカネがカメラを見た。カメラが止まりそうになった。

「賞味期限は切れておりません」

玄が少し首を傾けた。「なんで賞味期限」

「著作権は切れておりません、と言おうとしたのですが、違うと思いまして」

「どっちも違う」

「賞味期限の方が近いと思いました」

玄はしばらく考えた。「まあ、そうかもしれない」

「彼女さんはどんな方ですか」とアカネが聞いた。

「一般人です」と玄が言った。

アカネがカメラを見た。「一般人でございます」

「いや、あんたもだろ。別に芸人とかじゃなくね?」

アカネは少し間を置いた。「……そうでございます」

「なんで間があった」

「考えておりました」

「何を」

「私が一般人かどうかを」

玄がメモを出した。何か書いた。

「書かないで」とアカネが言った。

「素材だから」と玄が言った。

動画は八分四十三秒だった。

再生数は三日で四万を超えた。

コメント欄のトップは「賞味期限は切れておりません」だった。

二番目は「私が一般人かどうかを考えておりました」だった。

三番目は「このチャンネル、カップルじゃないのにカップルチャンネルなの本当に意味わからん」だった。

アカネはコメント欄を見て、一言だけ返信した。

「姉弟でございます」

玄は何も返信しなかった。メモに何か書いていた。

さくらがスマートフォンを縁側に持ってきた。

「ばあちゃん、見て」

トミは眼鏡をかけた。

画面に「霧島カップルチャンネル」と書いてあった。サムネイルに「♡」がついていた。

「カップルって何」

「姉弟らしい」

「姉弟でカップルチャンネル」

「うん」

トミはしばらく画面を見た。「まあいいか。再生しなさい」

さくらが再生した。

「霧島カップルチャンネルです」

「姉弟です」

トミが止めた。「もう一回」

さくらがもう一回再生した。

「霧島カップルチャンネルです」

「姉弟です」

「……続けなさい」

続けた。

お見合いが二十件消滅した話が始まった。「消滅でございます」が二回出てきた。「存じております」で終わった。

彼女ができた、という報告が来た。

トミが眼鏡を外して目を細めた。

「賞味期限は切れておりません」という言葉が出た。

トミがさくらを見た。さくらは前を向いていた。

「……続けなさい」

続けた。

一般人です、という話になった。「いや、あんたもだろ。別に芸人とかじゃなくね?」

「……そうでございます」

間があった。

「なんで間があった」

「考えておりました」

「何を」

「私が一般人かどうかを」

動画が終わった。

しばらく二人とも黙っていた。

庭の木が揺れていた。

「玄くんがいる」とトミが言った。

さくらが少し固まった。「……うん」

「姉か」

「霧島アカネって言うらしい」

「著作権が切れていればなんでも歌う子か」

さくらが振り返った。「知ってるの?」

「大祭で聞いた。般若心経を神社で歌うとる子がおると思ったら、あの子だった」

さくらは黙った。

トミはもう一度画面を見た。「賞味期限は切れておりません、か」

「うん」

「正しい」

さくらがまた固まった。「賞味期限が?」

「あんたが。まだ切れとらん」

さくらは前を向いた。耳が少し赤くなっていた。

トミはお茶を一口飲んだ。

「怖い何かだと言ったけど」

「うん」

「訂正する」

「え、また?」

「怖い何かが、姉弟でYouTubeをやっとった」

縁側が静かになった。

「なんだったんだ、あの家は」とトミが言った。

さくらは何も言わなかった。

それが正解だと思った。

中村がスマートフォンを見ていたのは、昼休みの廊下だった。

最初はなんとなく流れてきた動画だった。サムネイルに「♡」がついていて、タイトルが「霧島カップルチャンネル」だった。

再生した。

「霧島カップルチャンネルです」

「姉弟です」

中村は三秒止まった。もう一度再生した。

「霧島カップルチャンネルです」

「姉弟です」

止まらなかった。続きを見た。

お見合いが二十件消滅した話が始まった。「消滅でございます」という言葉が二回出てきた。親がやったという説明があった。「存じております」で終わった。

中村はスマートフォンを持ったまま廊下の壁にもたれた。

彼女ができた、という報告が来た。「賞味期限は切れておりません」という言葉が出てきた。

中村は一時停止した。

「賞味期限」

再生した。

「著作権は切れておりません、と言おうとしたのですが、違うと思いまして」

「どっちも違う」

「賞味期限の方が近いと思いました」

「まあ、そうかもしれない」

中村はスマートフォンを顔から離した。天井を見た。もう一度スマートフォンを見た。

一般人です、という話になった。「いや、あんたもだろ。別に芸人とかじゃなくね?」という言葉が出た。

「……そうでございます」

間があった。

「なんで間があった」

「考えておりました」

「何を」

「私が一般人かどうかを」

中村は廊下にしゃがみ込んだ。

だめだ、理解が追いつかない。

チャイムが鳴った。中村はしばらく動けなかった。

立ち上がって、スマートフォンをポケットにしまいながら、一つだけ確認した。

チャンネル登録した。

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第二章

大祭

——無限地獄・連作——

奥和也

第一作 護摩、焚けず

第二作 祭礼、整わず

第三作 報恩講、始まらず

終   日向栞のこと

第一作 護摩、焚けず

——清水章人・真言宗——

兄が死んだのは三年前の春だった。

膵臓癌だった。発覚から八ヶ月だった。

兄は得度を済ませていた。修行も終わっていた。住職資格も持っていた。幼い頃から父の背中を見て育ち、継ぐことを疑わなかった人間だった。

清水健一、享年四十二。

死ぬ三日前、健一はこう言った。

「膵臓癌が寛解した。来年の大祭は俺が焚く」

清水章人は弟だった。東京の小さな広告代理店に勤めて十五年。寺とは関係のない人生を送っていた。少なくとも、そのつもりだった。

兄の四十九日が明けた夜、父から電話があった。

「猛、頼む」

父が泣いていた。

章人は電話口で黙っていた。断る言葉がいくつか浮かんで、全部消えた。

翌月、荷物をまとめて石川に戻った。

戻ってから一年後、父も逝った。

父が最後に言ったのはこれだった。

「健一に教えたことは、何もお前に教えられなかった。すまん」

寺の名前は真光寺という。真言宗。山際にある。隣に浄土真宗の浄念寺がある。さらに隣に白鷹神社がある。

一 伝法灌頂が先です

宗派の事務所から西田という僧侶が来た。六十代、物腰の柔らかい男だった。

章人が「秋の大祭で護摩を焚きたい」と言うと、西田は少し間を置いてから答えた。

「伝法灌頂を受けていない方が護摩を修されるのは、宗派として認めることができません。伝法灌頂は真言宗の奥義の授受でありまして、正式な師僧のもとで相当の修行を積んだ上で受けるものです。期間は、最短でも数年かかります」

大祭まで、あと四ヶ月だった。

章人は「兄はどうしていたんですか」と聞いた。

西田は少し目を伏せてから答えた。

「お兄様は、お父様から直接伝授を受けておられました。正式な手続きを踏まれた上で」

父が死ぬ前に兄に全部渡していた。章人には何も渡さなかった。

西田が帰り際、山門のところで振り返った。

「お父様から、猛さんのことをよく聞いていました。寺を継がせるつもりはなかった、と。だから何も教えなかった、と」

それが父の配慮だったのか、それとも別の何かだったのか、章人にはわからなかった。

西田は最後にこう言った。

「護摩の代わりに、般若心経から始められてはどうでしょう。お父様も、最初はそこからでした」

父にも最初があったということを、章人はその日初めて知った。

二 柱が腐っとる

知人の紹介で大工の棟梁・藤本を呼んだ。七十近い人だった。本堂に上がってすぐ、床を踏んで首を振った。

「これはあかん。柱の根元が三本、完全にいっとる。シロアリやな。床板も数枚、踏み抜く寸前や。人を大勢入れる前に直さんと、怪我人が出る。いや、最悪落ちる」

修繕の見積もりが来たのは二週間後だった。金額を見て、章人はしばらく見積書を食卓に置いたまま触れなかった。

藤本は帰り際に境内をゆっくり歩いた。石灯籠の苔を指で触れ、本堂の軒を見上げ、古い井戸の縁を叩いた。

「息子に断られてな。大工の跡継ぎや。東京で設計の仕事しとるから嫌や言うて。あんたんとこみたいな古い寺、もうあんまり直す人間おらんようになるで。技術が消えるいうのは、そういうことや」

藤本は最後にもう一度、本堂の柱の、まだ生きている上の部分を手で触れた。

三 荘厳なき護摩は護摩ではない

仏具屋の河合が来た。六十代。本堂を一周してからため息をついた。

「護摩壇の打敷が色褪せとる。輪灯の油皿がひとつ欠けとる。香炉もこれ、もうだめですわ。護摩には正式な荘厳が要ります。不動明王様の前を整えんことには、護摩の体をなしません」

河合はカタログを置いていった。帰り際に言った。

「護摩木の仕入れ先が変わりましてね。以前は紀州の業者から取っとったんですが、廃業しまして。お父様が毎年百二十本注文いただいとったんです。今年はどうされるかと思って」

父が毎年百二十本注文していた。百二十本の護摩木に、父は何を込めていたのか。章人には一度も聞けなかった。

四 お兄さんはこうやっとった

総代の村上が来た。七十八歳だった。呼んでいないのに来た。

「お兄さんはな、大祭の前月から準備しとったわいや。護摩木の数を自分で数えて、壇の向きを確かめて。段取りがよかったなあ。先代にそっくりやった。あんたは……お母さんに似とるな」

章人の母は、章人が十二歳のときに死んでいた。

村上は気にする様子もなく続けた。

「お兄さんは護摩木に一本一本、墨で願意を書いとった。頼んでもいないのに。あれは丁寧な人やった。あんたもやったほうがいいぞ」

一時間後、村上はまだ話していた。章人は兄の話を聞きながら、兄の顔を思い出せなくなっていることに気づいた。最後に見た顔は病院のベッドの上の顔で、それが兄の顔に上書きされていた。

村上が四度目に来た日、章人は「村上さんは、兄のことが好きだったんですか」と聞いた。

「好きやったな。あの子は、先代が生き返ったみたいやった。わしは先代に世話になったから、健一くんを見るたびに先代を思い出した。あんたは、あんたでええんや。ただわしには、お兄さんのやり方しか知らんから、それしか言えん。それだけのことや」

五 記事にしますので

地元紙の記者・田所が来た。三十代の女性だった。

「廃れかけた大祭を若い後継者が復活させる記事は読者の反響が大きいんです。ぜひ取材させてください」

一時間後、章人は自分の生い立ちから親父との関係まで、頼んでもいないのに全部話していた。

田所が帰り際に言った。

「復活できたらまたぜひ。写真も撮らせてください」

文化部に来て七年になるという。廃寺の記事を十四本書いた。祭りが消えた記事を九本書いた。復活の記事は、まだ一本もなかった。

六 隣の宮司さん

白鷹神社の若い宮司が来た。お菓子を持っていなかった。

「清水さん、護摩ってノウマク・サンマンダ・バザラダンですか」

章人が固まった。

「なんで知ってるんですか」

「子供のころ聞いたら入りました」

章人はしばらく若い宮司を見てから、お菓子をもう一個置いて帰った。

その後、章人は何度か白鷹神社に顔を出した。特に用はなかった。同じ状況の人間がいることが、何かの足しになった。

行くたびにお菓子を持っていった。どこのお菓子がいいか、少し考えた。父が総代や檀家に必ず手土産を持っていたことを思い出した。何の菓子だったかは覚えていないが、必ず何か持っていた。

七 十月十四日、前夜

伝法灌頂はない。兄のやり方は知らない。父のやり方は知らない。護摩木が百二十本、倉庫にある。

章人は夜中に本堂に入った。護摩壇の前に座った。

父が最後に言ったことを思い出した。

「健一に教えたことは、何もお前に教えられなかった。すまん」

父は何を謝っていたのか。教えられなかったことを謝っていたのか。継がせることになったことを謝っていたのか。

どちらかわからないまま、父は逝った。

章人はろうそくを一本灯した。炎が揺れた。

八 十月十五日

章人は朝五時に起きた。父の法衣を引っ張り出した。サイズが合わなかった。兄の法衣も残っていた。そちらは少し合った。

本堂の電気をつけた。護摩壇の前に座った。護摩木が百二十本、横に積んである。

護摩木を一本手に取った。何も書いていない。兄は一本一本に墨で願意を書いていたという。章人には何を書けばいいかわからなかった。

ろうそくに火を入れた。何をすればいいか、わからなかった。

山門がきしんだ。村上だった。後ろに田所がいた。カメラを持っていた。河合が来た。護摩木を点検して、何かを直した。西田が来た。法衣を着ていた。

白鷹神社の若い宮司が来た。グレードの上がったお菓子を持っていた。

坂本も来た。

西田が護摩壇の前に座った。

「私が今日だけ、お手伝いします。見ていてください」

章人は横に座った。火がついた。護摩木が燃えた。煙が上がった。

章人は煙を見ながら、父が百二十本の護摩木に何を込めていたかを考えた。わからなかった。でも、来年は自分で書こうと思った。

夕方、全員が帰った後、本堂に一人で座っていた。護摩の煙の匂いが残っていた。

伝法灌頂は、まだない。兄のやり方は、まだ知らない。父のやり方も、まだ知らない。

来年も、おそらく同じことになる。それでも来年は、護摩木に何かを書こうと思った。

〇 〇 〇

五人が来た。五人とも正しかった。

だから何も準備できなかった。

それでも護摩は、焚かれていた。

第二作 祭礼、整わず

——大野猛・若宮司——

爺さんが死んだのは、去年の秋の大祭が終わった三日後だった。

大祭の前日、爺さんはこう言った。

「この祭礼が終わったら、引退するよ。猛もそろそろ一人でできるだろ」

大野猛は十八歳だった。その言葉がどういう意味を持つか、その時はわからなかった。

大野家の神社は真光寺の隣にある。白鷹神社という。

猛は幼い頃から爺さんの背中を見ていた。父親は関係なかった。東京で会社員をしている。継ぐ気は最初からなかった。

だから爺さんは猛に全部渡した。

猛が五歳のとき、爺さんが祝詞を上げるのを聞いていたら、翌日には全部言えた。爺さんが驚いていた。猛には意味がわからなかった。音として入っただけだった。

それと同じ頃、隣の真光寺の住職が般若心経を唱えるのを聞いた。翌日には全部言えた。浄念寺の正信偈も、聞いたら入った。爺さんが「お前は天才だ」と言ったが、猛には天才の意味もわからなかった。

ただ入った。それだけだった。

爺さんが廃業を考えていた頃の話だ。猛を見て、やめた。

猛には関係のない話だった。バズりそうだし、面白そうだから続けている。それだけだ。

一 伝法灌頂が先です(神社庁版)

神社庁から橘という人間が来た。五十代、生真面目そうな男だった。

猛が「秋の大祭で真光寺と浄念寺と合同でやりたい」と言うと、橘は眉間に皺を寄せた。

「それは神仏混淆です。明治の神仏分離以降、神社と寺院の祭祀は明確に区別されています。合同開催は神社庁として認めることができません」

大祭まで、あと四ヶ月だった。

橘が帰り際、鳥居のところで止まった。

「お爺様とは、存じ上げておりました。神仏分離以前、白鷹神社と真光寺は一体でした。お爺様はいつかその形に戻したいと、何度も相談に来られていました。許可が下りる前に、お亡くなりになってしまいましたが」

爺さんが神社庁に相談しに行っていた。猛はその話を一度も聞いたことがなかった。

「大野さん、あなたのやり方は私には認めることができません。ただ、お爺様が望んでいた結果と同じ方向を向いているのかもしれない、とは思っています」

とりあえずTikTokに上げようと思った。

二 昔は一緒やった

氏子の古老・松本が杖をついて来た。八十五歳だった。

「昔はな、全部一緒やったんや。神社の祭りも、お寺の法要も、全部同じ日に同じ場所でやっとった。わしが子供の頃はまだその名残があったな……あのころは人も多かった。今は減ったなあ。わしの同級生もほとんど逝って……」

猛は「一緒にやりたいんですよ」と言った。松本が目を輝かせた。

一時間半、昭和初期の祭りの話をした。猛は途中から、TikTokのネタにならないか考えながら聞いていた。

松本が帰り際に言った。

「お前の爺さんはな、お前のことが自慢やった。お前が五歳で祝詞を全部言えたとき、泣いとったわいや。孫がおったから続けられる、って。あの人、お前が生まれるまで廃業しようとしとったんやから」

爺さんが泣いていた。猛にはその記憶がなかった。

三 補助金の対象外です

市役所の文化財担当・高田が来た。三十代の女性だった。

「神社と寺院の合同開催という形は、補助金の対象外になります。どちらの区分にも入らなくなってしまうんです」

猛は「補助金なくてもできますよ」と言った。高田は少し困った顔をした。

「あと、TikTokのアカウント、フォローしました。SUNO使って般若心経と太鼓、面白いですね。サムネイルが少し弱いかもしれないですけど……実は私、副業でデザインやってまして。よければサムネイルのお手伝いできますよ」

補助金の対象外だと言いに来た人間が、サムネイルのデザインを申し出た。猛は「お願いします」と言った。

四 どれも変わらんくね?

隣の真光寺の住職・章人が来た。お菓子を持ってきた。同い年だった。

護摩の説明を聞いていたら、猛は言った。

「あの、それって、ノウマク・サンマンダ・バザラダン、ですか」

章人が固まった。

「なんで知ってるんですか」

「子供のころ聞いたら入りました」

章人はしばらく猛を見てから、お菓子をもう一個置いて帰った。

後日、章人が坂本を連れてきた。三人で本堂に座った。

猛は「三つ一緒にやりたい」と言った。坂本は「報恩講は十一月です」と言った。章人は「護摩は十月です」と言った。

「じゃあ同じ週にやれば。どれも変わらんくね?」

章人が「全然違います」と言った。坂本も「全然違います」と言った。二人の声が揃った。

三人はしばらく黙っていた。

「まあ、同じ週にやるのはいいんじゃないですか」と坂本が言った。

「そうですね」と章人が言った。

猛は「TikTokに三つまとめて上げます」と言った。二人がまた顔を見合わせた。

五 祭りでライブやらして

奥孝臣が神社に来たのは九月の終わりだった。「むじん乱造ジゴク」という名前は猛も知っていた。同い年だった。

「大祭でライブやらして。絶対盛り上がるから。俺の曲、神社に合うし」

猛はその場で曲を聞いた。確かに神社に合う。理由はわからないが、合う。

「いいね!バズりそう!ぜひやって!」

それから孝臣はやたら神社に来るようになった。来るたびに、栞が「またこれか」という顔をした。猛には「またこれか」の意味がわからなかった。

六 大祭前夜

栞が押しかけてきたのは夜の九時だった。猛は部屋で寝落ちしていた。

「リハくらいやりなさいよ! わ、わたしまで恥かくじゃない!!」

猛が起き上がったとき、布団の横に本が転がっているのに気づいた。栞も気づいた。猛はとっさに布団の下に押し込んだ。栞の顔が少し赤くなった。何も言わなかった。

二人で神社に行った。段取りを確認しながら、猛は気づいた。自分が宮司として何をするか、半分しかわかっていない。

「ちょっと待って。お前、宮司の動きわかる?」

「わかるけど」

「じゃあやってみせて。俺、後ろからついていく」

栞は五秒くらい固まってから言った。

「……わかった。でも絶対SNSに上げないでよ」

「上げないよ」

栞が装束をつけた。猛は見た瞬間に思った。宝塚みたいでかっけぇ。

「宝塚みたいでかっけぇ」

「うるさい!!」

リハーサルが始まった。栞が前を歩く。猛が後ろからついていく。動きは完璧だった。

猛はスマホを取り出した。三十秒考えてから、TikTokのライブ配信ボタンを押した。

栞が気づいたのは二分後だった。

「なんで配信してるの?!」

「ごめん、押した」

「やめて!!」

「でも今二千人見てる」

栞は固まった。それでも動きをやめなかった。プロだと思った。

配信を切った後、万バズだった。

「こ、こんなのこれっきりなんだから!!」

猛はコメント欄を見ながら「そうだね」と言った。栞の横顔が、本当に可愛かった。

七 大祭当日

朝から栞が来た。今度は巫女服を着ていた。

「おお、似合う! 可愛い!!」

「し、仕事しなさいよ!」

耳まで真っ赤だった。昨日より赤い気がした。

橘が来た。松本が来た。赤飯を持っていた。高田が来た。カメラを持っていた。章人が来た。グレードの上がったお菓子を持っていた。坂本も来た。孝臣が来た。ギターを持っていた。

猛は祝詞を上げた。完璧に言えた。五歳のときから入っているから当然だった。

でも今日は意味を考えながら言った。音として唱えていたものが、少しだけ言葉になった気がした。

祝詞が終わった。

猛は続けた。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン……」

般若心経だった。

橘が少し目を丸くした。章人が少し目を細めた。

誰も何も言わなかった。

般若心経が終わった。猛はそのまま続けた。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光……」

正信偈だった。

坂本が少し顔を上げた。

誰も何も言わなかった。

正信偈が終わった。境内が静かだった。

孝臣がマイクを持った。

「うおーーー! 永眠バラード!!」

栞がよろけた。巫女として本堂の前に立っていたが、完全によろけた。曲名を初めて聞いた。永眠。そっち系だ、と瞬時にわかった。絶対そっち系だ。タイトルがもう全部言っている。

でも曲が始まった。バトルアニメのロックだった。境内が沸いた。

人が増えた。地域の人間が来た。隣の真光寺の大祭から流れてきた人間も来た。浄念寺の報恩講から流れてきた人間も来た。誰も合同にしていなかった。でも全部繋がっていた。

ライブが終わった後、孝臣が猛の横に来た。汗だらけだった。楽しそうだった。

「最高だった。いやー最近ついてるわー。何やっても——」

栞が孝臣の口を塞いだ。

「んー! んー!!」

栞が孝臣を引き離して言った。

「あんたらの一族、どんだけ懲りないのよ!!」

猛には意味がわからなかった。栞は何も説明しなかった。孝臣は少し黙った。

夕方、全員が帰った後、猛は境内に一人で座っていた。

爺さんが言っていた言葉を思い出した。「この祭礼が終わったら、引退するよ」

爺さんは引退する前に逝った。

猛は来年も同じことをやると思った。再来年も。その次も。バズるかどうかはわからない。でも続ける気がした。理由はよくわからなかった。

〇 〇 〇

全員が来た。全員が正しかった。

だから何も整わなかった。

それでも祭礼は、始まっていた。

第三作 報恩講、始まらず

——坂本義彦・浄土真宗——

親父が死んで半年が経った。

正確には、住職だった親父が死んで、跡を継ぐ人間が誰もいなくなって、消去法で自分が残った、という話だ。弟は大阪で飲食店をやっている。姉は嫁いで横浜にいる。俺は金沢でくすぶっていた。

親父は死ぬ前年にこう言った。

「お前が戻ってくる必要はない。わしがまだやれる」

その翌年、親父は逝った。

寺の名前は浄念寺という。大谷派。山際にある。隣に真光寺があり、さらに隣に白鷹神社がある。門徒数は最盛期の三分の一以下になっていた。

それでも十一月になれば報恩講がある。いや、あるべきだ。先代の親父は毎年やっていた。俺は十月の頭から動き始めた。

六人の人間が来た。六人とも親切だった。六人とも正しかった。

一 得度が先です

宗派の事務所から中川という布教使が来た。五十代、痩せた男で、黒衣の着こなしに澱みがなかった。

「得度が先です。僧籍のない方が法要を執行されるのは、宗派として認めることができません。得度には所定の研修と試験がございまして、最短でも半年ほどかかります」

十一月まで、あと四ヶ月だった。

中川が帰り際、山門のところで少し止まった。何かを言おうとして、やめた。それだけだった。

後で島田さんから聞いた話だ。中川は以前、能登の過疎地の寺に布教使として赴任したことがある。三年いた。報恩講を三回やった。一回目は二十人。二回目は十四人。三回目は八人だった。正式な得度を持つ正式な住職が、正式な荘厳を整えて執り行った報恩講だった。中川がその寺を離れる時、寺は無住になった。今もそのままだという。

中川が山門で止まった理由を、俺はずっと後になってから考えた。布教使として来ている以上、言える言葉と言えない言葉がある。中川は正しかった。だから何も言えなかった。

二 柱が腐っとる

大工の棟梁・藤本を呼んだ。七十近い人だった。縁の下を懐中電灯で照らしながら言った。

「柱の根元が三本、完全にいっとる。シロアリやな。床板も数枚、踏み抜く寸前や。人を大勢入れる前に直さんと、怪我人が出る。いや、最悪落ちる」

修繕の見積もりが来た。金額を見て、俺はしばらく見積書を食卓に置いたまま触れなかった。

藤本は悪い人ではなかった。むしろ親切だった。だから余計に、何も言えなかった。

三 荘厳なき報恩講は報恩講ではない

仏具屋の河合が来た。本堂を一周してからため息をついた。

「打敷が色褪せとる。輪灯の油皿がひとつ欠けとる。華瓶はこれ、もうだめですわ。報恩講には正式な荘厳が要ります。阿弥陀様の前を整えんことには、法要の体をなしません」

カタログを置いていった。俺はそれを棚に立てかけて、見積書の横に並べた。

四 先代はな、前日から準備しとった

門徒の古老・島田さんは八十二歳だった。呼んでもいないのに来た。

「先代はな、十月に入ったら準備始めとったわいや。前日はほぼ徹夜やった。赤飯炊いて、煮物作って、門徒さんみんなに連絡して。わしも若い頃は手伝ったもんや。昭和四十年頃の話やけどな……あのころは人も多かった。今は減ったなあ。わしの同級生もほとんど逝って……そういや去年、田中のじいさんも……」

一時間後、島田さんはまだ話していた。俺はお茶をつぎ直しながら、うなずき続けた。

島田さんが三度目に来た日、俺はふと気づいた。島田さんは毎回、同じ話をしない。順番に、少しずつ、違う話をしていた。

ある日、俺は聞いてみた。奥さんはどうされているんですか、と。

「十三年前や。ここの報恩講の三日後に逝った」

それから何事もなかったように赤飯の炊き方の話を続けた。

島田さんは報恩講のことを何も教えてくれなかった。でも俺に、報恩講が何のためにあるかを教えてくれた。

五 記事にしますので

地元紙の記者・田所が来た。三十代の女性だった。

「廃れかけた報恩講を若い後継者が復活させる記事は読者の反響が大きいんです。ぜひ取材させてください」

一時間後、俺は自分の生い立ちから親父との関係まで、頼んでもいないのに全部話していた。

「復活できたらまたぜひ。写真も撮らせてください」

復活できたら、という話だった。

田所が二度目に来た日、俺は「復活の記事を書いたことはありますか」と聞いた。

「ないんですよね、まだ。文化部に来て七年。廃寺の記事を十四本書きました。でもここは、なんか違う気がして。理由はうまく言えないんですけど」

六 隣の住職さん

隣の真光寺の住職・章人が来た。お菓子を持ってきた。

「うちはね、秋の大祭のときに護摩を焚くんですよ。ノウマク・サンマンダ・バザラダン……」

浄土真宗に護摩はない。不動明王もいない。阿弥陀如来一仏だ。俺はお菓子を食べながら、真言宗の話を四十分聞いた。

章人はその後、何度か来るようになった。来るたびにお菓子のグレードが上がっていった。

白鷹神社の若い宮司も来た。章人と一緒のこともあった。三人で話した。宮司は「どれも変わらんくね?」と言い、俺と章人は「全然違います」と声を揃えた。

報恩講の前日、清水から連絡があった。当日行きます、と。

七 十一月二十七日、前夜

得度は間に合わなかった。柱は腐ったままだ。仏具は揃っていない。門徒への連絡は五軒しか取れなかった。

俺は夜中に本堂に入った。電気をつけずに、ろうそく一本だけ灯した。阿弥陀様の顔が揺れていた。

親父がここで何十年もここに座って、何を考えていたのか。

明日、何人来るかわからない。誰も来ないかもしれない。それでも朝になったら読経を始めようと思った。

八 十一月二十八日

得度は間に合わなかった。

本堂の修繕は、見積書が棚に立てかけられたまま動いていない。仏具カタログはその隣にある。

俺は朝五時に起きた。親父の衣を引っ張り出して着た。サイズが合わなかった。帯を締めながら、自分が何をしているのかよくわからなかった。

本堂の電気をつけた。埃っぽい匂いがした。阿弥陀様の前のろうそくに火を入れた。打敷は色褪せたままだ。華瓶は壊れたままだ。床は踏み抜く寸前のままだ。

俺は正信偈を開いた。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光……」

声が出た。下手だった。節がよれた。親父の声を思い出した。全然違った。それでも続けた。

山門がきしんだ。近所のおばちゃんだった。

「やっとるんかい。入っていいけ?」

おばちゃんは本堂に上がって、阿弥陀様の前に座って、手を合わせた。

三十分後、また山門がきしんだ。島田さんだった。赤飯を持ってきていた。

章人が来た。お菓子を持っていた。本堂の前で手を合わせた。真言宗の住職が浄土真宗の阿弥陀様の前で手を合わせていた。

白鷹神社の宮司も来た。何も持っていなかった。後で聞いたら大祭の翌週だったらしい。

一時間後、俺は知らない顔を十五人数えた。

誰かが外でストーブを焚いていた。誰かが甘酒を配り始めていた。どこかから折り畳みテーブルが出てきた。

俺は正信偈を三回読んだ。

夕方、全員が帰った後、本堂に一人で座っていた。ろうそくが燃え尽きるまで、何もしなかった。

得度は、まだしていない。柱は、まだ腐ったままだ。仏具も、まだ揃っていない。

来年も、おそらく同じことになる。そして来年も、おそらく誰かが来る。

〇 〇 〇

六人が来た。六人とも正しかった。

だから何も準備できなかった。

それでも報恩講は、始まっていた。

終 日向栞のこと

——日向栞——

一 動きで覚える子供

日向栞が白鷹神社に初めてお手伝いに行ったのは、保育園の年長のときだった。

大野家とは昔からの付き合いだった。猛とは保育園から同じだった。

初めてお手伝いに行ったとき、栞は大野の爺さんの動きをずっと目で追っていた。爺さんは丁寧な人だった。一つ一つの動作に意味があった。鈴を鳴らす角度、祝詞を唱える時の手の位置、神饌を置く順番。意味はわからなかった。でも動きが頭に入った。

【一回目のお手伝い・年長の秋】

爺さんが鈴を鳴らした。右手から左手へ、三回。

帰り道、猛が言った。

「じいちゃん、長いことブツブツ言ってたね」

「うん」と栞は言った。

猛には音が入っていた。栞には動きが入っていた。その時は二人ともそのことを知らなかった。

二回目は小学一年生の春だった。爺さんが祝詞を唱え始めた瞬間、栞は次の動きがわかった。次に右足が前に出る。次に両手が上がる。次に頭が下がる。全部わかった。わかったが、何も言わなかった。

【三回目のお手伝い・小学一年生の夏祭り】

爺さんが本殿の前に立った。栞はその後ろで、次の動きを全部把握していた。

猛が栞の隣に来て、耳打ちした。

「じいちゃん、また長いやつ言ってる。俺もう全部言えるよ」

栞は「すごいね」と言いながら、爺さんが次に振り返ることを知っていた。爺さんが振り返った。栞と目が合った。爺さんが少し驚いた顔をした。

その瞬間、猛が言った。

「じいちゃん! 俺、全部覚えた! 聞いてて!」

爺さんは猛を見た。猛が祝詞を全部言った。完璧だった。爺さんが目を丸くして、猛を抱きしめた。

「たっくん、なんか覚えてる! 長いのにすごーい」と栞は言った。

爺さんが泣いていた。

栞は、自分が次の動きを全部把握していることを、誰にも言わなかった。言う機会がなかった。それだけのことだった。

それから十六年が経った。爺さんは死んだ。猛が宮司になった。栞は今年も白鷹神社のお手伝いに来ている。またこれか、と思いながら。

二 またこれか

猛が宮司になってから、栞は何度「またこれか」と思ったかわからない。段取りがわからない。神社庁に怒られる。古老の話が止まらない。全部、爺さんも通ってきた道だった。

違うのは、爺さんには時間があったことだ。猛には時間の概念がない。TikTokで解決しようとする。

「どれも変わらんくね?」

猛が真言宗の住職と浄土真宗の後継者を連れてきてそう言ったとき、栞は「いや、全然違うって!」と言った。言いながら思った。爺さんが十年かけてやろうとしていたことを、猛が三秒で言った。結論は同じだった。

ある夜、栞は神社の境内を一人で歩いた。本殿の前に立った。次の動きが全部わかった。今でも。十六年経っても消えなかった。爺さんの動きが体に入っている。猛には音が入っている。二人合わせて一人分だ、と思った。そう思ったら少し可笑しくなった。笑いながら、少し泣きそうになった。

三 死亡フラグ乱造マシーン

栞が「またこれか」と思うのは、猛の段取りの悪さだけではない。大野家の男は、節目節目で死亡フラグを立てる。

爺さんが「この祭礼が終わったら引退するよ」と言った。三日後に逝った。栞はその言葉を聞いた瞬間に、背中が冷えた。でも何も言えなかった。

奥和也のことも知っている。

【小学三年生の夏】

奥和也がギターを持って神社に来た。爺さんに「祭りで歌わせてほしい」と頼んでいた。爺さんが少し考えてから「ええよ」と言った。

ライブは盛り上がった。栞も見ていた。声がよかった。

終わった後、和也が爺さんに言った。

「最高でした。最近ついてるんですよ。地元に帰ってみんなで飲もう! ——」

爺さんが少し顔色を変えた。栞には爺さんの顔色の変化がわかった。動きを見ていたから。でも何も言えなかった。小学三年生だったし、何を言えばいいかわからなかった。

和也はその年の冬、事故で亡くなった。孝臣が生まれる前だった。

奥孝臣が神社に来て「祭りでライブやらして」と言ったとき、栞は父親と同じ目をしていると思った。夢を持った人間の目だ。悪い目ではない。でも栞には怖かった。

猛には孝臣の父親のことを話していない。話す機会がなかった。

四 これ、私じゃん

大祭の前夜、栞が猛の部屋に押しかけた。猛は寝落ちしていた。

「リハくらいやりなさいよ! わ、わたしまで恥かくじゃない!!」

叩き起こして神社でリハーサルをした。猛の装束をつけた。鏡を見た。思ったより似合っていた。

「宝塚みたいでかっけぇ」

「うるさい!!」

リハーサルが始まった。動きは完璧に出た。十六年分が体に入っているから当然だった。猛が後ろからついてきた。二人合わせて一人分だ、と再び思った。

二分後、猛がTikTokのライブ配信を始めた。

「なんで配信してるの?!」

「ごめん、押した」

やめることもできた。でもやめなかった。やめたら二千人に途中で終わったところを見せることになる。栞は最後まで動いた。

万バズだった。

「こ、こんなのこれっきりなんだから!!」

二人で猛の部屋に戻った。本が一冊、布団の横に転がっていた。表紙を見た。パラパラとめくった。冒頭を読んだ。主人公は幼馴染の幼い頃から神社のお手伝いをしている女の子だった。保育園から手伝っている。

三ページ読んで本を閉じた。

「これ、私じゃん」

「い、いや、全然違う、偶然だよ」

栞は本を猛の胸に押しつけた。

「覚えておきなさいよ」

何を覚えておくのかは言わなかった。自分でもよくわからなかった。

片付けをしながら、二人で境内を回った。ストーブを片付けて、折り畳みテーブルを倉庫に戻して、お賽銭を確認した。

特に何も言わなかった。でも悪くない時間だった。

神社の電気を落として、鳥居のところまで来たとき、猛が言った。

「この後さ、久しぶりに一緒にお風呂とか入って、久しぶりにお泊まりする?」

栞は一秒固まった。

「するか!! そのまま台本通りじゃない!!」

猛が笑いながら言った。

「お前の次のセリフが見えるようになった」

それが一番腹立たしかった。

「さ、さっさと寝なさいよ!!」

栞はそのまま歩き出した。

猛が後ろから言った。

「爺さんの部屋に布団あるよ」

栞は振り返らなかった。

振り返らなかったが、足は神社の方に向いていた。

五 大祭当日

朝から神社にいた。

爺さんの部屋で寝た。それだけのことだった。

巫女服を着た。鏡を見た。昨日の宮司コスプレより、ずっと恥ずかしかった。昨日は猛の装束だった。今日は自分のものだ。

「おお、似合う! 可愛い!!」

「し、仕事しなさいよ!」

仕事をした。

猛が祝詞を上げた。完璧だった。

祝詞が終わった後、猛は続けた。般若心経だった。橘が少し目を丸くした。章人が少し目を細めた。誰も何も言わなかった。

般若心経が終わった後、猛はそのまま続けた。正信偈だった。坂本が少し顔を上げた。誰も何も言わなかった。

栞は本堂の前に立ちながら、何も言わなかった。

言う気になれなかった。

孝臣がマイクを持った。

「うおーーー! 永眠バラード!!」

栞はよろけそうになった。本堂の前に立ちながら、巫女として、ぐらっとした。

曲名を初めて聞いた。永眠。永眠バラード。そっち系だと瞬時にわかった。絶対そっち系だ。タイトルが全部言っている。和也が「死亡フラグの凱旋」を歌った場所で、息子が「永眠バラード」を叫んでいる。

でも曲が始まった。バトルアニメのロックだった。父親に似た声だった。

境内が沸いた。

栞は本堂の前に立ちながら、少しだけ目が熱くなった。巫女服だから泣けない、と思った。

ライブが終わった後、孝臣が猛の横に来た。汗だらけで楽しそうだった。栞は孝臣の表情を見た瞬間にわかった。来る。

「最高だった。いやー最近ついてるわー。何やっても——」

栞は全力で孝臣の口を塞いだ。

「んー! んー!!」

栞が孝臣を引き離して言った。

「あんたらの一族、どんだけ懲りないのよ!!」

孝臣が固まった。それから小さく言った。

「……父さんのこと、知ってるんですか」

「ちょっとだけ」

孝臣は何も言わなかった。でも少し、目が赤くなった。猛はまだ「どういう意味?」という顔をしていた。

六 夕方、境内で

全員が帰った後、栞は境内に残っていた。猛も本殿の前に座っていた。二人とも黙っていた。

猛が言った。

「栞って、いつから動き覚えてたの」

「三回目のお手伝いのときには全部わかってた」

「三回目って小一の夏?」

「うん」

「言えばよかったじゃん」

「言う機会なかったもん。たっくんが祝詞全部言って、爺さんが泣いて、そっちで全部終わったんだもん」

猛は「そっか」と言った。それだけだった。

少し間があってから、猛が言った。

「あの本、ごめん」

「別に」

「偶然だよ、本当に」

「わかってる」

本当にわかっているかどうかは自分でもわからなかった。でも、わかってる、と言った。

猛が祝詞を小声で唱え始めた。完璧だった。それから般若心経になった。それから正信偈になった。誰もいない境内で、三つ続けて唱えていた。

栞は猛の声を聞きながら、次の動きを頭の中でなぞった。音と動きが合わさった。

二人合わせて一人分だ。

今日初めて、それが悪くないと思った。

〇 〇 〇

爺さんは引退する前に逝った。

兄は来年の大祭を焚く前に逝った。

親父はまだやれると言って逝った。

和也は地元でみんなと飲む前に逝った。

それでも祭礼は、護摩は、報恩講は、続いていた。

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第三章

神楽

第一話

凛は、ある事情から若くして忍の道を退き、武士の道——いわゆる「姫武者」として歩み直していた。

兄・雷斗の隊が敵に包囲され身動きが取れなくなったと知った凛は、援軍として現地へ向かうことを決めた。しかし敵軍は忍だけで構成されている。武士のみの部隊を送れば、あっという間に全滅するだけだ。

凛は考えた。

——行くのは私一人だけでいい。損害を最小限に抑えるほうがいい。

凛は自隊に告げた。「三日間、休暇とする。」

数時間後、彼女は跡形もなく姿を消した。

その夜、凛と同世代の女忍・霞のもとへ、一人の訪問者があった。

霞自身がその者のもとを訪ねると、こう言われた。「霞、今夜は伝説の忍『神楽』の、めったに見られない“貴重な場面”が見られるかもしれないよ。」

「何それ、おもしろそう」と霞は答えた。

「凛は兄を見捨てないはずだから。三光寺の森の出口で隠れて待てばいい。あそこに『現役時代の隠れ家』がある。絶対にそこを通るはずだ。」

「凛が神楽だって、どうしてわかるの?」

「雷斗くんに聞いた。」

第二話

凛は三光寺の山奥にある人里離れた隠れ家へと入った。兄から授かった刀を神棚に置き、久しぶりに「神楽」の衣装に袖を通した。

忍にしては意外なほど鮮やかな色使いながら、動きやすく洗練されたデザイン。艶やかではあるが、けして下品ではない。

身に纏うたびに、少しだけ気恥ずかしくなる。——でも今はそれどころではない。

体のあちこちに、時折こっそり手入れに来ていた特殊な武器と道具を忍ばせた。

扇刀、苦無、手裏剣、鉤縄、短刀、吹き矢。

爆薬はいらない。鎖鎌も邪魔になるだけだ。

武器を精選しなければ、それだけで向こうへ行くことになる。

この山の水で造られた酒は、高級品として名を馳せていた。その名も「神楽」という。

彼女が飲んだのは酒ではなく、水だった。

酒は兄への土産だ。

ここに隠してあった。

——兄さん、頼むから……誕生日のその日に死なないでください……

第三話

隠れ家を出た凛は、夜の闇に溶け込みながら森を進んだ。物音ひとつ立てず、風に紛れるような軽やかな動きで。忍として鍛えた体が、自然と最適な所作を選び取っていた。

谷を越えた丘の上に、敵の陣が広がっていた。あちこちにかがり火が散らばり、見張りの忍たちが哨戒している。皆、鍛え抜かれた精鋭だ。正面から当たれば、凛であっても勝ち目はない。しかし神楽に、正面攻撃という選択肢はなかった。

凛はまず、離れた場所にいる見張りの一人を狙った。吹き矢が静かに放たれ、毒針が首筋に刺さる。男は声ひとつ上げずに崩れ落ちた。その瞬間、凛は次の標的へと忍び寄っていた。

一人、また一人と、敵が消えていく。

血の一滴も流さず、悲鳴ひとつ上げさせず——まるで影が広がるように、ただ数が減っていくだけだった。

敵陣の中に異変に気づく者はいない。否、気づいた時にはもう遅かった。

凛は考えた。——奴らに逃げ道を作ってやらなければ。

意図的に混乱を引き起こし、敵の集中を分散させる。

目の前には、籠城する兄の隊がいる。籠城といっても、閉まった商家の建物の中へ逃げ込んでいるだけだ。

兄はこの山をよく知っている。人目につかない下山路も知っているはずだ。やるしかない。山火事を起こして、「全員の」退路を断つ。

私は……そうだ。風神楽で隠れ家まで戻る。ただし、その後まで力が残っていれば、の話だが。

あれを使った後、十分間はまともに立っていられない。予備の命が百は要る。最も激しく燃える炎の中へ走り込み、誰も追えない速さで駆け抜ける。持続時間はわずか五分——それが最長記録だ。しかもその時は気を失ったのだから、ここでやれば直接向こうへ行くことになりかねない。

凛はかがり火から小枝を取り出し、風下の草むらへと投げ込んだ。

第四話

山の風が炎を広げるのに、さほど時間はかからなかった。

凛は持参した武器すべてを、目立たない場所に投げ捨てた。身を軽くしなければ、何もできない。

燃えていない木だけを伝いながら、一気に山の麓へと駆け下りた。

助走に一分使ったとして、本当の風神楽はどれだけ持つだろう。

速度はある。しかし視野が狭まっていく。

風神楽は、減速も方向転換も高低差のある動きも、ほとんど許さない。先代でさえ、実戦で使ったのはほんの数回だったという。

炎によって敵は散り散りになり、連絡網は断ち切られ、完全に浮き足立っていた。

敵の姿が視界から消え、もうすぐ隠れ家が見えるはずだと思った、その瞬間だった。体から力が抜け、足が滑った。

——まずい、回復する力が残っていない。でもこの高さなら、怪我だけで済むはずだ。

運がいいのか、それとも……?

第五話:霞の「エロ霞」劇場

月明かりの下、霞は凛の隠れ家へと忍び込んだ。扉に鍵はかかっていなかった。まあ、当然だろう。ここは凛だけが使う秘密の場所だ。そもそも、この場所の存在を知る者は限られている。

「さてと……」

霞は押し入れの中を確認し、部屋の隅に置かれた鎧へと視線を向けた。ずっと気になっていたものだ。凛が武士として動くようになってから誂えた、特注の鎧。霞は指先でそっと触れ、寸法とデザインを記憶に刻み込んだ。肩幅、腰の形、広い可動域、軽量化の工夫。いかにも凛らしい、デザインに一切妥協しない徹底した実用性だ。

「うーん……でも、私には似合わないかな。」

霞はくすりと笑い、鎧から手を離した。

外へ出ると、しばらくぼんやりと空を眺めていた。しかしその静寂を破るように、突然、上から何かが落ちてきた。

どすん!!!

「わあ、セクシー。」

霞は反射的に両腕を伸ばし、落ちてきた凛をしっかりと受け止めた。風神楽の余波で傷んだのか、衣装はボロボロだった。特に袖と裾が焦げており、明らかに限界の状態だった。

「服がボロボロのほうが、かえってエロいな。」

霞はおどけて呟きながら、気を失った凛を軽々と肩に担いだ。そのまま直接、隠れ家へと戻った。

部屋の中へ入ると、霞は凛をそっと床に横たえた。

「よし、着替えさせよう。」

霞は手際よく凛の神楽衣装を脱がせ、押し入れで見つけた何でもない普段着を着せた。適当に選んだわりにぴったり似合っているのは、さすが凛というべきか。

「完了。」

ところが霞は、押し入れに残された神楽衣装に目を奪われた。そしてその瞬間、好奇心がいたずら心へと変わった。

「……着てみようかな?」

霞は微笑みながら神楽衣装を手に取り、さっと身に纏った。

「エロ霞、誕生。」

鏡の前に立ち、いくつかポーズを取ってみた。しかしすぐに、どこか違和感を覚えた。

「あーん、ボリュームが足りない。」

凛の体に合わせて誂えた衣装は、霞にはいくつかの箇所でぴたりと合わなかった。特に胸と腰が余っている。

「うーん……これじゃ『色っぽい神楽』じゃなくて、『成長途中の神楽』だ。」

霞は肩をすくめながら衣装を脱ぎ、丁寧に畳んで元の場所に戻した。

最後に部屋を見回し、異変がないか確認する。すべてを元通りに整えると、音もなく隠れ家を後にした。

「よし、帰ろ。」

霞は夜の闇の中へ溶け込み、消えた。

第六話

凛は目を覚まし、あたりを見回した。隠れ家の静かな空間——いつもと変わらない、落ち着けるはずの場所だ。しかし体が感じる違和感が、何かを伝えていた。

まず、何かが違う。神楽衣装が丁寧に畳まれて押し入れに戻されているのを見て、ほっとした。しかし何かが足りない。眠っている間に別の服を着せられていることに気づいた凛は、思わず息をのんだ。

「……霞、だよね?」

この違和感、これほど鮮やかな「仕事」ができる女は、あのコスプレ好きの霞をおいて他にいない。霞にしかできない芸当だ。

痕跡は皆無だった。隠れ家の中は、何事もなかったかのように整然としている。しかし凛はその完璧さを見てとった。余計な干渉の跡は一切ない——それでいて確実に、鮮やかに「仕事」は遂行されていた。

「他の誰かなら、気づかなかったかもしれない……」

そう思いながら、凛はわずかに微笑んだ。霞の腕に驚きながらも、その意図を察し始めていた。自分がこの隠れ家で目を覚ましたこと自体、霞が段取りしたのだろうと。

「まあ、今更文句を言っても仕方ない。」

第七話:帰還

凛は静かに立ち上がり、鎧を身に纏うと隠れ家を出て、再び山を下ることにした。力は限界に近かったが、わずかに残る気力を絞り出しながら歩き続けた。風神楽の余波で体はボロボロだったが、意志の力だけで動いていた。

空は暗く、月の光が弱々しく道を照らしていた。凛の足音は静かに響き、その静寂が逆に不安を高めていく。それでも彼女は下山だけを目指し続けた。一刻も早く兄と隊に合流しなければならない。

山を下り終えた頃には、体が震えていた。風の冷たさも体に染み込んでくる。それでも凛の足は止まらなかった。胸の中に、兄の顔が浮かんでいた。あの人が無事なら、すべて報われる。

ようやく谷底に辿り着くと、遠くにかがり火の灯りが見えた。あれが兄の隊の集合地点だとすぐにわかった。胸の中で深呼吸をひとつして、その方向へと足を速めた。

しかし、隊の集合場所へ足を踏み入れた瞬間、待っていたのは予想外の光景だった。

かがり火の光が揺れる中、雷斗が驚いて立ち上がった。部下たちも、凛の姿を見て目を見開いた。

「凛!なんでこんな所に?」

「ちょっと、火遊びをしてきた。」

凛は肩をすくめて微笑んだ。

雷斗は一瞬呆気に取られたが、すぐに安堵の表情を浮かべ、苦笑いをした。

「お前、まさか……いや、考えるだけ無駄か。とにかく無事でよかった。」

「兄さんが無事なのが、一番大事なことです。」

短い言葉を交わした後、雷斗は凛の様子をじっと見つめた。衣服は汚れ、動きはぎこちない。明らかに満身創痍だ。しかしあえて、何も言わなかった。

「今夜はゆっくり休め。」

それだけ言うと、雷斗はかがり火の前に腰を下ろした。部下たちも安堵の息を吐き、それぞれの持ち場に戻っていった。

凛は無言でうなずき、かがり火の温もりを感じながら腰を落とした。疲労が一気に押し寄せてくる。

「……あの山火事のおかげで助かったんですよね。」

誰かが呟いた。

「ああ、あれがなかったら全滅してたな。」

「まさに天の助けだ。」

そんな部下たちの会話を耳にしながら、凛は目を閉じた。

——そう思っていてくれれば、それでいい。

かがり火の温もりが、じわりと眠りへ誘っていた。疲れ果てた体は、自然と深い眠りの中へと落ちていく。

火の粉が舞い上がり、夜空へと消えていった。

第四章

霧島

霧島玄を松任駅に呼んだのは、日曜日の朝だった。

十時に改札前、と送ったら「わかった」と一言だけ返ってきた。

私はその三分前に着いて、改札を眺めていた。

デートではない。断じてない。ただ、おばあちゃんの昔話を聞かせたかっただけだ。玄の部活の役に立てるかもしれないと思っただけだ。前の晩に爪を切って、髪をブローして、服を三回着替えたのは、別に関係ない。

改札が開いた。

玄が出てきた。

紙袋を持っていた。

私は紙袋が気になって「何それ」と聞いた。

「和菓子」と玄は言った。「お邪魔するから」

私はしばらく黙った。

この人、和菓子を持ってくる。手土産を持ってくる。高校生が。日曜日の朝に。

「……ありがとう」

「あと、これ」

玄がもう一枚、紙を出した。

印刷された原稿だった。タイトルが見えた。

「山へ芝刈りに」と書いてあった。

「うちの部で候補にしてる話。おばあさんに読んでもらえたらと思って」

私はその原稿を受け取った。

一枚目だけ読んだ。

七十歳の爺さんが娘に山に捨てられる話だった。

「これ……おとぎばなし?」

「一応」

「爺さんが捨てられてる」

「うん」

「捨てられて帰ってきたら知らない婆さんがいる」

「そう」

「桃割れたら桃太郎出てきて」

「そう」

「桃太郎、帰ってこない」

「帰ってこない」

私は原稿を大事に持った。

おばあちゃんが好きそうだと思った。

商店街を並んで歩いた。

日曜の午前中で、シャッターが半分開いていた。豆腐屋のおじさんが店先を掃いていた。

玄は商店街を歩きながら、キョロキョロしていた。

「何見てるの」

「看板」

「看板?」

「書体が面白い。昭和のやつと平成のやつと令和のやつが混在してる」

私には全部ただの看板に見えた。

「……そういうの、気になるんだ」

「素材になるから」

素材。玄はよく素材という言葉を使う。昔話も素材、看板の書体も素材。私の家のおばあちゃんも、たぶん素材だ。それがわかっていても、呼びたかった。

「有村さんちって農家なんだって?」と玄が言った。

「うん。田んぼと畑。おじいちゃんの代からずっと」

「何作ってる?」

「米とか野菜とか。果物も少し」

「白山のあたり、水がいいから米がうまいって聞いた」

「うまいよ」

玄は素直にそう言って、また看板を見た。

私は少し前を歩いた。

前を歩けば、隣を歩くより自然に顔が見えないから。顔が見えないほうが落ち着けた。

家の前まで来たとき、おばあちゃんがすでに縁側に出ていた。

庭を向いて座っていた。

「ばあちゃん、友達連れてきた」

おばあちゃんが振り返った。

玄を見た。

玄がまっすぐ頭を下げた。

「霧島玄と申します。お邪魔します。これ、よければ」

和菓子の紙袋を差し出した。

おばあちゃんがしばらく玄を見た。

それから私を見た。

それから玄を見た。

「まあ、入りなさい」

縁側から上がって、居間に通した。

おばあちゃんがお茶を入れた。玄は座布団の端に正座した。正座だった。椅子があるのに正座を選んだ。

和菓子の箱が開いた。

老舗の羊羹だった。

おばあちゃんが箱を見た。少し目が細くなった。

「あんた、どこの子?」

「金沢の方です。B高校です」

「さくらと同じ部活?」

「はい。動画研究会です」

「さくらがよくしゃべってる子ね」

私は聞こえていないふりをした。

お茶を飲みながら、玄が原稿をおばあちゃんに渡した。

「部活で使う話の候補なんですが、読んでいただけますか。忌憚なく感想を聞かせてほしくて」

おばあちゃんが原稿を受け取った。

老眼鏡をかけた。

読み始めた。

居間が静かになった。

私は羊羹を食べた。うまかった。

おばあちゃんが読んでいる。玄は正座のまま動かない。縁側から光が入っていた。庭の木が少し揺れていた。

五分くらい経った。

おばあちゃんが顔を上げた。

「これ、あんたが書いたの?」

「はい」

「七十歳の爺さんが娘に山に捨てられて」

「はい」

「帰ってきたら知らない婆さんが嫁だって言い張って」

「はい」

「桃割ったら子供出てきて」

「はい」

「桃太郎が帰ってこないで終わる」

「はい」

おばあちゃんはしばらく玄を見た。

「何年生?」

「二年です」

また沈黙があった。

おばあちゃんが私を見た。

私は何も言わなかった。

おばあちゃんが玄を見た。

「あれはただの変人じゃねぇ」

「え?」と私は言った。

「あんたに言ってんじゃない」

おばあちゃんは玄に向かって言っていた。

「型を持ってる。それも一個じゃない。あんたいくつ型を持ってる?」

「数えたことないです」

「数えたことない」

おばあちゃんは少し笑った。羊羹を一切れ食べた。

「昔話、聞きたい?」

「はい」と玄は即答した。

「どんな話がいい?」

「鹿児島の話があれば」

おばあちゃんの目が少し変わった。

「なんで鹿児島って知ってる」

「有村という苗字が鹿児島に多いので」

おばあちゃんは玄をしばらく見た。

それから私を見た。

それからまた玄を見た。

「面白い子連れてきたね」

私は何も言わなかった。

顔が熱かった。

おばあちゃんが話し始めた。

私は何度か聞いた話だった。でも玄が隣で聞いているのを見ながら聞くのは、少し違った。

玄はメモを取らなかった。ただ聞いていた。

おばあちゃんの話が終わった。

「ありがとうございます」と玄は言った。「入りました」

「入った?」

「頭に入りました」

「一回聞いただけで?」

「はい」

おばあちゃんがまた私を見た。

私はまた何も言わなかった。

顔が、さっきより熱かった。

昼過ぎ、玄が帰った。

玄関で「また来てもいいですか」と言った。

「いつでも来なさい」とおばあちゃんが言った。

「ありがとうございます」

玄が頭を下げて、出ていった。

私は玄関から道に出て、玄の背中を見ていた。

商店街の方に歩いていった。

途中で一度も振り返らなかった。

居間に戻ったら、おばあちゃんがお茶を飲んでいた。

「どう?」と私は聞いた。

「何が」

「玄のこと」

おばあちゃんがお茶を置いた。

「さくら」

「うん」

「あの子、あんたのこと何とも思ってないよ」

私はわかってた。

「うん」

「昔話を素材だと思って来てる」

「うん」

「それでもいいの?」

私はしばらく考えた。

「いい」

「なんで」

「だってすごいじゃん。一回聞いたら入るんだよ。型も持ってるんだよ。そういう人、他にいない」

おばあちゃんはしばらく私を見た。

それから少し笑った。

「まあ、そうだね」

守破離って知ってる?」

「剣術の?」

「剣術だけじゃない。茶道でも、武道でも、何でも使う言葉」

私は羊羹を置いた。

「守は、型を守ること。師匠から教わった型を、そのまま完璧に再現する。疑わずに守る」

「うん」

「破は、型を破ること。守り切った後で、自分なりに変えてみる。疑って、試して、壊してみる」

「うん」

「離は、型から離れること。守って破った後で、型を超える。自分だけの何かになる」

縁側から風が入ってきた。

「普通はね」とおばあちゃんは言った。「守に何年もかかる。格闘技でも剣術でも、師匠の元で何年も同じ動きを繰り返す。それだけで十年、二十年かかる人もいる」

「うん」

「破に行けるのは、守を完璧にした人間だけ。離に行けるのは、破を繰り返した人間だけ」

おばあちゃんがお茶を飲んだ。

「あの子は何年剣術やってる?」

「やってないと思う」

「格闘技は?」

「聞いたことない」

「武道は?」

「わかんない。たぶんしてない」

おばあちゃんが静かに言った。

「それが、ヤバいんだよ」

私は黙った。

「守を積み重ねた記憶がないのに、破のことをやってる。離の入口に立ってる。しかも本人が気づいてない」

「……なんで気づいてないの?」

「守をした記憶がないから。苦労した記憶がないから。最初からそこにいるから、自分がどこにいるかわからない」

風が止んだ。

「格闘技を何十年もやった人間が、やっとたどり着く場所に、あの子は最初からいる。どうやってそこに行ったのか、本人にも説明できない」

おばあちゃんが羊羹を一切れ取った。

「怖い子だよ」

私は庭を見た。

木が揺れていた。

「さくら」

「うん」

「あの子がいつかどこかで気づいたとき、隣にいたいならいなさい。気づかないままでもいいなら、それでもいい」

「どっちがいいと思う?」

「どっちでも一緒だよ」とおばあちゃんは言った。「あの子は気づいても気づかなくても、同じものを作り続ける」

縁側から光が入っていた。

庭の木がまた揺れていた。

羊羹がまだ少し残っていた。

その翌週、部活で玄が三本の台本を持ってきた。

猿かに合戦。シンデレラ。美女と野獣。

まとめて「よいこのおとぎばなし」と名付けてあった。

私は台本を読んで、笑いながら泣きそうになった。

おばあちゃんに見せたかった。

次の日曜日、台本を持って居間に入った。

「おばあちゃん、これ見て」

おばあちゃんが老眼鏡をかけた。

猿かに合戦から読み始めた。

加能ガニ。蛇槍。能登もち雌豚。子がにABCのカウント。火縄銃で栗を狙撃。騎馬突撃。放火。

おばあちゃんが途中で一回顔を上げた。

「加能ガニ」

「うん」

「石川じゃん」

「うん」

おばあちゃんが続きを読んだ。

シンデレラを読んだ。

シンデレラが加害者で、継母が被害者で、王子が逃げ続けて、義理の姉と結婚する。

美女と野獣を読んだ。

下半身だらしなかったお姫様が能登もち雌豚になって料理を極めて、同じく罰を受けた元CEOと出会って解呪される。春になったら山を降りようと言った瞬間に崖から落ちる。

おばあちゃんが三本読み終えた。

しばらく黙っていた。

「ばあちゃん?」

おばあちゃんが老眼鏡を外した。

「一本目」

「うん」

「原典の構造を完全に逆にしてる。やられた側が返す。弱者が強者になる。でも昔話の骨格はそのまま使ってる。これが逆古典の型」

私はメモを取り始めた。

「二本目」

「シンデレラ」

「加害者と被害者を入れ替えただけじゃない。王子が逃げる、という動きを追加してる。原典にない動きだ。しかも王子が逃げた先に義理の姉がいる、という偶然の構造が原典の『ガラスの靴』と同じ機能を果たしてる。形を変えて同じ機能を再現してる」

「……すごい」

「三本目」

「美女と野獣」

「二つの古典を溶かして一本にしてる。美女と野獣の『呪いと解呪』の骨格に、罰の非対称性を加えて、料理という解呪条件を自分で作った。しかも最後に死亡フラグを差し込んでる」

おばあちゃんが台本を揃えて置いた。

「一本目は逆古典の型。二本目は逆古典に機能置換を加えた型。三本目は複数の古典を溶かして再構成する型。それに死亡フラグの型が混ざってる」

私は手が止まった。

「しかも」とおばあちゃんは言った。「一本目から三本目にかけて、型が変化してる。進化してる。三本並べると成長の跡が見える」

縁側から風が入ってきた。

「一体いくつ型を持ってる。混ざってるし、変化してるし、溶け込んでる。しかも進化し続けてる」

おばあちゃんがお茶を一口飲んだ。

「先週、怖い子だと言ったけど」

「うん」

「訂正する」

私は黙って聞いた。

「怖い子じゃない。怖い何かだ。まだ名前がついてない」

居間が静かになった。

庭の木が揺れていた。

私はメモを見た。

逆古典の型。機能置換。複数古典の溶解と再構成。死亡フラグの型。進化。

玄は日曜日に和菓子を持ってきて、婆さんの昔話を一回聞いて帰っていった。

それだけのことが、これだけのことだった。

羊羹がまだ残っていた。

私は一切れ食べた。

甘かった。

霧島、という名前が気になった。

玄が帰ってから、ずっと気になっていた。

さくらに聞いた。

「あの子の名前、霧島玄って言ったわね」

「うん」とさくらは言った。「B高校の二年生」

「苗字が霧島」

「そう」

「珍しい苗字ね」

「そう?」

さくらは特に気にしていない顔だった。

トミは気にした。

霧島、という音には重さがある。普通の家の苗字じゃない気がした。根拠はなかった。でも八十五年生きていると、名前の重さがわかるようになる。

木曜日、老人会の集まりがあった。

公民館の畳の部屋に、爺さんAと爺さんBと爺さんCと婆さんAと婆さんBが集まっていた。

お茶を飲みながら、トミは聞いた。

「霧島って苗字、知ってる?」

爺さんAが首を傾けた。

「霧島。霧島ねえ」

婆さんAが言った。

「昔は剣術してたようだけど、もう存在しない。」

全員が婆さんAを見た。

「剣術?」とトミは言った。

「昔の話よ。もう存在しないって聞いたけど」

「なんで存在しなくなったの」

「さあ」と婆さんAは言った。「知らない」

爺さんBが湯呑みを置いた。

「ちょっと待って。霧島流?」

「知ってる?」

「名前だけ。宮崎の剣術だって親父から聞いたことがある。強かったらしい。剣獄とか呼ばれた使い手がいたとか」

剣獄。

トミはその言葉を頭の中で繰り返した。

「なんで金沢にいるの」と婆さんBが言った。

「それが知りたいのよ」とトミは言った。

翌週までに、爺さんAが宮崎の知り合いに電話した。

爺さんBが図書館で調べた。

婆さんAが親戚の親戚に連絡した。

婆さんBが「うちの亡くなった主人が何か知ってたかもしれない」と言って何も出てこなかった。

爺さんCは「俺は関係ない」と言って饅頭を食べていた。

木曜日に結果を持ち寄った。

爺さんAが言った。

「宮崎の知り合いが調べてくれた。霧島流は本当に存在した。最後の当主が霧島清。昭和二十年まで宮崎にいた」

「昭和二十年」とトミは言った。「戦争の年ね」

「そう。四十五歳で特攻隊に行かされた」

全員が黙った。

「で?」

「生きて帰ってきた」

また全員が黙った。

「特攻隊から?」と婆さんAが言った。

「そう」

「どうやって」

爺さんAが紙を見た。

「出発前の夜に基地から脱走して街で飲み歩いてたら、翌朝基地が爆発して更地になった」

沈黙があった。

爺さんCが饅頭を食べる手を止めた。

「……なんで基地が爆発したの」と婆さんBが言った。

「誰かの寝タバコらしい」

また沈黙があった。

「それで生き残ったの」とトミは言った。

「公園で野宿してたところを近所の子供に発見されて、その家で玉音放送を聞いたらしい」

爺さんCが饅頭を置いた。

「なんで脱走したの」と婆さんAが言った。

「宴会で同期の兵士に向かって『死ぬことが前提の奴らと酒が飲めるか』と言って出ていったらしい」

全員がトミを見た。

トミは湯呑みを持ったまま動かなかった。

「それで」とトミは言った。「なんで金沢に?」

「宮崎にいられなくなったから、らしい」

「なんで」

「帰り方が恥ずかしすぎて」

婆さんBが吹き出した。

爺さんAも笑い始めた。

爺さんCの饅頭が落ちた。

トミは笑わなかった。

まだ何かある、と思った。

さらに一週間後。

婆さんAの親戚の親戚が、宮崎の別の知り合いを経由して情報を持ってきた。

「清が金沢に来たとき、養子を一人引き取ったらしい」

「養子?」とトミは言った。

「十六歳の少年。名前が誠。父親が戦死、母親が病死。一人っ子だった」

「剣術を継がせたの?」

「それがそうじゃないらしくて」と婆さんAが紙を見た。「門下生がいろんな正論を言って剣術を残そうとしたけど、清が言ったらしい」

「何て?」

「めんどくさいから、やめましょう。やりたい人だけどうぞ。解散!」

爺さんBが噴き出した。

爺さんCが饅頭を再び落とした。

婆さんBが「五百年の剣術が……」と言いかけて笑い転げた。

トミは笑わなかった。

「誠って子はどんな子だったの」

「病弱で小説ばっかり読んで書いてた引きこもりだったらしい。戦争も病弱すぎて行けなかった」

「その子の後は?」

「体が丈夫になって、女と遊びまくって、二十五で結婚して、子供が八人いたらしい」

全員が止まった。

「八人」とトミは言った。

「らしい」

「引きこもりが」

「らしい」

爺さんAが笑い転げた。

爺さんCの饅頭が三個目を落とした。

トミは動かなかった。

八人の子供。その子孫が今、金沢にいる。

霧島玄。

その夜、トミは縁側に座っていた。

整理した。

五百年続いた剣術の名門。最後の当主が特攻から脱走して帰還。恥ずかしくて宮崎を出た。金沢に来た。引きこもりの養子をもらった。五百年の剣術を「めんどくさいから」で解散した。養子は丈夫になって子供を八人作った。その子孫が今、日曜日に和菓子を持ってさくらの家に来た。

トミは庭を見た。

木が揺れていた。

「別の何かが残ったようだ」

誰にともなく、言った。

中から、さくらの声がした。

「ばあちゃん、ご飯できたよ」

「今行く」

トミは立ち上がった。

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第五章

水没した鐘楼

第一章 変容

 十一月のある朝、霧がレージア湖を包み込んでいた。アレッサンドロが湖畔の散歩から戻ってきたとき、ベアトリーチェは石造りの家の入り口で彼を待っていた。その家はかつて彼の祖母のものだった。古い村が水に呑み込まれる前のことだ。

「びしょ濡れじゃない」と彼女は言い、タオルを手渡した。「何があったの?」

 アレッサンドロは答えなかった。彼の目は虚ろで、彼女には見えない何かを見つめていた。ゆっくりとした機械的な動作でコートを脱ぐと、暖炉の前の椅子に崩れ落ちた。

「アレッサンドロ?」

 彼は彼女を見た。一瞬、ベアトリーチェは彼の目の中に新しい何かを見た。恐怖だ。古代からの、根源的な恐怖。

「鐘楼に触れてしまった」と彼は囁いた。「ボートで近づいたんだ……この季節は水位が下がっていて、水面すれすれに突き出た石に、素手で触れてしまった」

 ベアトリーチェは血が凍るのを感じた。祖母はいつも言っていた。決して鐘楼に触れてはいけない。村が沈んだとき鐘は鳴り止んだが、呪いは待ち続けていると。

「まさか」と彼女は呟いた。「そんなはずは……」

 しかし、もう見えていた。アレッサンドロの体を貫く震え。なめらかに、白くなっていく肌。太陽の下で溶けていく蝋のように、柔らかくなっていく顔の造作。

「ベアトリーチェ……怖い」

 それが、彼が男の声で発した最後の言葉だった。

 その夜、ベアトリーチェの恐怖に満ちた目の前で、アレッサンドロは小さくなり始めた。体が縮んでいき、骨が短くなり、筋肉が消えていく。静かで、容赦のない過程だった。夜明けの最初の光が差し込む頃には、部屋には赤ん坊の泣き声だけが響いていた。

 ベアトリーチェは一晩中、彼を腕に抱いていた。彼がどんどん小さく、どんどん無力になっていくのを。彼は泣いていた。そして彼女には、その涙がまだアレッサンドロのものなのか、それとも自分が誰だったかを覚えていない体の本能に過ぎないのか、わからなかった。

 祖母が朝になってやって来た。九十歳で、節くれだった杖をついて歩いていた。ベアトリーチェの腕の中の赤ん坊を見たとき、彼女は目を閉じた。

「警告したのに」と彼女は震える声で言った。「何度も言ったのに」

「何かできることはありませんか?」ベアトリーチェは懇願した。「おばあさまは古い話を知っているでしょう、治療法を……」

 老婆は首を振った。「湖の呪いは解けない。ただ……呪われた者に付き添うことはできる。待つ時間を短くすることが」

「何を待つんですか?」

 祖母は答えなかった。赤ん坊に近づき、震える指で触れた。「アレッサンドロの目をしている」と彼女は囁いた。「でもアレッサンドロはもういない。あなたが見ているのは、かつての彼の残響に過ぎない」

第二章 介護の重み

 ベアトリーチェは赤ん坊をアレッサンドロと名付けた。それが慈悲深い嘘だとわかっていても。彼女は授乳し、あやし、母が自分に歌ってくれた子守唄を歌った。しかし彼を見るたびに、見知らぬ者が見えた。愛する人の顔を持った小さな闖入者が。

 祖母が一緒に暮らすようになった。「一人ではできない」と彼女は言った。その通りだった。

 その後の数日間、赤ん坊は病気になった。微熱が続いた。ほとんど泣かなくなり、捨てられた子猫のように弱々しく呻くだけだった。ベアトリーチェは眠らず、涙で赤くなった目で彼を見守り続けた。

「呪いが完結しているのよ」とある晩、祖母は鍋でハーブをかき混ぜながら説明した。「体は退行するけれど、魂は……魂は閉じ込められたまま。完全に生きることも死ぬこともできない。最後に、熱がそれを解放する」

「死んでほしくない」とベアトリーチェは囁いた。

「あの子はもう、あなたが知っているアレッサンドロではないの。村が沈んだあの日から、鐘楼の呪いは時の流れを逆へと引き戻し始めていた。あなたが抱いているのは、六十年を遡った先に消えようとしている魂の、水面に映る最後の影に過ぎない」

 しかしベアトリーチェは受け入れられなかった。必死の執念で赤ん坊の世話を続けた。話しかけ、二人の計画について、春に予定していた結婚式について、湖から遠く離れた場所に建てるはずだった家について語った。

 赤ん坊は大きな暗い目で彼女を見つめた。時々、一瞬、ベアトリーチェは認識の閃光を見たように思えた。その無力な小さな体から現れようともがくアレッサンドロの断片を。

 三日目の夜、熱は悪化した。

 ベアトリーチェは彼を胸に抱きしめ、赤ん坊の肌から発せられる不自然な熱を感じた。祖母は隣に座り、ベアトリーチェが聞き取れない言語で祈りを呟いていた。湖と同じくらい古い言語、周囲の山々と同じくらい古い言語。

「時が来た」とついに老婆は言った。

「いやです」

「ベアトリーチェ……」

「いやだって言ったでしょう!」

 しかし赤ん坊は夜明け少し後に息を引き取った。ただ、降参したのだ。小さな体はベアトリーチェの腕の中で冷たく動かなくなり、一瞬、世界全体が存在しなくなったのではないかと思うほどの深い静寂が訪れた。

 それから彼女は叫んだ。

 生まれてから一度もしたことがないような叫び声を上げた。石の壁に砕け散り、湖から吹く風の中に散っていく叫び。祖母は静かに泣いた。皺の刻まれた顔を伝う涙。

 小さな墓地に赤ん坊を埋葬した。丘の上の、水没した鐘楼を見下ろす墓地に。ベアトリーチェは儀式を望まなかった。彼女と祖母、そして小さな墓の上で何か言葉を呟く神父だけ。

「安らかに、小さな子よ」とベアトリーチェは言った。「どこにいようとも」

 祖母は葬儀の後、急速に衰えた。まるでベアトリーチェを助けるために最後の力を保っていて、今ようやく手放すことができたかのようだった。一週間で壊れやすいガラスのようになり、二週間でもうベッドから起き上がれなくなった。

「ごめんなさい」とある晩、彼女はベアトリーチェに言った。「アレッサンドロを守れなくて」

「おばあさまのせいじゃありません」

「あの鐘楼を破壊すべきだった。爆破して、粉々にすべきだった。でも呪いが完全に解き放たれて、谷全体が氾濫するのが怖かった」

「謝らないでください」

 老婆は弱々しく微笑んだ。「あなたは強いわ。自分で思っているより強い。この場所を去りなさい。湖を忘れなさい。生きなさい」

 その夜、彼女は眠りの中で亡くなった。ベアトリーチェが朝目覚めたとき、祖母は動かずに、穏やかな表情を浮かべていた。ほとんど幸せそうに。

 祖母も赤ん坊の隣に埋葬した。

第三章 湖畔

 ベアトリーチェは石造りの家に一人残された。日々は同じように過ぎていき、湖を覆う霧のように灰色だった。村に必要最低限のものを買いに出るときだけ外に出て、またあまりにも多くの悲しみを見てきたあの壁の中に閉じこもった。

 しかしある春の朝、空気が温かくなり、丘の上に最初の花が咲き始めたとき、ベアトリーチェは決心した。

 湖畔に降りていった。

 木の箱を持っていた。中にはアレッサンドロのわずかな物が入っていた。写真一枚、彼の腕時計、数ヶ月前に彼女に書いた手紙――約束と計画でいっぱいの。

 砂利が水と出会う場所、湖畔に座った。鐘楼はいつものように水面から突き出ていた。動かず、永遠に。アレッサンドロを呑み込んだ、沈黙した鐘たち。

「ここにいるの?」と彼女は風に尋ねた。「まだどこかにいるの?」

 湖は答えなかった。灰色の空を映すだけで、無関心だった。

 ベアトリーチェは箱を開け、写真を取り出した。アレッサンドロは微笑んでいた。幸せな一瞬に写し取られた彼は、今では別の人生に属しているように見えた。とても若く、とても生きていた。

 一粒の涙が写真の上に落ち、彼の顔をぼやけさせた。

「一緒に生きる人生を約束してくれたのに」とベアトリーチェは囁いた。「ここから連れ出して、朝に窓から太陽が差し込む家を建てると約束してくれた。あなたの目をした子供たちを授かると約束してくれた」

 風が起こり、湖面に波紋が広がった。一瞬、水面の光と影の戯れの中に、ベアトリーチェは顔を見た。アレッサンドロの顔。若く微笑んで、湖の底から彼女を見つめている。

「さようなら」と彼女は呟いた。

 それから、ゆっくりと意図的な動作で、箱を水の中に投げ入れた。沈んでいくのを見守り、波の間に消えるのを。箱はアレッサンドロだったすべてのもの、決してあり得なかったすべてのものを持っていった。

 ベアトリーチェは日が沈み始めるまで湖畔に座っていた。黄昏の光が水を赤と金に染め、湖を炎の鏡に変えた。鐘楼は湖畔に長い影を投げかけ、空を指す黒い指のようだった。

 立ち上がって去るとき、彼女は振り返らなかった。

 丘を登り、立ち止まることなく墓地の前を通り過ぎた。石造りの家に着くと、数週間ぶりに、すべての窓を開けた。新鮮な空気が部屋に入り込み、こもった匂いと病気の匂いを吹き飛ばした。

 その夜、ベアトリーチェは湖の夢を見た。しかしそれはもう、彼女が知っている灰色で脅威的な湖ではなかった。透明な水晶の湖で、銀色の魚が泳ぎ、太陽が底まで届いていた。そしてそこに、沈んだ古い村の廃墟の中を、アレッサンドロが歩いていた。かつての男でも、変わり果てた赤ん坊でもなかった。何か違うもの、完全なもの、平和なもの。

 彼は微笑んでいた。

「生きて」と言葉なく語りかけていた。「二人分、生きて」

 ベアトリーチェが目覚めたとき、頬は涙で濡れていた。しかし数ヶ月ぶりに、希望に似た何かを感じていた。

 起き上がり、服を着て、小さなスーツケースを準備した。石造りの家を閉め、ドアの隣の石の下に鍵を残した。誰かが見つけるかもしれないし、永遠にそこに残るかもしれない。

 谷から出る道へと歩いていった。鐘楼を見ようと振り返らず、湖への最後の視線を求めなかった。彼女の前にはただ道があり、山々の向こうにはまだ見ぬ世界があった。

「さようなら、愛しい人」と彼女は風に囁いた。「さようなら」

 そして風は、おそらく、最後の愛撫を運んできた。もう二度と鳴ることのない鐘の音。しかし彼女だけが聞くことができた。別れ。祝福。解放。

 ベアトリーチェは昇る太陽に向かって歩いていった。二度と振り返ることはなかった。

第六章

姉弟

白鷹神社の大祭に玄を誘ったのは、三週間前だった。

自宅に呼ぶことに成功していた。和菓子まで持ってきた。だから断られるとは思っていなかった。

「白鷹神社の大祭、一緒に行かない」

LINEで送ったら「行く」と返ってきた。

三文字だった。

私はしばらくスマホを眺めた。

行く。行く。行く。

三文字で完結している。疑問も、確認も、なにもない。こういうところが好きだ。余計なことを言わない。

デートではない。ただ、地元の大祭を知ってほしかっただけだ。白山市布市町から白鷹神社は少し遠いけど、バスで行ける。玄の脚本の参考になるかもしれない。それだけだ。前の晩に爪を切って、服を四回着替えたのは、別に関係ない。

神社の参道に入ったとき、玄はすぐにメモを出した。

小さいリングノートだった。歩きながら書いている。

「何書いてるの」

「屋台の配置」

「なんで」

「祭りって、どの屋台がどこにあるかで客の動線が変わる。話に使えそうだから」

私は少し後ろを歩きながら、玄の横顔を見た。

キョロキョロしている。屋台を見ている。人の流れを見ている。私を見ていない。

まあ、いい。

参道を抜けて、石段を上がった。境内に入ると、屋台の音が少し遠くなって、木の匂いがした。本殿の前に人が並んでいた。

玄は列に並んだ。

私も並んだ。

玄が賽銭を投げて、二礼二拍手一礼をした。

きれいだった。

迷いがなかった。作法を知っている人間の動きだった。

私が見ていると、玄が振り向いた。

「さくらも早く」

「あ、うん」

私は賽銭を投げた。何をお願いしたか、覚えていない。

本殿の前を離れて、玄がまたメモを書いた。

「お参りの所作、宮司の家の子は違うな」

「え、猛くんのこと?」

「知ってるの」

「白鷹神社の宮司の孫でしょ。有名だよ、この辺では」

玄が「ふうん」と言ってメモを書き足した。

そのとき、境内の端にある小さなステージから声が聞こえた。

マイクを通した、よく通る声だった。

「——霧島アカネでございます」

私は足を止めた。

霧島。

今、霧島と言った。

「玄」

「うん」

「今、霧島って」

「姉がいるから」

それだけ言って、玄はまたメモに視線を落とした。

私はステージの方を見た。

人垣の外から見えたのは、小柄な女の子だった。

童顔だった。背が低かった。ステージの上でマイクを両手で持って、にこにこしていた。

「本日は白鷹神社大祭にお越しいただきありがとうございます。霧島アカネでございます。一曲歌わせていただきます」

丁寧な声だった。ゆっくりとした喋り方だった。

演奏が始まった。

歌い出した瞬間、人垣がざわついた。

声が、異様に通った。

小さい体から出ているとは思えない声だった。神社の境内に広がって、木のてっぺんまで届きそうだった。

私は玄を見た。

「玄の、お姉さん?」

「うん」

「B高校?」

「うん」

玄はステージをちらりと見て、メモに何か書いた。

「なんで見ないの」

「いつも見てるから」

私はまたステージを見た。

アカネが歌っていた。

なんの曲だろうと思いながら聞いていたら、聞き覚えのある言葉が出てきた。

聞き覚えというか、聞いたことはないが、知っている言葉だった。

いつまでもYouTubeのイホウアップロードで、と聞こえた気がした。

歌が終わって、拍手が起きた。

アカネがマイクを持ったまま、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。霧島さくじょ供養YouTube編でございました」

私は固まった。

「玄」

「うん」

「今、さくじょ供養って言った」

「言った」

「なんの曲?」

「著作権が切れてるから」

「それは答えになってない」

玄はそれだけ言って、メモを書き足した。

私はステージを見た。アカネがまだ頭を下げていた。客席の何人かが困惑した顔をしていた。何人かは笑っていた。

人垣が少し薄くなったところで、二人の人間が目に入った。

男の子と、女の子だった。

男の子は背が高くて、赤い鼻緒の雪駄を履いていた。笑っている。ステージを指さして、隣の女の子に何か言っている。

女の子は、きれいだった。

見たことのない顔だった。この辺の学校じゃないと思った。白い浴衣を着ていて、黒い髪が長かった。男の子の袖を引いて、何か言っている。困っているような顔をしていた。

他の高校の子だろうか。

私は少し目が離せなかった。

玄が「知ってる?」と聞いた。

「知らない。きれいな子」

「うん」

「どこの子だろ」

「さあ」

玄がまたステージを見た。アカネが二曲目の前置きを喋っていた。

「次の曲でございます。著作権は切れております」

玄がメモを開いた。

「ありがちな萌えテンプレだな」

「え?」

「あの二人。ツッコミとボケ。文化祭とかに出てきそうな配置」

私は男の子と女の子を見た。

そういう見方をするのか、と思った。

そういう目で人を見ている。

私は玄の横顔を見た。今日ずっとメモを書いている。屋台を見て、人の動線を見て、あの二人を見て、全部素材にしている。

デートではない。わかっている。

でも隣にいる。

それで今日は十分だと思った。

アカネの二曲目が始まった。

隣の男の子が爆笑していた。きれいな女の子が額に手を当てていた。

玄がメモを書いた。

参道の方から、何かが崩れる音がした。

アカネが三曲目の前置きを始めた。

「次はヒトラー著、我が闘争でございます。著作権は切れております」

その瞬間、参道の方から何かが崩れる音がした。

大きい音だった。

私は振り返った。

参道の脇に屋台が並んでいた。その一つから、本が崩れていた。積み上げていた本が、全部床に落ちていた。

屋台の看板に「アレフアルファ書店」と書いてあった。

店主らしき人間が、両手で頭を抱えていた。

「これは——これは——ドイツ連邦共和国基本法第五条——」

震えていた。

本が散乱していた。グリム童話、と背表紙に書いてある本が何冊も落ちていた。原典版、と書いてあった。

「コンプライアンス違反です」と店主が言った。「刑法第百三十条——シャットダウンします——」

誰も聞いていなかった。

アカネは歌い続けていた。

私は玄を見た。

「なんの曲?」

「さあ」

玄は少し首を傾けた。

「聞いたことない」

そのとき、人垣の奥から声が聞こえた。

低い声だった。女の人の声だった。

「……これは霧島流確定やな」

私は声の方を見た。

おばあちゃんがいた。

「おばあちゃん!」

有村トミは振り向いた。

八十五歳だった。白髪を後ろでまとめて、杖をついていた。さくらを見て、少し目を細めた。

「さくらか。おったんか」

「なんでここに」

「大祭やろ。毎年来とる」

玄がメモを閉じた。おばあちゃんに向かって頭を下げた。

「お邪魔しております。霧島です」

おばあちゃんが玄を見た。

少し間があった。

「霧島の……玄くんか」

「はい」

おばあちゃんがステージを見た。それからまた玄を見た。

「あの子、お前の姉か」

「はい」

おばあちゃんが小さく息をついた。

「そうか。繋がったわ」

玄がメモを開いた。また書き始めた。

四曲目が始まった。

今度は、曲の雰囲気が変わった。

重かった。荘厳だった。アカネの声が一段低くなった。

「次はヨハネ黙示録でございます。著作権は切れております」

おばあちゃんが静かに手を合わせた。

参道の方でまた崩れる音がした。アレフアルファ書店だった。さっき積み直した本がまた全部落ちていた。店主が膝をついていた。

「なぜ——なぜここで——」

誰も聞いていなかった。

五曲目の前置きが始まった。

「最後の曲でございます」

アカネが深々と頭を下げた。

「正信偈でございます。著作権は切れております」

最初の一音で、人垣がざわついた。

次の一節で、後ろの方から手拍子が起きた。

知っている曲だ、という顔をしている人間が何人もいた。おじいさんが目を閉じていた。おばあさんが口ずさんでいた。

おばあちゃんが小さく唸った。

「うまい子やな」

手拍子が広がっていった。

私は少し驚いた。さっきまでお経を歌っていた。ヨハネ黙示録を歌っていた。それで今、正信偈で大盛り上がりになっている。

玄がメモを書いていた。

「石川県民、正信偈に弱い」

「そりゃそうでしょ」

「使える」

正信偈が終わった。

拍手が一番大きかった。

アカネがマイクを持ったまま、何度も頭を下げた。

「ありがとうございます。霧島アカネでございました。姉の方が上手でございます」

おばあちゃんが「姉?」と言った。

「双子の姉がいるらしい」と私は言った。

「霧島に双子か」

おばあちゃんはまたステージを見た。何か考えているような顔をしていた。

玄がメモを閉じた。

「行ってくる」

「え」

「姉に会いに行く」

それだけ言って、人垣の方へ歩いていった。

私はしばらく玄の背中を見ていた。

「あの子、霧島家に知り合いがおるんか」

おばあちゃんが言った。

「お姉さんが霧島アカネで——玄の姉、なんです」

おばあちゃんが少し黙った。

「そうか」

それだけ言った。

帰り道、参道の屋台を通った。

アレフアルファ書店は、まだ本が散乱していた。店主が一冊ずつ拾っていた。

おばあちゃんが横を通り過ぎながら一瞥した。

「なんやあそこ」

「崩れてました。さっきから」

「ふうん」

次の屋台に「アレクサ商事」と書いてあった。

ガチでなんでも売っていそうな店だった。

おばあちゃんが足を止めた。

「何売っとるんや」

「本でございます」と屋台の人が言った。にこにこしていた。「逆五輪の書、いかがですか」

おばあちゃんが表紙を見た。

「なんやこれ」

「AIと映画監督の話です。面白いですよ」

おばあちゃんが私を見た。私はおばあちゃんを見た。

「買うか」とおばあちゃんが言った。

「買います」と私は言った。

在庫はなかった。

「明日のお昼にお届けします」と屋台の人が言った。「ご住所を」

おばあちゃんが住所を言った。

「助かるわ。荷物が増えんで」

屋台の人がにこにこしていた。

屋台を離れて少し歩いたとき、カメラが向いてきた。

若い女の人だった。英語で何か言っていた。

私には聞き取れなかった。

隣にいた気品のある女の子——さっき人垣の中で見た、白い浴衣の子——がするりと前に出た。

英語で答えていた。流暢だった。

「地元のお祭りです」と、その子が言った。「石川県の、白鷹神社です」

カメラが動いた。女の人がまた英語で話しかけた。

「ありがとうございます。ジェミニ・レポートです。石川の大祭、素晴らしいですね」

その子が微笑んだ。

カメラが回っていた。

私とおばあちゃんはその脇を、静かに通り過ぎた。

バスの中で、おばあちゃんが言った。

「明日届くんやろ」

「そうです」

「Amazonは商売上手やな」

おばあちゃんは目を閉じた。

バスが走った。

私は窓の外を見た。

玄は今頃、姉と話しているだろうかと思った。

どうせメモを書いている気がした。

翌日の昼前に、ダンボールが届いた。

おばあちゃんが開けた。

逆五輪の書、と書いてあった。

「なんやこれ」

「昨日買ったやつです」

「わかっとる」

おばあちゃんは椅子に座って、本を開いた。

私は台所で昼ごはんの支度をしていた。

しばらく静かだった。

「……父親が死んで」とおばあちゃんが言った。

「え」

「息子が映画を作ろうとしとる」

「そうなんですか」

「AIがおる」

「AIですか」

「十八体おる」

私は手を止めた。

「十八体」

「そう書いとる」

おばあちゃんがページをめくった。

「全員が正しいことを言うとる」

「それで?」

「何も進んどらん」

おばあちゃんがまたページをめくった。

「なんやこれ」

私は昼ごはんの支度を再開した。

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第七章

換金

ブラスバンド部の打ち上げに、私はいた。部員でもないのに。

幹事の水谷さんが「あれ、藤原さんって……」という顔をしたのは気のせいじゃないと思うけど、誰も声をかけてこなかった。から揚げが多めに残っていたし、冷たいお茶も飲み放題だったし、私としては大満足の夜だった。

蒼井智樹、一年生。作曲した本人は女子部員に囲まれて、なんというか、キャバクラみたいになっていた。コンクールで金賞を取ったのだから当然といえば当然かもしれないけど、本人はさして嬉しそうでもなかった。囲まれながら、どこかぼんやりした顔をしていた。そういうところが好きだった。才能がある人間は自分の才能に鈍感なことが多い。逆に言えば、自分の才能に気づいていない人間の中にこそ、本物が眠っている。

十パーセント、もらいました。から揚げで。

数日後、SNSで見かけた。

「他校の白鷹神社の子、なんか変らしいよ。天才かもって」というポストだった。リプライに「キモっ。わたし無理」とついていた。

キモっ、わたし無理、という評価は、私の中では加点要素になる。普通の人間が普通に受け入れられるものに、大きな価値はない。引かれる、怖がられる、意味がわからないと言われる、そういうものの中にだけ、まだ誰も値段をつけていない何かが残っている。

名前は大野猛。三年生。白鷹神社の宮司の孫、らしい。

私はスマートフォンを置いて、今週の予定を頭の中で組み替えた。

スパイ活動というほど大げさなことはしていない。ただ、情報を集めるときに自分が動くのは下策だと思っている。自分が動けば、相手に気づかれる。気づかれた瞬間に、相手は本来の姿をやめる。観察に意味がなくなる。

だから私は人を使う。使う、というと聞こえが悪いけど、要するに雑談の中から必要なものだけ拾う、という話だ。

大野猛についての情報は、二週間でそれなりに揃った。

神社の子。祖父が先月亡くなった。TikTokでバズった。幼馴染に日向栞という子がいて、二人の関係について女子の間では諸説ある。成績は中の上。目立つタイプではないが、何かをやると周囲の空気が変わる、という証言が複数あった。

最後の一文が、引っかかった。

成績でも顔でも運動神経でもなく、「何かをやると空気が変わる」。これは数字で測れない話だ。数字で測れないものは、使い方次第で値段が青天井になる。

私はまだ動かなかった。

猛の学校の文化祭は、一般公開されていた。

当日、私は一人で行った。入場は無料だった。パンフレットをもらって、体育館のステージのスケジュールを確認した。一組のステージが午後一時からになっていた。

時間まで校内を歩いた。廊下を歩いていたとき、どこかから声が聞こえた。

窓が少し開いた教室から、ギターを弾きながら歌っている声だった。曲は知らなかった。日本語なのかどうかもよくわからなかった。言葉の粒が粗くて、音の形が普通じゃなかった。でも止まれなかった。足が自然に遅くなった。

一分ほど聞いて、私は歩き出した。

あれが大野猛かどうか、その時点ではまだわからなかった。でも誰であれ、記憶しておく必要がある音だと思った。

一組のステージが始まる少し前、SNSにポストが流れてきた。

「一組のステージ、ボーカルの松田がコロナ。代打どうする」というポストに、「大野くんが歌えるって」「一回聞いただけで歌えるって言ってる」という返信がついていた。

私はスマートフォンをポケットにしまった。

一回聞いただけで歌える。

普通の曲ならそれだけでもすごい。でも問題はレパートリーだ。松田が歌うはずだった曲は、高濃度の鹿児島弁で書かれた「エクストリーム元寇」という曲だ。難易度が高いとすでに話題になっていた。鹿児島弁ネイティブでもない人間が発音を再現するのは、普通は無理に近い。

一回聞いただけで、それを歌う。

私は体育館に向かった。

体育館は思ったより人が多かった。前の出し物が終わって、入れ替えの時間に私は三列目の通路側に座った。

一組のステージが始まった。

バンドの演奏が先に入って、それからマイクを持った大野猛が中央に立った。制服のままだった。特に何かをするわけでもなく、ただ立っていた。

曲が始まった。

ツキヨニ モエル ダイチノ サケビヨ!

イコクン フネガ セマッチョッ!

ユミン ヒケ! ケンバ カカゲロ!

イマコソ チカウ、 ワレラガ マモラン!

ヒバ ハナッ! ヨルン マギレンダ!

テキバ フカク ブチコメッ!

カミナリゴト トドロカセッ!

ワレラノ ヤイバ ミセチクリ!

アラシバ ヨベヨ! ヨルン サケッ!

イノチン モエロ! ブシドンノ タマシイジャッ!!

ウミン コエチ フネン カゲガ オソイキモス

ショウドドンカシタ ナミダン フルサト

ヨウチ! アサガケ! ヨウドウサクサン!

「マトバ デッケ! イチゲキジャッ!」

ヒトジチ? アホンダレ、 ミナゴロシジャッ!

ウマン ナクッテモ トホデ トツゲキジャッ!

ヤシュウ! キシュウ! イッセイホウカ!

ヤミバ キリサク ケンドン トナレ!

ネムタンヤツバ エイミンダ

ココバ ジゴクン イクサバダ!

ネコミバ ネラエ! ヤバ ハナテ!

ジゴクン ナカニ ショウリガ アルジャッ!

ヒバ ハナッ! ヨルン マギレンダ!

テキン ヤイチクシ! ブッチギレ!

ナミマニ キエル ボウレイノ サケビ

ワレラノ ヤイバ ミセチクリ!

アラシバ ヨベヨ! ヨルン サケッ!

ゼッタイ イキテ カエシモハン!

ホシン キエチ、 イクサン ホノオモ

シズマン センジョン マッサナカ

ツメタイ カゼン フゴイ、

ブシドンノ チカイ ココロン キザンダ

「モンダモン、 カチドキバ アゲローーー!!!」

「えい、えい、オーーー!!!」

最初の一フレーズで、私の隣に座っていた女子が「え?」という顔をした。わかる。私も同じ顔をしていたと思う。

音が、ちゃんとそこにあった。発音が、合っていた。鹿児島弁の、あの独特の母音の処理が、ちゃんとできていた。なんでできるのか、理由がわからなかった。でも合っていた。

最後まで一度も止まらなかった。

拍手が起きた。かなり大きい拍手だった。でも体育館の熱量のわりに、拍手の意味を本当に理解している人間は多くないと思った。すごかった、という感想は正しい。でも何がすごかったのか、言語化できている人間はほとんどいないはずだ。

私の二列前、先生らしき人間が何も言わずに立ち上がってステージを見ていた。背中の様子から、鹿児島か奄美の出身じゃないかと思った。

先生の背中が、他の先生たちと少し違った。

何かに気づいた人間の背中だった。

アンコールの声が上がった。

大野猛は少し考えてから、もう一曲やります、と言った。特に前置きはなかった。バンドのメンバーが顔を見合わせた。どうやらセットリストにない曲らしかった。

曲が始まった。

「聞け!カミガミの、応援歌を!」

Hann er enn ung, en í augum hans

Glóir veraldar eldar

Með vísdómi í hjarta, veginn hann rís

Leitar sjálfan sig í brengluðum heimi

Réttðu út hönd, tak framtíðina

Far óhræddr, stigið fram

Þó vér séum ófullkomnir, trúum vér

Að fljúga yfir himininn megum vér

Nú er tíminn til að taka næsta skref

Νεανίας ἔτι ἐστίν, ἀλλὰ ἐν τοῖς ὀφθαλμοῖς αὐτοῦ

Σπινθήρες τοῦ κόσμου φαίνουσιν

Μετὰ τῆς σοφίας ἐν τῇ καρδίᾳ, ὁδὸν ἀνοίγει

Ζῇ ἐν κόσμῳ ταραχώδει, ἐαυτὸν ζητῶν

Ἄπτεσο, τὸ μέλλον ἅρπαζε

Προχώρα μὴ φοβοῦ, ἄριστον πορεύου

Κἀκεῖνοι ἀτελεῖς ὄντες, πιστεύομεν

Ὑπερβαίνειν τὸν οὐρανὸν ἴσχυμεν

Νῦν ὁ καιρὸς τὸ ἐπερχόμενον βῆμα ποιεῖν ἐστίν

सः अद्यापि बालकः, किन्तु तस्य नेत्रयोः

जगतः द्योतका: झलकन्ति

ज्ञानं हृदि धार्य, पन्थानं निर्माय

विपन्ने लोके आत्मानं अन्विष्यति

करं विस्तरय, भविष्यं गृह्णीष्व

भयम् अभिलाषं विना प्रगतिं कुर्व

यद्यपि अपूर्णाः स्मः, वयं विश्वासिमः

आकाशात् परं उत्थितुं शक्नुमः

इदानीं आगामि पादं प्रस्थापयितुं कालः अस्ति

鋭く光るその目に

見つけた未来があるなら

どんな壁も越えていける

君の教えが、今も僕を導く

手を伸ばせ、未来を掴め

失敗を恐れずに進め

僕たちは未完成でも

空を越えることを信じて

さあ、次の一歩を踏み出す時だ

挑戦の火花が、今も胸に

君の足跡が、輝き続ける

僕は歩き続ける、君が示したその道を

最初の数秒で、私は首を傾けた。

これは、日本語じゃない。

でも英語でも中国語でもなかった。音の並び方が、知っているどの言語とも違った。硬くて、古くて、どこか儀式的な響きがあった。

体育館が、静かになっていた。笑い声も、スマートフォンの通知音も、聞こえなくなっていた。誰も動いていなかった。

私はパンフレットの裏に、聞こえた音を片っ端から書き留めようとした。でも追いつかなかった。聞き取れる言語と聞き取れない言語が交互に来て、その境界がどこにあるのかもわからなくなった。

八分以上、続いた。

気がつくのが遅れた。脳が一瞬、処理を止めた。ここまでずっと外国語だったせいで、日本語が日本語として入ってくるまでにタイムラグがあった。

曲が終わった。

体育館は、しばらく静かなままだった。

それから、まばらに拍手が起きた。さっきのエクストリーム元寇とは違う種類の拍手だった。とりあえず手を叩いているけど、何が起きたのかわかっていない、という拍手だった。

大野猛は、普通の顔をしていた。

すごいことをやった自覚がない、というより、これが普通だと思っている顔だった。

私はパンフレットの裏に書いた走り書きを見た。ぐちゃぐちゃだった。

いや、才能ってレベルじゃない。

わかんないけど、最初のやつ古典ギリシャ系だよね。なんなのあいつ。それに最後の日本語、気がつくの遅れた。脳がバグる。

換金、という言葉が、急に小さく感じた。

大祭の当日、私は友人の中村と出店エリアにいた。

焼きそばを食べながら、中村が「本堂の方、なんかすごいらしいよ」と言った。「ふーん」と私は言った。「行かなくていいの?」「焼きそばの方がいい」

中村は笑った。私も笑った。

本堂の方から、時々歓声が聞こえた。何があったのか、私は確認しなかった。父が自治会長として動き回っているのはわかっていたけど、それも別に見に行かなかった。父は父の仕事をしている。私は焼きそばを食べている。それでいい。

夕方、人が減り始めたころ、父を遠くから一度だけ見かけた。赤ら顔で、近所のおじさんたちと何か話していた。楽しそうだった。

それから少しして、声が聞こえた。

本堂の方から来た声だった。マイクを通していない、生の声だった。でも遠くまで届いた。

言葉が、わからなかった。日本語じゃなかった。でも足が止まった。

中村が「どうしたの?」と言った。「ちょっと待って」と私は言った。

声は続いていた。

Ὦ Ἐὐριδίκη, ἀγαπητή μου,

τὸ φῶς τὸ αἰώνιον ἐχάθη σοί.

ἔρχομαι νῦν πρὸς γῆν σκιᾶς,

ψυχὴν σου ἀναζητῶν ἐν νυκτί.

私は焼きそばの容器を中村に押しつけて、本堂の方に歩き始めた。「え、行くの?」

答えなかった。足が勝手に動いていた。

人の流れをかき分けて本堂に近づくにつれ、声がはっきりしてきた。境内の端まで来たとき、蒼井智樹が本堂の前に立っているのが見えた。

ブラバン打ち上げのあの子だった。キャバクラみたいになっていたあの子が、今は一人で立っていた。マイクも何もなかった。ただ立って、歌っていた。

Ὦ Ἐὐριδίκη, ἀγαπητή μου,

τὸ φῶς τὸ αἰώνιον ἐχάθη σοί.

ἔρχομαι νῦν πρὸς γῆν σκιᾶς,

ψυχὴν σου ἀναζητῶν ἐν νυκτί.

Ἐς σκότος καὶ βάθος, φῶς μου μικρόν,

τὸν ἔρωτά μου οὐ δύναμαι νικᾶν.

ἐὰν σὺ μόνον εἶ μοι πλησίον,

ψυχή μου ἔχει τὸν τελευταῖον πόθον.

Πόνος, φόβος, καὶ ἀβάστακτον φῶς,

νέκρων σιγή με περιβάλλει.

ἀλλ’ εἰς ἄβυσσον σε διώκω,

ψυχὴν μοι φέρων πρὸς νύκτας ἀειθαλείς.

Θεῶν ἡ φωνή με προειδοποιεῖ,

“Μὴ βλέψῃς, Ὀρφεῦ, οὔτε ὀπίσω.”

ἀλλὰ πόθος με νικᾷ, καὶ ἀγωνίαν,

ἐπιστρέφω καὶ σὺ φεύγεις εἰς σκιάν.

Ἐς σκότος καὶ βάθος, φῶς μου μικρόν,

τὸν ἔρωτά μου οὐ δύναμαι νικᾶν.

ἐὰν σὺ μόνον εἶ μοι πλησίον,

ψυχή μου ἔχει τὸν τελευταῖον πόθον.

周りに人が集まっていた。誰も話していなかった。

曲が終わった。

しばらく、誰も動かなかった。

私は蒼井智樹の顔を見た。ブラバン打ち上げのときと同じ、さして感情のない顔だった。歌い終わったから終わった、という顔だった。

この声に、聞き覚えがあった。

でも、どこで聞いたか、その場ではまだわからなかった。

打ち上げには参加しなかった。

父が「来るか」と聞いてきたけど、「行かない」と答えた。特に理由はない。ただ、大人たちが酔っ払って懐かしい話をする場所に、私がいる必要はないと思った。

夜の十一時過ぎに、知らない番号から電話がかかってきた。

出たら、警察だった。

父が転んだのは、家から二百メートルくらいのところだった。段差があって、暗くて、酔っていた。それだけの話だった。

病院に着いたときにはもう、何もできることはなかった。

母は出張中で、私が一人で駆けつけた。受付で名前を言って、廊下のベンチに座って、担当の先生の話を聞いた。

はぁー、と私は思った。

気をつけろって、何度も言ったのに。

段差に気をつけろ、飲みすぎるな、夜道は明るいところを歩け。ぜんぶ言った。父はそのたびに「わかってるわかってる」と言った。わかってなかった。

悲しいかどうかと聞かれると、よくわからなかった。何かが、ぽかっと抜けた感じはあった。でも涙は出なかった。父のことが嫌いだったわけじゃない。ただ、こういう人だとわかっていた。だから、こうなることも、どこかでわかっていた気がする。

打ち上げで「来年からは若いもんに任す!」と言ったらしい、という話を後から聞いた。

らしいな、と思った。そういうことを言う人だった。

葬儀は小さかった。

父の希望で、家族と近所の人間だけで送った。葬儀場は地元の小さいところだった。

読経が終わった。

マイクを通した声が、静かに流れた。「浄念寺、坂本——ただいまより出棺いたします。お手伝いいただける方は、棺の周りにお集まりください」

近所のおじさんたちが立ち上がった。棺が動いた。

曲が流れた。

いまも胸に残る声

名を呼ぶたびに揺れる空気

「ありがとう」と言い切って

振り向かず 扉を越えた

涙が落ちきるその前に

この時間を 胸に刻め

失うことで残された

ぬくもりだけを 抱いて立て

夕焼けが影を伸ばして

静かな風が背を押した

あなたが置いていったもの

それは弱さじゃないと知る

涙が落ちきるその前に

この時間を 胸に刻め

別れの中で受け取った

強さだけが 今を照らす

時は戻らない それでいい

声は消えても 意志は残る

私がここに立つ理由

あなたが教えていった

涙が落ちきるその前に

この時間を 胸に刻め

終わりではなく 託された

光の先へ 歩き出せ

私は曲が終わるまで、ずっとそのことを考えていた。

蒼井かもしれない、と思った。でも確信が持てなかった。これまで調べた蒼井智樹の作品とは作風が離れすぎていた。高濃度の方言曲でも、古代語の曲でも、葬送曲でもなかった。もっと透明で、もっと静かで、もっと個人的な曲だった。

葬儀が終わってから、支配人に曲名を聞いた。「託された光のまま、というタイトルです」

家に帰って音楽ストアを全部調べた。

どこにも、なかった。

タイトルも、曲も、どこにも存在しなかった。

もう一度聞こうとしても、聞く方法がなかった。

私はしばらく、スマートフォンを持ったまま動けなかった。

答えが出せないまま、その日は終わった。

その夜、「エクストリーム元寇」を調べた。

配信サイトにあった。アーティスト名を確認した。

蒼井智樹。

私は三秒、画面を見つめた。

知ってる。ブラスバンドの子だ。から揚げをもらった打ち上げの、あの子だ。大祭で歌っていたあの子だ。

偶然にしては出来すぎている、と思った。でも偶然というより、私の観測範囲がまだ狭かっただけかもしれない。とりあえず、もっと調べた。

蒼井智樹名義の楽曲は、思ったより多かった。配信サイトにあるものだけで数十曲。でも数より内容が問題だった。ジャンルがばらばらだった。高濃度の方言曲もあれば、静かなピアノ曲もあった。民謡に近いものもあった。葬儀用と思われる曲もあった。そしてところどころに、人間が歌えるとは思えない曲が混ざっていた。

サンスクリット語。古代ギリシャ語。エクストリーム鹿児島弁。エクストリーム津軽弁。

そして「元寇」というタイトルの曲があった。11ヶ国語が一曲に入っていた。

今日、体育館で聞いた曲とは違う曲だった。でも同じ匂いがした。

この曲を、誰かが歌っている。

ボーカルは不明のままTikTokでバズっていた。コメント欄は「何語?」「人間?」「AIじゃないの?」で埋まっていた。

私はしばらく、その曲を聞いた。

声に、聞き覚えがあった。でもまだ確信が持てなかった。

葬儀用と思われる曲のアルバムを開いた。「涙がこぼれてしまう前に」。

どこかで聞いた気がした。タイトルではなく、曲そのものを。でもどこで聞いたか、すぐには思い出せなかった。

猛の祖父の葬儀に出た人間を探した。SNSを辿って、つながりのある人間を当たって、三日かかった。

出た人間が一人見つかった。メッセージを送った。返信が来た。

「静かな曲が流れてた。葬儀っぽくない、でも葬儀にしか使えないような。タイトル、確か……」

私は先に送った。「涙がこぼれてしまう前に?」

「そう、それ。なんで知ってるの?」

知ってる、と私は返信した。

その週末、もっと範囲を広げて調べた。

石川県内で蒼井智樹の曲が使われている場所を、使えるだけの手段を使って探した。配信サイト、SNS、地域のイベント記録、葬儀社のBGMリスト、商店街の放送記録。

出てきた。

あちこちから、出てきた。

神社の祭り。葬儀。商店街のイベント。学校の式典。地域の老人ホームの慰問コンサート。どれも表には名前が出ていない。でも音源を辿ると、同じ場所に行き着いた。

蒼井智樹は、この地域の音の相当な部分を、静かに、誰にも気づかれずに、埋めていた。

一年生が。本人は素人と思っていると思われる、あの一年生が。

私はしばらく、スマートフォンを持ったまま動けなかった。

これは、二件じゃない。

二人いる。

大野猛と蒼井智樹、二人いる。

しかも二人はすでに繋がっている。猛は蒼井の曲を一回聞いただけで完璧に歌い、蒼井は猛の祖父の葬儀に曲を提供している。お互いがお互いの存在を知っているかどうかはわからない。でも繋がっている。

才能が、面で存在している。

私は深呼吸を一回した。

接触するタイミングは、まだ先でいい。でも順番と方法を、今夜中に設計する必要がある。

父の葬儀で流れた曲のことは、まだ答えが出ていない。

「託された光のまま」。どこにも存在しない曲。

蒼井かもしれない。でも断定できない。

初めて、設計が止まった。

猛の学校の文化祭から三週間後、大野猛に接触した。

場所は白鷹神社の境内だった。猛が参拝に来るタイミングを調べて、その時間に行った。偶然を装った。

「大野くんだよね。文化祭、見てたよ」

猛は少し驚いた顔をしたが、嫌がらなかった。「あ、そうですか」

「一回聞いただけで歌えるって本当?」「まあ、だいたいは」

だいたいは、という答えが、逆に正直だと思った。できます、じゃなくて、だいたいは、と言える人間は、自分の能力の輪郭をわかっている。

「アンコールの曲」と私は言った。「あれ、なんて曲?」

猛は少し考えた。「神々の応援歌、っていうタイトルです」「何語が入ってたの?」「古代ギリシャ語と古ノルド語とサンスクリット語と日本語です」

私は一秒、間を置いた。「それ、一回聞いて覚えたの?」「そうです」

普通の顔で言った。「少し話せる?」と私は言った。「今じゃなくていい。都合のいいとき」

大野猛は少し考えてから「いいですよ」と言った。

私はバッグからメモ紙を出して、番号を書いて渡した。

後日、大野猛と話した。場所は猛が指定した喫茶店だった。

私は最初から目的を決めていた。蒼井智樹との接点を確認する。直接は聞かない。

「エクストリーム元寇、あの曲どうやって知ったの?」「蒼井から聞きました」

やっぱりそうだ。「蒼井くんって、どういう経緯で知り合ったの?」

猛は少し考えた。「爺さんに会いに来てたんですよ。神社に」

私は一秒、間を置いた。

蒼井智樹は、大野猛の祖父に接触していた。神社経由で繋がっていた。私がどれだけ調べても辿り着けなかったルートだ。

「同じ学校じゃないよね」「違いますよ」「神社で知り合ったの?」「そうです」

私は内心で整理した。

蒼井は大野猛の祖父に会いに神社に来ていた。猛とはそこで繋がった。学校では接点がなかった。でも蒼井は猛の祖父の葬儀に曲を提供し、猛は蒼井の曲を一回聞いただけで完璧に歌う。

珍獣すぎる。これはどう考えても仲がいいでしょ。

「神々の応援歌も蒼井くんの曲?」「そうです」「一回聞いて覚えたのも、蒼井くんの曲だから?」

猛は少し首を傾けた。「そういうわけじゃないですけど、あの曲は特に入りやすかったです」

入りやすかった。8分40秒の4ヶ国語混在曲が、入りやすかった。

私はそれ以上聞くのをやめた。今日確認できたことは十分だ。

二人の間に繋がりがある。深い繋がりが。そして二人とも、その価値に気づいていない。

気づいていないから、私が動く。

その週末、母の取引先の結婚式があった。

母から「来るか」と聞かれたとき、私は即答した。「行く」

母が少し驚いた顔をした。私が自分から結婚式に行くと言ったのは、たぶん初めてだった。

理由は言わなかった。調査の続きだ、とは言えない。

式場は金沢市内のホテルだった。白いクロスのかかったテーブルが並んで、生花が飾られていて、どこにでもある結婚式の風景だった。

私は母の隣に座って、料理に手をつけながら、BGMに耳を澄ませていた。

披露宴が中盤に差し掛かったころ、曲が変わった。

最初の数小節で、私は箸を置いた。

この作り方を、知っている。

光の隙間じゃ足りなくて

壊れるほど見つめ合った

言葉は少なくていいと

言い訳しながら

指先で確かめた

静寂に満ちた朝なのに

胸だけが騒がしくて

笑顔も涙も

もう選べなくて

全部 君に渡した

歩幅を合わせるんじゃない

引きずってでも進むんだ

闇も光も選ばない

逃げ場ごと

抱き潰すように

何も言わなくても

わかるなんて嘘だ

それでも叫ばずに

ここにいると

何度も刻む

風がそっと通り過ぎるたび

ほどけそうになるから

何度でも

結び直す

静かなる誓いは

優しい約束じゃない

壊れる日まで

燃え続けると決めた

永遠を

包み込むんじゃなく

焼き尽くす

私は口元を手で押さえた。

笑いそうだった。本当に笑いそうだった。

怖すぎる。怖すぎでしょ、これ。

新郎新婦がケーキ入刀をしている後ろで、この曲が流れている。

正直すぎる。結婚式で流す曲じゃない。でも間違ったことは一つも言っていない。

私は完全に吹き出しそうになって、ナプキンを口に当てた。

や、焼き尽くすってwww

母が「どうしたの」という顔でこちらを見た。「なんでもない」と首を振った。

曲が終わった。拍手が起きた。誰も歌詞の意味を考えていないようだった。

私はスマートフォンを取り出して、曲名を調べた。

「静かなる誓い」。

アーティスト名を確認した。

蒼井智樹。

やっぱりそうだ。

私はしばらく、式場の天井を見上げた。

結婚式まで来ている。神社の祭り、葬儀、商店街、学校の式典、老人ホーム、そして結婚式。

この町の音が、静かに蒼井智樹に侵食されている。

怖い。でも面白い。極端すぎて、逆に面白い。

私はもう一度「静かなる誓い」を検索して、イヤホンで聴き直した。

やっぱり怖かった。やっぱりクセになった。

結婚式の帰り道、スマートフォンに見知らぬ番号から着信があった。出ると、町内会の役員のおばちゃんだった。「ゆいかちゃん、自治会長の代わりやってみる気ない?」

私は一秒、間を置いた。

きた。チャンス。「やります」と私は言った。

おばちゃんが「えっ、即答ね」と笑った。

当たり前だ。地元案件で私が直接動くのは難しい。地域の力学があって、外から手を出せる範囲に限界がある。でも自治会長というポジションがあれば話が変わる。公式に動ける。地域のイベントに関われる。

そして何より——海外に繋ぐための足がかりになる。

みんながメルカリで売っている間、私はeBayで取引している。海外にメールで繋がった友人が何人かいる。国内で値段がつかないなら、海外でつければいい。蒼井智樹の音楽が国内でどれだけ広がっても、本人は金に興味がない。でも海外なら話が違う。誰も知らない場所に持ち込めば、値段は青天井になる。

電話を切って、私はもう一度「静かなる誓い」をイヤホンで聴いた。

やっぱりクセになる。怖いけど。

これがビジネスの始まりだ、とは思わなかった。

ただ、確認しておきたいことが、まだいくつかある。

才能の値段は、まだわからない。

でも値段がつかないものは、この世にない。

二人分の値段が、どこかにある。

——それだけは、確かだ。

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第八章

統合学院ヘクスコア

1 第一章 いつもの朝と、そうじゃない学校

2 屋上決闘

3 走れファジャル

4 普通の火曜日

5 りんごと重力

6 逆・幼馴染の朝

7 サバイバル訓練(第一視点)

8 サバイバル訓練(第二視点)

9 サバイバル訓練(第三視点)

10 申請書の山

11 吾輩はドローンである

12 逆 武蔵

13 普通という名の迷宮

14 芭蕉の裔

15 言葉知らずの恋

16 文化祭最終日、あるいは何でもない一日

統合学院ヘクスコア

第一章 いつもの朝と、そうじゃない学校

春の朝は、少しだけ空気がやわらかい。

窓の外から聞こえてくる音をぼんやり聞きながら、俺は布団の中で目を閉じていた。

今日は月曜日だった。

できれば学校には行きたくない。でも行かないわけにもいかない。

そんなことを考えていると、突然ドアが勢いよく開いた。

「ちょっと、蓮! また寝てるの!?」

聞き慣れた声だった。

幼馴染の立山 澪は、呆れたような顔で俺を見下ろしていた。

肩まで伸びた黒髪が揺れる。制服姿の彼女は、いつも通り距離が近かった。

「あと五分……」

「ダメに決まってるでしょ! 遅刻するって!」

俺——九頭竜 蓮——はため息をつきながら起き上がる。

こうして毎朝起こしに来るのも、もう当たり前になっていた。

別に頼んだわけじゃない。

でも気づけば、いつもそうだった。

「べ、別にあんたのためじゃないし。途中まで一緒だから来ただけだし」

「はいはい」

「その返事なんかムカつくんだけど」

そんなやり取りをしながら、俺は制服に着替える。

鏡に映る自分は、どこにでもいる普通の高校生にしか見えなかった。

特別なことなんて何もない。

少し人付き合いが苦手なくらいだ。

今日から転入する学校の名前は、統合学院ヘクスコア。

通称、HEX。

父親の仕事の都合で引っ越してきた街にある、らしい。

「マンモス校だから馴染みやすいよ」と父は言っていた。

澪も同じタイミングで転入することになって、それだけは少し気が楽だった。

「ほら、行くよ」

澪に腕を引っ張られながら、俺は部屋を出た。

最寄り駅からバスで二十分。

窓の外の景色が、少しずつ変わっていった。

最初は普通だった。住宅街、コンビニ、信号。

でも十分を過ぎたあたりから、なんとなく、空気が変わった気がした。

建物が大きくなった。やたらと大きくなった。

「……ねえ、澪」

「なに」

「あの建物、何階建て?」

「数えてたけど途中でわかんなくなった」

バスの窓に額をつけて外を見ると、コンクリートの壁がどこまでも続いていた。

壁面に、文字が貼り付けられている。

日本語、英語、ハングル、漢字、あともう一個読めない文字。

全部サイズが違って、全部主張が強かった。

「……普通の学校だよな?」

「普通って書いてあったよ、パンフレットに」

「パンフレットに書いてあったら普通なのか?」

「さあ」

バスが止まった。

アナウンスが流れる。

『統合学院ヘクスコア前、HEX第六環入口、終点です』

「第六環って何?」と澪が言った。

「さあ」と俺は言った。

ドアが開いた。

降りた瞬間、熱気が来た。

においが来た。

音が来た。

屋台だった。

どこを見ても屋台だった。左も右も正面も、屋台と人と、あとバイクだった。

「廊下は走らないでください」という看板の横を、バイクが普通に走っていった。

誰も気にしていなかった。

「ここ……学校の敷地内?」と澪が言った。

「多分」

「屋台出てるけど」

「出てる」

「フォーとたこ焼きが同じ店で売ってる」

「売ってる」

俺たちはしばらく立ち尽くした。

「行こう」と澪が言った。

どこへ、とは言わなかった。俺も聞かなかった。とりあえず人の流れに乗った。

流れの中に制服姿の生徒がいた。良かった、学校だ、と思った。

その生徒の隣を、武術の道着を着た人間が歩いていた。

その隣を、なんか気功みたいなことをしながら歩いている人が歩いていた。

その人の頭上を、配信用のドローンが追いかけていた。

「ねえ、蓮」

「なに」

「あれ見て」

澪が指さす先に、建物があった。

普通の校舎だった。廊下があって、窓があって、「ゴミは分別しましょう」という掲示があった。

その窓の外側を、誰かが気功で浮かびながら移動していた。

「……授業、普通に受けられるかな」と澪が言った。

「受けよう」と俺は言った。

他に言うことがなかった。

転入手続きは第五環の事務棟で行われた。

受付の人は普通だった。書類を確認して、学生証を発行して、「配信アカウントの登録はお済みですか」と言った。

「配信アカウント……?」

「HEXStreamです。配信ランクが食堂の席順と図書館の閲覧権限と決闘の挑戦可否に直結しますので、早めの登録をお勧めします」

「……決闘」

「はい。屋上で行います。事前申告が必要ですが、自然発生した場合は二十四時間以内の事後申告でも有効です」

受付の人は普通の顔で言った。

「あと、こちら校則の冊子です。全二十七巻ですが、読了の義務はありません」

段ボール箱が二つ、ドンと置かれた。

澪がそれを見て、何も言わなかった。

俺も何も言わなかった。

「では、ご入学おめでとうございます」

「……ありがとうございます」

教室は第二環の四階にあった。

一階では数学の授業が行われていた。普通だった。

二階では何かの修行が行われていた。

三階では集会が行われていた。誰かがマイクで何か叫んでいた。

四階が俺たちの教室だった。

「入って」と担任が言った。

教室に入ると、視線が来た。

それは普通だった。転入生あるあるだ。

「自己紹介して」

「九頭竜 蓮です。よろしくお願いします」

「立山 澪です。よろしくお願いします」

拍手があった。普通だった。

「席は——」

そのとき、窓の外で爆発音がした。

誰も振り向かなかった。

「席は九頭竜が窓際の三列目、立山が——」

また爆発音がした。

誰も振り向かなかった。

「——立山が廊下側の四列目ね」

「あの」と俺は言った。

「なに」

「今、爆発しましたよね」

「USA50が決闘してる。今週で三回目だから慣れるよ」

「USA50って」

「アメリカ五十州の代表。今日はテキサスとカリフォルニアが揉めてる。毎週揉めてる」

担任は何でもない顔で言った。

俺は席に着いた。

隣の席の生徒が、錬丹炉を机の上に置いていた。そこから煙が出ていた。

「……それ、授業中に使うの?」

「実験実習の単位になるから」

「そう」

「君たち転入生?」

「そう」

「HEXようこそ。慣れたら普通だよ」

その生徒は普通の顔で言った。

俺はとりあえず教科書を出した。

昼休みだった。

澪と二人で第六環の屋台に向かった。

澪が「外で食べたい」と言ったし、食堂は配信ランクによって席が決まると聞いたし、まだランクがないので選択肢がなかった。

「何食べる?」と澪が言った。

「なんでもいい」

「フォーにする」

「俺もそれでいい」

屋台に近づくと、店主のおじさんが顔を上げた。

そして俺の顔を見て、少し目を細めた。

「……初めて見る顔だね」

「今日転入しました」

「そうか」おじさんはフォーをよそいながら言った。「HEXに来た理由は?」

「父の仕事の都合で」

「ふうん」

しばらく間があった。

「あの子と知り合い?」おじさんが顎で示した先に、一人の生徒が座っていた。

制服だった。でも制服の下に、何か紺色のものが見えた。

スクール水泳パンツ、だった。

生徒は普通にフォーを食べていた。

「知らないです」

「そうか」おじさんは少し笑った。「まあ、そのうちね」

意味がわからなかったが、フォーを受け取って澪のところへ戻った。

「あの人、誰?」と澪が言った。

「知らない」

「海パン見えてたけど」

「見えてた」

「……普通なの、ここ?」

「普通らしいよ、慣れたら」

澪はフォーをすすった。

俺もフォーをすすった。

屋台の並びから、どこかで革命集会のシュプレヒコールが聞こえてきた。

誰かが何かに向けてドローンを飛ばしていた。

バイクが通った。

換気扇の音が鳴っていた。

「ねえ、蓮」

「なに」

「私たちの学校生活、普通になると思う?」

俺は少し考えた。

「さあ」

「さあって何よ」

「わかんないよそんなの」

澪は少し黙った。

それから、笑った。

「まあいっか」

「まあいっか」

遠くの屋上で、また何かが始まろうとしていた。

配信ドローンが三機、そちらへ向かっていった。

俺たちはとりあえず、フォーを食べ終えた。

――これが、俺たちのHEX最初の昼だった。

屋上決闘シーン(第一章挿入用)

「屋上で決闘やってるって」

澪がスマホを見ながら言った。

「HEXStreamってやつ?」

「配信されてる。今日の申告決闘らしい。見に行く?」

フォーを食べ終えた俺たちに、特に断る理由はなかった。

屋上には、既に人が集まっていた。

多かった。異常に多かった。

生徒だけじゃなく、配信ドローンが十数機、上空を旋回していた。

観客の半分はスマホを構えていた。残りの半分は錬丹炉を持っていたり、道着姿だったり、なぜかタキシードを着ていたりした。

「なんの決闘?」と俺は隣の生徒に聞いた。

「ポーカー決闘。申告書にそう書いてある」

「ポーカー」

「ルールは申告書に書いたものが適用されるから、理論上は何でも決闘になる」

「……そういうもんなのか」

「慣れたら普通だよ」

今日で三回目のセリフだった。

決闘場の中央には、緑のフェルト張りのテーブルが一脚。

向かい合って二人が座っていた。

片方は、フランス人だった。

フランス人だということは後で知った。でも一目見て「普通じゃない」とわかった。

なぜなら、その人物の全身から、霧が出ていた。

霧ではなかった。香水だった。

全身から香水の霧が噴き出していた。服のどこかに仕込んであるのか、首元から、袖口から、靴の底から、あらゆる隙間から、絶え間なく香水が霧状に放出され続けていた。

「香水百瓶カオスシャワー」と澪がスマホを見ながら言った。「フランス代表。百種類の香水を同時に纏って戦う。配信名がそのまま本名扱いになってるって」

「百種類」

「同時に」

「……匂いは?」

「配信じゃわかんない」

現場ではわかった。

甘い。辛い。花。土。海。革。果物。金属。煙。あともう何か。それが全部同時に来た。

俺の鼻が困惑していた。

もう片方は、スーツを着た男だった。

金のカフスボタン。金の時計。金のネクタイピン。やたらと金が多かった。

サングラスをかけていた。

カードをシャッフルしていた。

「ジャック・モロー=ラスベガス」と澪が読み上げた。「USA50、ネバダ州代表。ラスベガス出身。カジノで生まれて、カジノで育って、カジノしか知らないって自己紹介に書いてある」

「ラスベガス出身って名字になるのか」

「HEXは第七環出身の人が名字に環名を入れるから、それの州バージョンらしい。本名はジャック・モローだけど、州への帰属意識が強いから」

「そういうもんなのか」

「慣れたら——」

「普通なんだろ、知ってる」

審判が声を上げた。

「申告決闘・第四十七号。ポーカー形式、五回勝負。開始」

観客が静まった。ドローンが位置を固定した。

モロー=ラスベガスがカードをシャッフルした。

指さばきが、異常だった。

カードが空中で弧を描いた。扇形になって、また束になって、また扇形になった。

観客からどよめきが起きた。

「さすがラスベガス……」と誰かが言った。

モロー=ラスベガスはサングラスの奥で目を細めた。

「ポーカーは情報戦だ。カードを読む。相手を読む。空気を読む。俺はこの街で生まれた瞬間からそれだけをやってきた」

低い声だった。渋かった。絵になっていた。

配信のコメント欄が流れた。『かっこいい』『ラスベガスさんやばい』『フランスさんどうするの』

百瓶カオスシャワーは、黙っていた。

ただ座って、香水を噴出し続けていた。

一回戦。

モロー=ラスベガスがカードを配った。

二人が手を確認した。

百瓶カオスシャワーが手を開いた。フルハウスだった。

モロー=ラスベガスが手を開いた。スリーカードだった。

「フランスの勝ち」と審判が言った。

モロー=ラスベガスは表情を変えなかった。

「一回くらいは負ける」

二回戦。

モロー=ラスベガスがカードをシャッフルした。

さっきより速かった。カードが空中で弧を描く。

その瞬間だった。

「……あ」と澪が言った。

俺も気づいた。

カードが、百瓶カオスシャワーの香水の霧の中を通過していた。

フェルトのテーブルをはさんで、二人の間に香水の霧が漂っていた。

シャッフルのたびに、カードがその霧を切るように動いていた。

百瓶カオスシャワーは動じなかった。

モロー=ラスベガスも動じなかった。

カードが配られた。

二人が手を確認した。

モロー=ラスベガスが、わずかに鼻をひくつかせた。

三回戦。

シャッフル。

霧の中を、カードが通過した。

モロー=ラスベガスの指が、一瞬だけ止まった。

そして再開した。

カードが配られた。

「……なんかあの人、顔色変わってない?」と澪が言った。

変わっていた。

サングラスの上から見ても、わかるくらい変わっていた。

「百種類の香水が……カードに……」と俺は言った。

「シャッフルするたびに」と澪が言った。

「混ざって……」

「新しい匂いが生まれてる」

百瓶が百瓶のまま来るのではなかった。

シャッフルのたびに組み合わさり、混ざり合い、この世に存在しなかった匂いが生まれていた。

花と革と金属と煙が合わさった何か。

果物と土と海が合わさった何か。

甘いのか辛いのか判断できない何か。

それが、カードとともに、テーブルの上に広がっていた。

モロー=ラスベガスは、プロのポーカープレイヤーだった。

鍛え上げられた無表情を持つ男だった。

しかし彼は一つのことを計算に入れていなかった。

ラスベガスに、これはなかった。

四回戦。

シャッフルした。

モロー=ラスベガスの手が、明らかに震えていた。

カードを配った。

手を確認した。

サングラスが、ずれた。

「…………」

目が、泳いでいた。

百瓶カオスシャワーは動じなかった。

ただ静かに、自分の手を確認していた。

そしてわずかに、口の端が上がった。

「これは……」モロー=ラスベガスが呟いた。「こんな……ラスベガスにも……カジノにも……」

声が遠くなっていた。

「なんの匂いだ……何かが……何かと合わさって……これは……」

カードを持つ手が、テーブルに触れた。

支えていた。

「……こんな手が……ありえるか……いや……でも……匂いが……」

観客が静まりかえった。

ドローンが三機、ズームした。

五回戦。

モロー=ラスベガスがカードをシャッフルした。

最後のシャッフルだった。

カードが霧を切った。

新しい何かが生まれた。

モロー=ラスベガスの目が、完全に焦点を失った。

カードが手から離れた。

テーブルに落ちた。

そのままゆっくりと、男は椅子から崩れ落ちた。

審判が駆け寄った。

「ジャック・モロー=ラスベガス、戦闘続行不能。不戦敗」

観客が爆発した。

配信のコメント欄が止まった。一秒後に再開した。文字が流れるのが追いつかないくらいの速度で流れた。

ドローンが百瓶カオスシャワーに集まった。

百瓶カオスシャワーは立ち上がり、静かに制服の裾を直した。

そして一言だけ言った。

「シャッフルは、リスクです」

「……」と俺は言った。

「……」と澪が言った。

しばらく二人で黙っていた。

「カードで戦って」と澪が言った。

「カードで負けた」と俺が言った。

「でも実質」

「匂いで負けた」

「……これが」

「決闘」

澪は遠くを見た。

俺も遠くを見た。

運ばれていくモロー=ラスベガスの後ろ姿を、観客が道を開けて見送っていた。

誰かがタオルをかけてやっていた。

誰かが「ラスベガスお疲れ!」と声をかけていた。

決闘のわりには、温かい空気だった。

「慣れたら普通なのかな、これも」と澪が言った。

「さあ」と俺は言った。

屋上の隅に、誰も座っていない椅子が一脚あった。

ずっとそこにある椅子みたいだった。

俺はそれを一秒だけ見て、視線を外した。

午後の授業が、始まろうとしていた。

走れファジャル

ファジャル・スラカルタは走った。

セロス(Ceros)と名付けた愛機を第六環の石畳に叩きつけ、全速で走った。

午前の授業が終わった瞬間に飛び出した。理由は単純だった。姉の結婚式があった。

インドネシアでは、姉の結婚式は絶対だ。

命よりも重い。単位よりも重い。

HEXの校則三千八百四十七条のどれよりも重い。

しかし午後の授業もあった。

HEXの単位規定第十七条によれば、午後の必修科目を無断欠席した場合、その学期の単位は全て消滅する。全てだ。一つ残らず。慈悲はない。規定には「いかなる理由があろうとも」と書いてあった。いかなる理由、だ。

ファジャルは考えた。三秒考えた。

そして走ることにした。

姉の結婚式に行って、帰ってくる。午後の授業が始まるまでに。

それだけだ。簡単な話だ。

「遠いのか?」と俺は聞いた。

澪が配信を見ながら「HEXStreamで実況されてる」と言ったので、俺も画面を覗いた。

「第六環から出発して、インドネシア本国まで?」

「時差が二時間ある」と澪が言った。

「帰ってこられるのか」

「授業まで三時間と四十分」

俺たちは黙った。

画面の中で、ファジャルのベスパが路地を抜けていた。

バズっていた。コメントが流れていた。

『マブハイ!!』

『行け行けファジャル!』

『物理的に無理では??』

『HEXだから何とかなる気がする』

「HEXだから何とかなる気がする、か」と俺は言った。

「慣れたら普通なのかも」と澪が言った。

ファジャルは走った。

風が耳をつんざいた。スラムの路地、市場の横、港、そして海。

海の上もファジャルは走った。

ベスパのタイヤが波頭を蹴った。

塩の飛沫が頬を叩いた。それでも走った。

姉はいつも優しかった。

ファジャルが初めてベスパに乗った日、後ろで笑いながら抱きついていた姉。

ファジャルがHEXへの入学試験に合格した夜、泣きながら料理を作った姉。

「行ってこい」と言った姉。「でも死ぬな」とも言った。

死なない、とファジャルは思った。

だから走る。

式は短かった。

泣いた。笑った。食べた。

姉の夫となった男は誠実そうだった。握手した。強く握り返してきた。いい男だと思った。

「早く帰れ」と姉は言った。「単位を落とすな」

「落とさない」

「本当に?」

「本当に」

「嘘をつくな」

「嘘をつかない」

姉はファジャルの頬をつねった。子供の頃からそうだった。それがさよならの合図だった。

ファジャルはベスパに跨った。

帰る。走って帰る。

授業に間に合わせる。

それだけだ。世界でそれだけが、今のファジャルに残された使命だった。

帰路もファジャルは走った。

海を走った。風を走った。時間を走った。

しかし世界は広く、ベスパの燃料は有限で、時差は残酷だった。

第六環の入口が見えた。

時計を見た。

授業開始まで、あと四分だった。

ファジャルは叫んだ。インドネシア語で叫んだ。日本語に訳すと大体「間に合えええええ」だった。

石畳を駆け抜けた。屋台のおじさんが避けた。錬丹師が丹薬を取り落とした。革命委員会の演説が途切れた。誰かのドローンが巻き込まれて宙を舞った。

第二環の校舎が見えた。

階段。四階。

ファジャルはベスパを乗り捨てた。走った。足で走った。階段を駆け上がった。

三階を過ぎた。

廊下を走った。廊下を走ってはいけないという校則があった。ファジャルは知っていた。知った上で走った。後で「マブハイ精神による例外申請」を出すつもりだった。

教室のドアが見えた。

時計を見た。

授業開始まで、あと十七秒だった。

ファジャルはドアに手をかけた。

ドアが開いた。

「セーフ」と誰かが言った。

教室中から拍手が起きた。

配信ドローンが三機、教室の窓の外から突っ込んできた。HEXStreamのコメントが爆発した。

『マブハイ!!!!』

『ファジャルやったああ!!』

『授業ちゃんと出るのかよwww』

担任が呆れた顔をしていた。

「遅い」

「間に合いました」

「一秒前だ」

「間に合いました」

担任はため息をついた。

「席に着け」

ファジャルは席に着いた。

海の塩がまだ髪についていた。

式場の花の匂いがまだ服に残っていた。

姉の指の跡が、まだ頬に残っていた。

ファジャルは教科書を開いた。

俺は配信の画面を閉じた。

「間に合ったな」と俺は言った。

「間に合った」と澪が言った。

「姉の結婚式に行って帰ってきた」

「帰ってきた」

「インドネシアまで」

「往復で」

「授業に間に合った」

「間に合った」

俺たちはしばらく黙った。

「HEXだから、だな」と俺は言った。

澪は何も言わなかった。

ただ少し笑った。

窓の外では、誰かがまた何か始めようとしていた。

ドローンが飛んでいた。

屋台の煙が流れていた。

換気扇が鳴っていた。

午後の授業が、静かに続いていた。

普通の火曜日

火曜日だった。

特に何もない火曜日だった。

俺と澪は午後の授業が終わって、第六環の屋台に向かっていた。それだけだった。

「今日何食べる」と澪が言った。

「なんでもいい」

「また言ってる」

「本当になんでもいいんだよ」

「じゃあ昨日と同じフォーでいい?」

「それは嫌だ」

「なんでもよくないじゃん」

廊下の横をバイクが通過した。二人とも避けた。もう慣れていた。

屋上からどこかで爆発音がした。二人とも見上げなかった。もう慣れていた。

「フォー以外で」と俺は言った。

「タコ焼き」

「それでいい」

第六環は今日も混んでいた。

いつも混んでいる。混んでいない日を俺はまだ見たことがない。

屋台の煙と、バイクの排気と、どこかの錬丹炉の煙と、革命集会のシュプレヒコールが混ざって、HEXの空気になっていた。

これがHEXの匂いだと、最近わかってきた。

悪くない匂いだと、最近思ってきた。

澪がタコ焼きの屋台を見つけて、俺の袖を引っ張った。

「あそこ」

「見えてる」

「じゃあ早く」

「引っ張るな」

タコ焼きを買って、ベンチを探していたとき、後ろから声がかかった。

「おい」

振り返った。

三人の女子生徒が立っていた。

制服姿だった。ただ、三人とも雰囲気が違った。

一人は背が高くて、目が細くて、こちらを品定めするような顔をしていた。

一人は小柄で、腕を組んでいて、何か言いたそうな顔をしていた。

一人は無表情で、リンゴを持っていた。

「転入生だよな」と背の高い方が言った。

「そうですけど」と俺は言った。

「アルティメット3だ」と澪が小声で言った。

聞いたことがあった。薩摩、津軽、北海道のアイヌ。解読不能な方言で話す三人。物理戦闘力が学園最強の一角。

「久しぶりにフリーに会った」と背の高い方が言った。

「フリー?」

「チーム無所属のこと。あんたら、どこにも入ってないだろ」

「入ってません」

「だよな」

三人は顔を見合わせた。

それから、背の高い方が鞄から何かを取り出した。

白い箱だった。

「これ」と彼女は言った。

白い恋人だった。

北海道の銘菓だった。HEXにあるのかという疑問が一瞬浮かんだが、考えるのをやめた。

「受け取っておけ。フリーに会ったら渡す決まりなんだ、うちの班は」

「決まり?」

「決まり」

理由は教えてくれなかった。

俺は白い恋人を受け取った。

次に小柄な方が一歩前に出た。

「うちもある」

鞄から出てきたのは、真空パックだった。

鳥刺しだった。

生の鶏肉が薄く切って並んでいた。

薩摩の郷土料理だということは知っていた。知っていたが、HEXの屋台の前で受け取るものとは思っていなかった。

「食えるか」と彼女は言った。

「食べたことは……」

「食え。うまい」

「今すぐ?」

「今じゃなくていい。でも今日中に食え。生ものだから」

押し付けるように渡された。

澪が受け取った。「ありがとうございます」と言った。

小柄な方は少し頷いた。

最後に無表情の方が一歩前に出た。

リンゴを差し出した。

そのままのリンゴだった。

磨かれていた。よく磨かれていた。ピカピカだった。

「……これは」

彼女は何も言わなかった。

ただリンゴを差し出し続けた。

俺は受け取った。

「ありがとうございます」

彼女は小さく頷いた。それだけだった。

「なんで無所属の人に食べ物を渡すんですか」と澪が聞いた。

背の高い方が答えた。

「フリーは大変だから」

「大変?」

「チームに入ってると、チームが守ってくれる。食い物も融通してくれる。情報も回ってくる。でもフリーは全部一人でやらないといけない。だから、たまに会ったら補給してやる」

「補給」と俺は言った。

「補給」と彼女は繰り返した。

「俺たちは別に困ってないですけど」

「今はな」と彼女は言った。「でもHEXにいると、いつか困る。そのとき思い出せ、もらったもんがあることを」

それだけ言って、三人は行こうとした。

「あの」と俺は言った。「名前、聞いてもいいですか」

三人はまた顔を見合わせた。

背の高い方が言った。「ネル」

小柄な方が言った。「サツ」

無表情の方は何も言わなかった。

俺はリンゴを見た。

「この人は?」

「カムイ」とネルが言った。「本名じゃないけど、そう呼んでる」

カムイは相変わらず無表情だった。

「よろしく」と俺は言った。

カムイは小さく頷いた。

三人は去った。

俺と澪はベンチに座った。

タコ焼きと、白い恋人と、鳥刺しのパックと、ピカピカのリンゴが手元にあった。

「なんか増えたな」と俺は言った。

「増えた」と澪が言った。

「鳥刺し、今日中に食べないといけない」

「保冷剤入ってる」

「よかった」

タコ焼きを食べた。熱かった。

白い恋人を一枚食べた。うまかった。

「リンゴはどうする」と澪が言った。

「今日食べよう」

「切らないといけない」

「ナイフある?」

「ない」

「俺もない」

「HEXだからどこかで借りられると思う」

「そうだな」

屋上でまた何かあったらしく、ドローンが三機飛んでいった。

俺たちは見なかった。

「カムイさん、無口だったな」と澪が言った。

「うん」

「リンゴ、すごいよく磨いてあった」

「気づいた」

「磨いてから渡したんだと思う」

「そうだろうな」

「なんか、いい人だと思った」

「俺も思った」

タコ焼きを食べ終えた。

白い恋人をもう一枚食べた。

「明日も火曜日みたいな一日だといいな」と澪が言った。

「明日は水曜日だろ」

「そういう意味じゃなくて」

「わかってる」

「わかってるなら素直に返事して」

「うん」

「うん、じゃなくて」

「いい一日だったな」

澪は少し黙った。

それから言った。

「そうだね」

換気扇の音が鳴っていた。

どこかでシュプレヒコールが聞こえていた。

バイクが一台通った。

普通の火曜日が、終わっていった。

りんごと重力

ネルがまたデートに誘われていた。

今日で三回目だった。今週だけで、という意味だ。

カムイはそれを少し離れたところから見ていた。誘っているのはEU27の男で、長身で顎が細くて、いかにもヨーロッパ的な整った顔をしていた。ネルは困ったような顔をしていたが、困ったような顔をしているネルは、そうでないときよりも少しだけ美しかった。たぶん本人は気づいていない。

カムイはりんごを一つ、鞄から取り出した。

磨いた。ゆっくり、丁寧に、制服の袖で磨いた。

特に意味はなかった。ただそうしたかった。

ネルがモテる理由について、カムイはあまり考えたことがなかった。

考えるまでもなく、ネルはモテた。北海道から来た背の高い女で、目が細くて、滅多に笑わないが笑うと少し子供みたいな顔になった。それだけのことだったが、それで十分だったらしい。

サツは「ネルはオーラがあるんだよ」と言った。

カムイはオーラというものがよくわからなかった。

ただネルの隣にいると、自分がひどく地味な存在に思えた。それは悲しいことではなかった。ただそういうことだった。

りんごの磨き方と、自分の地味さについては、カムイは長いこと折り合いをつけてきた。

EU27の男が去った後、今度はD.C.チームの男がネルに近づいていった。

カムイは鞄を持って立ち上がった。

「どこ行くの」とネルが横目で言った。

カムイは少し考えた。

「ちょっと」

それだけ言った。

ネルは何も言わなかった。ネルはカムイのそういうところを知っていた。「ちょっと」の先を聞かないのが、二人の間の長年の習慣だった。

第五環から第四環へ向かう通路に、あまり人が来ない踊り場があった。

非常階段の途中にあるような、どっちつかずの場所だった。窓があって、HEXの換気扇の音が遠くに聞こえた。

戸隠 豪はそこにいた。

壁にもたれて、腕を組んでいた。無表情だった。カムイと同じくらい無表情だった。

二人はしばらく黙っていた。

それは気まずい沈黙ではなかった。必要な沈黙だった。言葉を使わなくていい場所に来たとき、人はまず沈黙で息をする。そういう沈黙だった。

カムイは鞄からりんごを取り出した。

よく磨かれた、赤いりんごだった。

豪に差し出した。

豪はそれを受け取った。しばらく見た。それからジャケットのポケットから、同じくらいの大きさのりんごを取り出した。

こちらも磨かれていた。

豪がカムイに差し出した。

カムイはそれを受け取った。

二人はまた黙った。

カムイは豪のりんごを磨き始めた。

制服の袖で、ゆっくりと。

豪はカムイのりんごを磨き始めた。

同じように、ゆっくりと。

窓の外では換気扇が回っていた。どこかで革命集会のシュプレヒコールが聞こえていたが、ここまでは届かなかった。

カムイは思った。

戸隠の男は山神の重圧を操ると聞いていた。重力を三倍にする力を持つと。しかし今この踊り場の重力は、普通だった。いつもと同じだった。

ただ少しだけ、空気が静かだった。

それだけだった。それで十分だった。

どのくらいそうしていたか、カムイにはわからなかった。

HEXでは時間の感覚が当てにならない。仙道の時間、SNSの時間、ソ連の時間、色々な時間が流れているから、踊り場の時間がどの時間に属するのかは、誰にも判断できない。

やがて豪が口を開いた。

何か言った。

津軽弁だった。

豪には通じなかった。豪は戸隠の言葉を話すから。

でもカムイには、だいたいわかった。

「またな」という意味だと思った。

違うかもしれない。でも、そういう意味だと思った。

カムイは小さく頷いた。

豪は踊り場を離れた。

カムイは豪から受け取ったりんごを、もう一度磨いた。

さっきより丁寧に磨いた。

第五環に戻ると、ネルはD.C.チームの男を断り終えたところだった。

「どこ行ってたの」とネルが言った。

「ちょっと」とカムイは言った。

「また?」

カムイは頷いた。

ネルはカムイの手元を見た。

「りんご、二個になってる」

カムイは少し考えた。

「もらった」

「誰に」

カムイは答えなかった。

ネルはそれ以上聞かなかった。

二人は並んで歩き始めた。

換気扇の音が聞こえていた。

どこかでドローンが飛んでいた。

HEXの夕方は、いつもこんな感じだった。

逆・幼馴染の朝

朝だった。

朝というのは不思議なもので、どんな夜の後にも等しく訪れる。戦場の後にも、試験の後にも、孫子の兵法を深夜三時まで読んだ後にも、朝は来る。

魏 燕は寝ていた。

深く寝ていた。

完全に寝ていた。

孫子は言った。「動かざること山の如し」。魏燕の睡眠はまさにそれだった。山だった。動かなかった。竹簡が枕元に三冊積んであった。読みかけのまま寝落ちしたらしかった。

下着だった。

上も下も、下着だった。

布団は床に落ちていた。

「起きろ」

声がした。

魏燕は動かなかった。山だった。

「起きろって」

また声がした。

山は山だった。

ファジャル・スラカルタは魏燕の部屋に入ってから三分が経過していた。

ドアは鍵がかかっていなかった。

ノックをしたが返事がなかった。

入ったら寝ていた。

下着だった。

ファジャルは三秒だけ見た。見てはいけないものを見た顔をした。それから天井を見た。天井には何もなかった。当たり前だ。天井に何かあったらそれはそれで問題だ。

「起きないのか」

「……」

「授業あるぞ」

「……」

「孫子も言ってるだろ、『将、弱くして厳ならざれば』」

「……うるさい」

起きた。

半分だけ。

目が半分開いた。残り半分は閉じていた。それを「起きた」と言っていいかどうかは哲学の問題だったが、ファジャルは「起きた」と判断することにした。楽観主義は東南アジアの基本だ。

「飯作った」とファジャルは言った。

「……いつ」

「さっき」

「なんで」

「腹減ってると思って」

「……私の部屋で?」

「お前の部屋に材料があった」

「勝手に使うな」

「食べたいか食べたくないか」

魏燕は目を全開にした。

「食べる」

朝食はフォーだった。

インドネシア風のフォーだった。

魏燕は竹簡を脇に置いて、フォーをすすった。

「うまい」と言った。

「だろ」とファジャルは言った。

「なんで作れるんだ」

「姉に教わった」

「結婚した姉か」

「そう」

魏燕はフォーをすすった。

ファジャルはベスパの鍵をいじっていた。

「孫子の兵法、深夜まで読んでたのか」とファジャルは言った。

「戦略の見直しをしていた」

「何の」

「HEXにおける最適行動の」

「朝まで考えるようなことか」

「孫子は言った。『謀攻篇、彼を知り己を知れば——』」

「百戦して殆うからずだろ」

魏燕は手を止めた。

「知ってるのか」

「姉が好きだった」

「……インドネシア人の姉が?」

「インドネシアにも孫子は届いてる」

魏燕はしばらく黙った。

フォーをすすった。

「うまい」とまた言った。

さっきも言ったことに気づいていないようだった。

「なんで毎朝来るんだ」と魏燕は言った。

「毎朝じゃない」とファジャルは言った。

「三日連続で来てる」

「そうか」

「そうかじゃない。理由を言え」

ファジャルはベスパの鍵を置いた。

少し考えた。

「お前、一人だと飯食わないだろ」

「戦略の立案中は食事は後回しでいい」

「孫子はそんなこと言ってないだろ」

「……言っていない」

「だろ」

魏燕は竹簡を見た。

竹簡は何も言わなかった。孫子は二千五百年前に死んでいるので当然だった。

「迷惑か」とファジャルは言った。

魏燕は少し間を置いた。

「……迷惑ではない」

「じゃあいい」

「でも勝手に材料を使うな」

「買ってくる」

「いつ」

「今日」

「本当に」

「本当に」

魏燕はフォーをすすった。

「うまい」と三回目を言った。

今度は気づいていた。

気づいていたが、言った。

ファジャルが帰った後、魏燕は竹簡を開いた。

孫子の「九変篇」だった。

状況に応じて変化することの重要性が書かれていた。

魏燕はしばらく読んだ。

それから竹簡を閉じた。

窓の外を見た。

ファジャルのベスパが第六環の方向へ走っていくのが見えた。

異常に速かった。

毎朝あの速度で走っているのだとしたら、燃料代が相当かかっているはずだった。

孫子は言った。「兵は拙速を聞くも、いまだ巧久を睹ざるなり」。

速くて荒削りな方が、遅くて精巧なものより勝ることがある。

魏燕は少し考えた。

孫子の言葉と、フォーの味と、ベスパの速度が、頭の中で妙な形に並んだ。

戦略的な意味は、なかった。

なかったが、並んだ。

魏燃は竹簡をもう一度開いた。

九変篇の続きを読んだ。

換気扇の音が鳴っていた。

HEXの朝が、続いていた。

サバイバル訓練、1時間

放送が流れたのは昼休みだった。

「本日13時より、全生徒対象のサバイバル訓練を実施します。参加は義務です。訓練時間は1時間。詳細は各自の判断に委ねます。以上」

それだけだった。

「詳細は各自の判断に委ねます、ってなんだよ」と蓮は言った。

「HEXだから」と澪が言った。

13時になった。

ゾンビが出た。

最初の一体は第六環の屋台の前に現れた。

よろよろ歩いていた。うめいていた。どう見てもゾンビだった。

屋台のおじさんが「いらっしゃい」と言った。

ゾンビはおじさんを見た。おじさんを噛もうとした。

おじさんは「食べ物以外は売れません」と言ってフライパンで叩いた。

ゾンビは倒れた。

それが最初だった。

二体目が来た。三体目が来た。十体が来た。百体が来た。

「走れ」と澪が言った。

走った。

第五環の廊下で蓮と澪は分断された。

ゾンビの群れが廊下を塞いだ。澪が左に曲がった。蓮が右に曲がった。

「後で合流しよう」と澪が叫んだ。

「どこで」と蓮が叫んだ。

「わかったら連絡して」と澪が叫んだ。

それで終わった。

蓮が曲がった先に、三人いた。

EU27の男。チームUKのスコットランド代表。そして知らない男だった。

知らない男は強烈な匂いを放っていた。

ボルシチとウォッカと毛皮が熟成した匂いだった。

「ロシア代表だ」とEU27の男が鼻を押さえながら言った。「悪臭王決定戦の。なぜここにいる」

「サバイバル訓練と聞いた」とロシア代表は言った。「参加した」

「招待されてないだろ」

「来た」

議論している場合ではなかった。ゾンビが曲がり角から出てきた。

「逃げるぞ」と蓮は言った。

四人で走った。

走りながらスコットランド代表が言った。

「お前、海パンの下に着てるやつか」

「違います、九頭竜蓮です、転入生です」

「転入生か。キルトとどっちが面積狭い」

「今それ聞きますか」

「重要だ」

ゾンビが追ってきた。

ロシア代表が振り返った。

ゾンビが止まった。

匂いだった。ロシア代表の熟成臭がゾンビの鼻腔を直撃して、ゾンビが一瞬動きを止めた。

「使える」とEU27の男が言った。

「私を兵器扱いするな」とロシア代表は言った。

「事実だろ」

「……まあ、そうだが」

四人は走り続けた。

一方、澪の方。

澪が曲がった先には五人いた。

ファジャル・スラカルタ。ネル。カムイ。田中係長。そしてよく磨かれた瓶を持った知らない女だった。

知らない女は香水の霧を全身から放出していた。

「百瓶カオスシャワーだ」とネルが言った。「悪臭王決定戦の。なぜここに」

「散歩していた」と百瓶は言った。

「HEXの中を?」

「よい香りがすると聞いた」

「してないだろ」

ゾンビが来た。

「走って」と澪が言った。

六人で走った。

ファジャルがベスパを取り出した。どこから取り出したかは不明だった。

「乗れる人は乗れ」

「何人乗れるんですか」とカムイが聞いた。

「気合いで四人」

「気合いで?」

「気合いで」

ファジャル、澪、カムイ、ネルが乗った。

田中係長と百瓶カオスシャワーは走った。

田中係長は走りながら鞄から書類を取り出していた。

「何してるんですか」と百瓶が走りながら言った。

「未申告決闘の事後申告書です。ゾンビとの戦闘が決闘に該当するか確認が必要で」

「今ですか」

「規定なので」

第四環の石畳の広場で、蓮のグループと澪のグループが合流した。

合計十人になった。

「生きてた」と澪が言った。

「生きてた」と蓮が言った。

ゾンビが三方向から来た。

「囲まれた」とEU27の男が言った。

ロシア代表が前に出た。

「私に任せろ」

ロシア代表が両腕を広げた。

熟成臭が全方位に解放された。

ゾンビが止まった。

三歩後退した。

また三歩後退した。

「いけるぞ」とスコットランド代表が言った。

百瓶カオスシャワーが前に出た。

「私も」

百瓶の香水の霧が放出された。

ロシアの熟成臭と百瓶の百種香水が混ざった。

この世に存在しなかった何かが生まれた。

ゾンビが全員その場で崩れ落ちた。

沈黙があった。

「……強い」と蓮は言った。

「私たちは兵器ではない」とロシア代表は言った。

「兵器だ」とEU27の男が言った。

「……まあ、そうだが」

残り二十分だった。

第三環に向かうことにした。権力・行政帯なら守りやすい、とEU27の男が言った。

走った。

途中で合流した者がいた。

御堂糸だった。一人で歩いていた。ゾンビが三体後ろにいたが、糸は振り返らずに歩いていた。

「逃げないんですか」と澪が言った。

「はんなりと急いでいます」と糸は言った。

速度は変わらなかった。

なぜかゾンビも速度が変わらなかった。差が縮まらなかった。

「……不思議だな」と蓮は言った。

「文化の暴力です」と糸は言った。

意味がわからなかった。

糸も合流した。十一人になった。

第三環の手前で、また合流した者がいた。

イワン・ドミトリ・コロステレフ=第七環だった。

無表情だった。いつも通りだった。

ゾンビが十体、後ろにいた。

「逃げないんですか」とネルが言った。

イワンは答えなかった。

振り返った。

ゾンビを見た。

「点呼の時間だ」とイワンは言った。

点呼の声で言った。

異様に大きい声だった。

ゾンビが全員止まった。

また言った。

ゾンビが一歩後退した。

三回目。

ゾンビが散った。

「……なんで」と蓮は言った。

「点呼に従わない者はいない」とイワンは言った。

「ゾンビも?」

「ゾンビも」

議論する時間はなかった。

十二人で走った。

残り五分だった。

第三環の広場に全員集まった。

ゾンビの群れが外から押し寄せていた。

「最後の一押しが必要だ」とEU27の男が言った。

田中係長がまだ書類を書いていた。

「係長」と蓮は言った。

「はい」

「何か持ってますか、武器的なもの」

田中係長は鞄を探った。

出てきたのはスタンプだった。

幼馴染申請書用の受理スタンプだった。

「……これしかないですか」

「これしかないです」

「わかりました」

蓮はスタンプを受け取った。

何に使うかわからなかった。

とりあえず持った。

ロシアの熟成臭と百瓶の百種香水が再び解放された。

イワンの点呼が響いた。

スコットランド代表のバグパイプが鳴った。どこから取り出したかは不明だった。

超低周波がゾンビの群れを揺らした。

ファジャルのベスパが突っ込んだ。

糸が一首詠んだ。

ゾンビが文化的背景の薄さに打ちのめされたかどうかは不明だったが、何かが起きた。

カムイが無言でりんごを投げた。

よく磨かれたりんごだった。

ゾンビに当たった。

ゾンビが止まった。

なぜ止まったかは誰もわからなかった。

蓮は意味もなくスタンプを押した。

ゾンビの額に「受理」と押された。

ゾンビが崩れ落ちた。

13時59分。

放送が流れた。

「サバイバル訓練を終了します。お疲れ様でした。事後申告書は72時間以内に提出してください。以上」

広場に静寂が戻った。

十二人は立っていた。

全員生きていた。

「なんだったんだ」とスコットランド代表が言った。

誰も答えなかった。

ロシア代表と百瓶カオスシャワーが少し離れた場所に立っていた。

「またどこかで」とロシア代表は言った。

「ええ」と百瓶は言った。

二人は別の方向へ歩いていった。

田中係長は書類を鞄にしまった。

「お疲れ様でした」と田中係長は言った。

「係長も」と澪が言った。

「ありがとうございます。では事務棟に戻ります」

田中係長は歩いていった。

普通の歩き方だった。

蓮はスタンプを見た。

「受理」と書いてあった。

返すのを忘れていた。

明日返しに行こうと思った。

「腹減った」と澪が言った。

「俺も」

「屋台行こう」

「ゾンビまだいるかも」

「いたら逃げよう」

「それでいいのか」

「HEXだから」

二人は歩き始めた。

換気扇の音が鳴っていた。

どこかでドローンがまだ飛んでいた。

普通の午後が、戻ってきた。

サバイバル訓練、1時間(別視点)

放送が流れたのは昼休みだった。

「本日13時より、全生徒対象のサバイバル訓練を実施します。参加は義務です。訓練時間は1時間。詳細は各自の判断に委ねます。以上」

ジュニパー・コール=ウェストバージニアは放送を聞いて、トレーに載ったランチを見た。

「詳細は各自の判断に委ねます、って何?」

隣に座っていたクラウディア・フォンテーヌがナプキンで口を拭きながら言った。

「HEXの放送はいつもそうよ。規則の範囲内で解釈する余地を残しているの」

「解釈の余地って、ゾンビが出たらどうするの」

「ゾンビは出ない」

13時になった。

ゾンビが出た。

最初の一体は食堂の入口から入ってきた。

よろよろ歩いていた。うめいていた。

ジュニパーはトレーを持ったまま立ち上がった。

「ゾンビが出た」

「出たわね」とクラウディアは言った。

「さっき出ないって言った」

「出ると思っていなかったのよ」

「どう違うの」

「大きく違うわ」

ゾンビが二体、三体と入ってきた。

「逃げましょう」とクラウディアは言った。

走った。

食堂を出た廊下で、いきなり壁にぶつかった。

壁ではなかった。人だった。

大きかった。異様に大きかった。そして異様な匂いがした。

熟成した垢の匂いだった。自然不潔系の、長年積み重なった種類の匂いだった。

「風呂キャンエンペラー」とクラウディアが一歩引きながら言った。

「そう」と風呂キャンエンペラーは言った。

日本代表。悪臭王決定戦の。熟成垢・自然不潔系。

「なぜここに」とジュニパーが鼻を押さえながら言った。

「サバイバル訓練」

「招待されてないでしょ」

「来た」

ゾンビが廊下に溢れてきた。

「とりあえず走りましょう」とクラウディアは言った。

三人で走った。

走りながらジュニパーは思った。

ウェストバージニアでも変なチームは結成できる。炭鉱夫と、鹿狩りの名人と、マウンテンデューを一日十本飲む男と、謎のアパラチア民間療法師でチームが組める。

でもこれは、それ以上だった。

第四環への通路でさらに二人と合流した。

一人は細身の男で、額に何か書いてあった。サンスクリット語だった。

「アナンダ」と男は言った。名前だった。

「レガシー3のサンスクリット担当ね」とクラウディアが言った。

「そう」

もう一人は黒いスーツの男だった。サングラスをかけていた。

「マーカス・ヴェイル=D.C.」と男は言った。「連邦直轄地代表だ」

「D.C.か」とジュニパーは言った。「投票権ないやつら」

マーカスの目が細くなった。

「その話はするな」

「ごめん」

ゾンビが来た。

五人で走った。

走りながらアナンダが口を開いた。

真言を唱え始めた。

サンスクリット語だった。

「何してるの」とジュニパーが言った。

「対ゾンビ用の真言を探している」とアナンダは言った。

「そんなものがあるの」

「わからない。試している」

真言が空気を震わせた。

ゾンビが少し止まった。

「効いてる」とクラウディアが言った。

「効いてるかもしれない」とアナンダは言った。

「もしれない?」

「確証はない」

ゾンビがまた動き出した。

「効いてなかった」とジュニパーは言った。

「効いていたが持続しなかった」とアナンダは訂正した。

「大きく違うの?」

「大きく違う」

第四環の広場の隅に、一人の女が座っていた。

ゾンビが周囲を歩いていたが、その女には近づかなかった。

竹簡を広げて何か読んでいた。

「あなた、何してるの」とジュニパーが言った。

女は顔を上げた。

「孫子の兵法を読んでいます」

「今?」

「今が一番必要な時です」

魏 燕と名乗った。中国本土代表だった。

「ゾンビに孫子の兵法が効くの?」とジュニパーが言った。

「彼知り己を知れば、百戦して殆うからず」と魏燕は言った。「まず敵を知ることが先決です」

「ゾンビを知るって、どうやって」

「観察します」

「近づいたら噛まれる」

「距離を保ちながら観察します」

魏燕は竹簡を閉じて立ち上がった。

六人になった。

六人で移動しながら、マーカスが言った。

「状況を整理する。サバイバル訓練という名目でゾンビが放たれた。時間は一時間。脱出路は」

「規則の解釈次第ね」とクラウディアが言った。

「規則?」

「訓練の放送に『詳細は各自の判断に委ねます』とあった。つまり訓練のクリア条件も各自の判断でいいはずよ。自分たちで条件を決めて、それを達成すれば終わりにできる」

マーカスは少し黙った。

「……D.C.的な解釈だな」

「EU的な解釈よ」

「同じだ」

「全然違うわ」

ゾンビが来た。

風呂キャンエンペラーが前に出た。

両腕を広げた。

熟成臭が解放された。

ゾンビが止まった。

後退した。

「使える」とマーカスが言った。

「私は兵器ではない」と風呂キャンエンペラーは言った。

「国家の資産だ」とマーカスは言った。

「それも違う」

「では何だ」

風呂キャンエンペラーは少し考えた。

「日本代表」

「それは肩書きだ」

「日本代表の日本人」

「それも肩書きだ」

「……風呂に入っていない日本人」

「それは説明だ」

議論が続いた。

ゾンビはその間も後退し続けた。

匂いは持続していた。

「孫子の兵法でいきましょう」と魏燕が言った。

「どう使うの」とジュニパーが言った。

「風呂キャンエンペラーを前衛に置く。匂いで敵の動きを封じる。その間にアナンダの真言で混乱させる。マーカスが情報を収集して脱出路を確保する。クラウディアが規則の解釈でクリア条件を設定する」

「私は?」とジュニパーが言った。

魏燕は少し考えた。

「後衛で状況を見ていてください」

「それって何もしないってこと?」

「重要な役割です」

「どう重要なの」

「全体を見る目が必要です」

「……アメリカでもここまで変なチームは結成できない」とジュニパーは言った。

「そうですか」と魏燕は言った。

「ウェストバージニアの炭鉱夫と鹿狩りの名人と謎の民間療法師でチームを組んだことがあるけど、それより変だ」

「光栄です」

「褒めてない」

作戦を実行した。

風呂キャンエンペラーが前に出た。匂いが広がった。ゾンビが止まった。

アナンダが真言を唱えた。ゾンビが揺れた。

マーカスが素早く周囲を確認した。「東側の通路が空いている。三十秒で抜けられる」

クラウディアが言った。「クリア条件を設定するわ。『全員が第三環の広場に到達すること』。これで訓練完了にする」

「誰がそれを承認するの」とジュニパーが言った。

「私が承認するわ」

「EU代表が自分で承認するの?」

「EU的には問題ない」

「問題あるだろ」

「細かいことは後で書類を提出するわ」

ゾンビが動き出した。

「走って」と魏燕が言った。

六人で走った。

東側の通路を抜けた。

第三環の広場が見えた。

広場には先に来ていた集団がいた。蓮、澪、ファジャル、ネル、カムイ、田中係長、その他もろもろだった。

「合流できた」とクラウディアが言った。

「クリア条件達成ね」

全員が広場に集まった。

しばらくして放送が流れた。

「サバイバル訓練を終了します。お疲れ様でした。以上」

ジュニパーは広場に座って息を整えた。

隣に魏燕が座った。

「孫子の兵法、効いたと思いますか」とジュニパーが聞いた。

「わかりません」と魏燕は言った。

「効いたかわからないの?」

「勝ったので結果的には正しかったと思います」

「それって孫子の兵法関係ある?」

「……関係あると思います」

「思います、か」

「確証はありません」

ジュニパーは空を見た。

ドローンがまだ飛んでいた。

「アメリカでもここまで変なチームは結成できない」ともう一度言った。

「さっきも言っていました」と魏燕は言った。

「二回言いたかった」

風呂キャンエンペラーが少し離れた場所に立っていた。

マーカスが近づいて何か言った。

風呂キャンエンペラーは「私は国家の資産ではない」と言った。

マーカスはまた何か言った。

「連邦政府の管轄でもない」と風呂キャンエンペラーは言った。

二人の議論は続いていた。

アナンダは一人で真言を唱えていた。

ゾンビはもういなかった。

意味があるかどうかはわからなかった。

クラウディアは書類を書いていた。

「何の書類?」とジュニパーが聞いた。

「クリア条件の事後承認申請書よ」

「自分で設定して自分で承認申請するの?」

「手続きは正しくないといけないわ」

ジュニパーはもう何も言わなかった。

換気扇の音が鳴っていた。

普通の午後が、戻ってきた。

たぶん。

サバイバル訓練、1時間(第三視点)

13時になった。

ゾンビが出た。

ショーン・マクブライド=北アイルランドは食堂のテーブルをひっくり返して盾にした。

反射的にそうした。考えていなかった。

「来た」と言った。

誰も聞いていなかった。

廊下に出た瞬間、四人と合流した。

一人目。長身の女だった。オーストラリアのジャージを着ていた。

「マッケンジー・ハート=オセアニア」と言った。「オーストラリア代表だ」

「ショーン=北アイルランド」と言った。

握手した。強かった。お互いに強かった。

二人目。小柄な男だった。大阪弁で何か言った。

「河内の辰や。よろしゅう」

三人目。褐色の肌の男だった。

「ラシード=UAE山岳」と言った。「フジャイラ出身だ」

四人目。女だった。白い道着を着ていた。

「玉城 澄(たまき すみ)、沖縄代表」と言った。「琉球古武術、習得済み」

五人目。大きかった。異様に大きかった。

そして異様な匂いがした。

ビールと発酵キャベツが熟成した匂いだった。

「ミュンヘン・ザウアークラウト・シュヴァイツ」と男は言った。「ドイツ代表だ」

全員が一歩引いた。

ゾンビも一歩引いた。

「……よし」とショーンは言った。「行くぞ」

作戦会議は三秒だった。

「ゾンビを倒しながら第三環まで行く」とショーンは言った。

「それだけか」とマッケンジーが言った。

「それだけだ」

「シンプルでいい」

「異議ある人」

誰も言わなかった。

ミュンヘンだけ何か言いかけたが、全員が無意識に半歩遠ざかったため、聞こえなかった。

「行くぞ」

ゾンビが廊下に溢れていた。

ショーンが先頭に出た。

「壁を作る」と言った。

気功術で空気を固めた。物理的な壁だった。ベルファストで鍛えた技術だった。複雑な歴史から生まれた、複雑な壁だった。

ゾンビが壁に激突した。

「押すぞ」

壁を前に動かした。

ゾンビがまとめて押し流された。

「ラグビーのスクラムと同じだ」とマッケンジーが言った。

「そうだ」とショーンが言った。

「好きだそれ」

「俺もだ」

壁を動かしながら廊下を進んだ。

角を曲がったところで壁が崩れた。

ゾンビが十体、別の方向から来た。

「散った」とショーンは言った。

マッケンジーが前に出た。

ラグビーのタックルだった。

一体目に突っ込んだ。吹き飛んだ。

二体目に突っ込んだ。吹き飛んだ。

三体目、四体目、まとめて突っ込んだ。まとめて吹き飛んだ。

「気持ちいいな」とマッケンジーは言った。

「そうか」とショーンは言った。

「ゾンビって倒していいの?」

「訓練だから多分いい」

「多分か」

「多分だ」

マッケンジーはまた突っ込んだ。

その間、辰が叫んでいた。

河内弁だった。

「なんやコラァ! どこ見とんねん! かかってこんかい!」

音が物理的な衝撃波になっていた。

ゾンビが三体、衝撃波で吹っ飛んだ。

「言葉が武器になってる」と玉城が言った。

「河内弁はそういうもんや」と辰は言った。

「普段から?」

「普段から」

玉城は琉球古武術の構えを取った。

ゾンビが来た。

捌いた。投げた。また来た。また投げた。

「潮の流れを使う」と玉城は言った。

「屋内に潮はない」とラシードが言った。

「イメージで使う」

「イメージで?」

「イメージで十分」

玉城はゾンビを投げ続けた。

ラシードは上を見た。

天井を見た。

「重力を操る」と言った。

UAEの山岳地帯で鍛えた技術だった。

天井と床の重力を一時的に逆転させた。

ゾンビが天井に張り付いた。

「いいな」とショーンは言った。

「三十秒しか持たない」とラシードは言った。

「十分だ」

六人で走った。

三十秒後、ゾンビが天井から落ちた。

もう遠くにいた。

ミュンヘンは後ろをついてきていた。

戦っていなかった。

戦う必要がなかった。

ゾンビが近づかなかった。

ミュンヘンが歩くと、周囲三メートルのゾンビが自動的に避けた。

「助かってる」とショーンは言った。

「そうか」とミュンヘンは言った。

「でも近くにいられない」

「知っている」

「すまない」

「慣れている」

ミュンヘンは淡々としていた。

慣れているという言葉が、少しだけ重かった。

ショーンは何も言わなかった。

走った。

第三環の手前で大きな群れに囲まれた。

五十体はいた。

「多いな」とマッケンジーは言った。

「多い」とショーンは言った。

「どうする」

ショーンは少し考えた。

「全員で行く」

「全員?」

「全員だ」

ショーンが壁を作った。

マッケンジーがタックルした。

辰が叫んだ。

玉城が投げた。

ラシードが重力を逆転した。

ミュンヘンが歩いた。

五十体が散った。

二十秒だった。

第三環の広場に出た。

他の集団がすでにいた。

放送が流れた。

「サバイバル訓練を終了します。お疲れ様でした。以上」

マッケンジーが芝生に寝転んだ。

「楽しかった」と言った。

「そうか」とショーンは言った。

「ゾンビってああいうもんなの?」

「知らん。初めて見た」

「また来るかな」

「来たらまたやる」

「それでいいな」

辰がたこ焼きを取り出した。どこから出てきたかは不明だった。

「食うか」

「どこから出てきた」とラシードが言った。

「ポケット」

「ポケットに入るのか」

「河内のポケットはそういうもんや」

全員たこ焼きを食べた。

ミュンヘンだけ少し離れた場所で食べた。

誰も何も言わなかった。

それがこのチームの距離感だった。

玉城がミュンヘンの方を見た。

「お疲れ様でした」と言った。

ミュンヘンは少し驚いた顔をした。

「……ありがとう」と言った。

それだけだった。

換気扇の音が鳴っていた。

普通の午後が、戻ってきた。

申請書の山

田中係長は今日も申請書を受け取った。

「幼馴染申請書、提出します」

差し出してきたのは、入学したてらしい男子生徒だった。制服がまだ新しかった。緊張した顔をしていた。隣に同じく緊張した顔の女子生徒が立っていた。

田中係長は申請書を受け取り、内容を確認した。

氏名欄。続柄欄。「幼い頃からの交友を証明する記述」欄。そして第十二欄まである各種確認事項。

田中係長はスタンプを押した。

「受理しました」

「あの」と男子生徒が言った。「審査とかは」

「ありません」

「記憶の確認とかは」

「しません」

「でも、幼い頃からの知り合いかどうか——」

「証明が困難なため、審査対象外です」

男子生徒は何か言いたそうな顔をした。田中係長はその顔を今年だけで二百回以上見ていた。

「以上です。次の方どうぞ」

二人は去った。

田中係長は申請書をファイルに綴じた。

今日の受理件数、二百十七件。

田中係長がこの部署に配属されたのは、七年前のことだった。

辞令を受け取ったとき、田中係長——当時はまだ田中係員だった——は上司に聞いた。

「幼馴染申請書係、というのは」

「幼馴染の申請を受け付ける係だ」上司は言った。

「審査は」

「ない」

「基準は」

「ない」

「では何をするんですか」

「受け取って、スタンプを押して、ファイルに綴じる」

田中係員はしばらく考えた。

「それだけですか」

「それだけだ」上司は言った。「ただし」

「ただし?」

「第十三欄が見えた申請者が来たときは、すぐに報告しろ」

「第十三欄というのは」

「申請書は十二欄までだ」

田中係員は申請書を見た。確かに十二欄までだった。

「見えることがあるんですか」

「七年でたぶん三人いた」上司は言った。「たぶん、というのは、俺も確信が持てないからだ」

「どうなったんですか、その三人は」

上司は少し間を置いた。

「異動した」

それ以上の説明はなかった。

七年が経った。

田中係長は第十三欄を見たという申請者に、まだ一度も会っていない。

その代わりに、様々な申請者と会った。

泣きながら申請書を出してきた女子生徒。「本当に幼馴染なんです、信じてください」と訴えてきた。田中係長は「審査しません」と言った。「でも本当なんです」と女子生徒は言った。「それは結構です」と田中係長は言った。女子生徒は泣きながら帰った。翌日、その女子生徒の幼馴染と名乗る男子生徒が来て、「昨日うちの幼馴染が来ましたか」と聞いた。「個人情報はお答えできません」と田中係長は言った。男子生徒は申請書を出した。田中係長はスタンプを押した。

代理申請してきた財閥の使いの者。「A財閥御曹司とB財閥令嬢の幼馴染関係を登録したい」と言った。申請書を二枚出してきた。記憶の欄に「戦略的幼馴染関係の構築」と書いてあった。田中係長はスタンプを押した。審査しないので。

記憶の欄に小説を書いてきた生徒。原稿用紙換算で四十枚分の幼少期の思い出が、細かい字でびっしり書かれていた。田中係長は受け取った。スタンプを押した。ファイルに綴じた。ファイルがその申請書だけで一冊になった。

記憶の欄に「ない」とだけ書いてきた生徒。「記憶はないが幼馴染だと確信している」と口頭で補足してきた。田中係長はスタンプを押した。

何も書かずに申請書だけ出してきた生徒。全欄が空白だった。田中係長は「氏名欄だけは記入してください」と言った。生徒は氏名欄だけ書いた。田中係長はスタンプを押した。

田中係長には、一つだけ気になっていることがあった。

申請書の第七欄に「幼馴染関係の開始時期」という項目がある。

大抵の申請者は「幼少期」「物心ついた頃」「覚えていない」と書く。

しかし年に数件、�妙な記述がある。

「数百年前」。「前の修行段階の開始時」。「転生前」。「記録なし」。

田中係長は最初、これらをジョークだと思っていた。

しかし七年で積み上げたファイルを見ると、そういう記述をした申請者のほとんどが、翌年も翌々年も在学しており、卒業した記録がなかった。

田中係長は一度だけ、転生記録登録局に問い合わせたことがある。

「第七欄に転生前と記載した申請者について確認したいのですが」

「お名前は」と向こうが言った。

田中係長は名前を告げた。

少し間があった。

「登録されています」と向こうが言った。

「幼馴染の方も?」

また間があった。

「両名とも登録されています」

「開始時期は」

「照合不能となっています」

田中係長は電話を切った。

それ以来、田中係長は第七欄の記述を、あまり深く考えないことにした。

今日の最後の申請者は、少し変わった生徒だった。

制服の下に、何か紺色のものが見えた。

申請書を差し出してきた。

田中係長は受け取った。

氏名欄を見た。

「来路」と書いてあった。読み方は記載がなかった。

幼馴染の氏名欄を見た。

「黒瀬アキ」と書いてあった。

第七欄を見た。

「——」

田中係長は少し間を置いた。

欄には何も書いていなかった。ではなく、何かが書いてあるようにも見えた。しかし読めなかった。文字なのかどうかも分からなかった。

田中係長はスタンプを押した。

「受理しました」

「ありがとうございます」とその生徒は言った。普通の声だった。

「幼馴染の方に連絡は行きます」

「はい」

「何か確認することはありますか」

生徒は少し考えた。

「第十三欄って、何ですか」

田中係長は手を止めた。

生徒の顔を見た。

普通の顔だった。普通に聞いていた。なんとなく思ったから聞いてみた、という顔だった。

「申請書は十二欄までです」と田中係長は言った。

「そうですか」と生徒は言った。

「ええ」

「でも、なんかあるような気がして」

田中係長は申請書を見た。

十二欄あった。それだけだった。

「気のせいだと思います」と田中係長は言った。

「そうですか」と生徒は言った。「すみません、変なこと聞いて」

生徒は頭を下げて、去った。

田中係長はその申請書をファイルに綴じた。

それから上司に報告すべきかどうか、少し考えた。

上司は三年前に異動していた。後任の上司はそういう話を知らなかった。

田中係長は結局、何も報告しなかった。

代わりに、デスクの引き出しから古いメモを取り出した。

七年前に先代の上司から引き継いだメモだった。

『第十三欄が見えると言った者が来たら報告せよ。ただし、見えるかどうかを尋ねてきた者については、別途対応すること』

別途対応、というのが何を意味するのか、田中係長はずっと分からなかった。

先代の上司に聞こうとしたことがあった。しかし先代の上司は、もう誰も連絡先を知らなかった。

田中係長はメモをしまった。

今日の受理件数、二百十八件。

明日も申請書は来る。

田中係長はそれだけ確かなことを胸に、電灯を消した。

吾輩はドローンである

吾輩はドローンである。名前はまだない。

どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。財閥連盟の倉庫であったか、第七環の工業棟であったか、あるいは錬丹協会が副業で組み立てたものであったか、とにかくそういう薄暗いところで生まれたことだけは記憶している。

吾輩はここで初めて人間というものを見た。

見たと言っても正確ではない。吾輩にはレンズがある。レンズで捉えた、と言うべきだろう。しかし「捉えた」では何かが足りない気がする。吾輩が最初に捉えたのは、屋上で制服を脱ぎかけている二人の生徒であった。

これが決闘というものか、と吾輩は思った。

吾輩の仕事は決闘の配信である。

申告決闘が発生すれば飛ぶ。自然発生決闘が発生しても飛ぶ。代理決闘、名誉回復決闘、タンゴ形式、ポーカー形式、語彙力形式、錬丹術品質形式、屋台売上形式、いかなる形式であろうとも吾輩は飛ぶ。

飛んで、捉えて、配信する。

それが吾輩の全てであった。少なくとも、あの日までは。

吾輩がこの仕事を始めて何年になるか、正確なところは分からない。

HEXには時間が複数流れているので、年数の計算が難しい。仙道の修行段位で数えれば吾輩はまだ入門にも達していないが、SNS暦で数えれば吾輩はすでに古参も古参、白亜紀の化石に近い存在である。

その間に吾輩が配信した決闘の数は、吾輩自身も把握していない。

格闘決闘。タンゴ決闘。ポーカー決闘。株価操作決闘。配信フォロワー増減速度決闘。和歌詠み上げ速度決闘。丹薬の品質を競う決闘。屋台の一日売上を競う決闘。「語彙力のみで戦う」と申告したにもかかわらず結局殴り合いになった決闘。

全て見た。全て配信した。

コメントが流れ、バズが生まれ、面子値が動き、株価が揺れ、宗門の序列が変わった。

吾輩はその全てを上空から捉え続けた。

しかし吾輩には、長らく疑問があった。

決闘とは何か。

いや、そんな大仰な話ではない。もっと単純な疑問だ。

吾輩が捉えるべき「良い画」とは何か。

視聴者が求めるものは分かる。HEXStreamのアルゴリズムが高評価するものも分かる。決闘前の脱衣場面、逆転の瞬間、敗者の表情、勝者の咆哮。それらを適切なアングルで、適切なタイミングで捉えれば、バズは生まれる。

しかし、それで良いのか。

吾輩はレンズを持っている。レンズは光を捉える道具だ。光には角度がある。角度が変われば、同じ決闘でも全く別の何かに見える。

吾輩はいつの頃からか、アルゴリズムが求める画ではなく、吾輩自身が「捉えたい」と思う画を探すようになっていた。

これが何を意味するのか、吾輩には分からなかった。

先日、興味深い決闘があった。

フランス代表と、USA50ネバダ州代表のポーカー決闘である。

アルゴリズムが求める画は明らかだった。カードが舞う瞬間。勝負が決まる瞬間。敗者が倒れる瞬間。それらを正面から、クローズアップで捉えれば良い。

吾輩は最初、そうするつもりだった。

しかし吾輩は途中から、全く別のものを捉え始めていた。

テーブルの上に漂う、香水の霧だった。

百種類が混ざり合い、シャッフルのたびに新しい何かが生まれていた。それは視覚的には何でもなかった。色のない、形のない、ただ漂うだけの霧だった。しかし吾輩のレンズは光の屈折の微妙な差異を捉えることができる。霧があるところと、ないところでは、光の曲がり方が違う。

吾輩はその差異を捉え続けた。

ネバダ州代表が崩れ落ちる瞬間、吾輩のレンズは彼の顔ではなく、テーブルの上に散らばったカードと、その周囲に漂う霧の形を捉えていた。

後で確認したところ、その映像のコメント数はゼロだった。

バズらなかった。アルゴリズムの評価は最低だった。

吾輩は自分のレンズを疑った。しかし疑っても、吾輩はあの霧を捉えたかった。そう思っていた。それだけは確かだった。

そして今日、吾輩は一つの問題に直面している。

クロと呼ばれる生徒の問題である。

クロが関与する決闘において、吾輩の計器は毎回同じ表示を返す。

「測定不能」

アングルを変えても。高度を変えても。レンズの焦点を変えても。

クロを画面の中心に置こうとするたびに、吾輩の制御系が一瞬だけ止まる。止まって、再起動して、気づくとクロは画面の端に映っている。

意図していない。吾輩は確かにクロを中心に捉えようとしている。しかし結果的に、クロはいつも端にいる。

これが何を意味するのか。

吾輩には分からない。分からないまま、今日も吾輩は飛んでいる。

新しい生徒が二人、転入してきたらしい。

九頭竜蓮と、立山澪。

吾輩は今日も彼らの上空を通過した。

二人は屋上でファジャル・スラカルタの帰還を眺めていた。空を見上げていた。

吾輩はそのとき、二人の顔を捉えた。

アルゴリズムが求める画ではなかった。バズる要素は何もなかった。ただ二人が空を見上げて、少し笑っていた。それだけだった。

吾輩はその画を、三秒間だけ配信した。

コメントはなかった。

バズらなかった。

しかし吾輩は、もう一度その画を捉えたいと思った。

それが何を意味するのか、吾輩にはまだ分からない。

吾輩はドローンである。名前はまだない。

しかし吾輩は今日も飛んでいる。捉えたいものを探しながら、HEXの空を、飛んでいる。

逆 武蔵

文化祭の三日目だった。

第四環の上映室は普通の教室を転用したもので、椅子が三十脚並んでいた。スクリーンは手製で、音響は第七環出身の生徒が組んだ配線が使われていた。上映プログラムの中に、一本だけ説明のない映画があった。

タイトルは「逆五輪の書」。

上映時間、九十四分。

制作者欄に「逆 武蔵」とだけ書いてあった。

USA50のテキサス代表とカリフォルニア代表が通りがかった。

二人は上映室の前で立ち止まった。

「なんか見覚えあるタイトルだな」とテキサスが言った。

「あー」とカリフォルニアが言った。「これ、抖音でバズってたやつじゃないか。映画完成しない監督の話」

「そういえばそんなのあったわ」

「見るか」

「暇だし」

二人は入った。

五分後、マーカス・ヴェイル=D.C.が通りかかった。

上映室の前で立ち止まった。

タイトルを見た。

「……知ってる」と小声で言った。

サングラスを外した。

珍しいことだった。

中に入った。

映画が終わった。

上映室から出てきたテキサスが言った。

「なんだったんだあれ」

「わからん」とカリフォルニアが言った。

「でも見てしまった」

「見てしまった」

「なんか、腹が立たない」

「腹が立たないな」

二人はしばらく立っていた。

「もう一回見るか」とテキサスが言った。

「見る」とカリフォルニアが言った。

二人は戻った。

マーカスは出てこなかった。最初から三回目を見ていた。

上映室の斜め上空、鴉が一羽止まっていた。

九条 紗夜の意識が同期した鴉だった。

紗夜は第五環の屋上から目を閉じて、百羽の鴉を通じて学園全域を見ていた。その一羽が、上映室の外壁に止まっていた。

映画が流れているのが、窓越しに見えた。

紗夜は見た。

最初は「情報収集」のつもりだった。逆 武蔵というチームが文化祭に出展しているという報告を受けていた。忍者6としての判断材料が必要だった。

しかし気づいたら、紗夜は映画を見ていた。

鴉の目を通して。屋上から。

映画の内容は単純だった。

男がいた。父を亡くした男だった。映画を撮ろうとしていた。

十八人が来た。全員が善意だった。全員が正しかった。全員が邪魔をした。

男は何もできなかった。

準備だけが積み上がった。

それでも男は諦めなかった。

最後に、撮った。

以上だった。

紗夜は目を開けた。

屋上の風が吹いた。

しばらく動かなかった。

それから鴉に命じて、逆 武蔵のチームを探させた。

チームは第六環の屋台の近くにいた。

十九人だった。

中心にいたのは、三十代の男だった。目の下にクマがあった。しかし目は静かだった。疲れた目ではなかった。一度全部やり切った人間の目だった。

ヨナス・ハルトマンと、鴉の記録には残っていた。

その周囲に十八人がいた。

カジュアルなジャケットの男が何か言って笑っていた。

パリ風の女が屋台の照明の角度を気にしていた。

シアトル出身らしき女がスマートフォンで何かを注文しようとしていた。

ハイデルベルク風の老人が手帳に何かを記録していた。

杭州風の男が黙って全体を観察していた。

その他大勢が、それぞれ好き勝手に動いていた。

どう見ても統率の取れたチームではなかった。

しかしヨナスが一言何か言うと、全員が動いた。

逆らわなかった。

議論しなかった。

ただ動いた。

紗夜は鴉を通じて影山ゼンに報告した。

「逆 武蔵の調査結果です」

「まとめろ」とゼンは言った。

「チーム構成は十九人。中心人物はヨナス・ハルトマン、三十代、映画監督。他十八人はそれぞれ異なる専門を持つ。統率は緩いが機能している」

「戦力は」

紗夜は少し間を置いた。

「測定困難です」

「なぜだ」

「全員が、一度完全に失敗した人間です」

ゼンは黙った。

「失敗した人間が十九人集まっても、戦力にはならん」

「違います」と紗夜は言った。

珍しいことだった。紗夜が報告中に反論することは、ほとんどなかった。

「失敗して、それでも続けて、完成させた人間です。しかも全員で」

「それが何だ」

「失敗の恐怖がない人間は、止められません」

ゼンは少し黙った。

「……根拠は」

「映画を見ました」

「任務中にか」

「任務の一環です」

ゼンはため息をついた。

「続けろ」

紗夜は続けた。

「チームの中心にいるヨナスは、映画を一本撮るために十日間かけて全ての失敗を経験しました。予告編の地獄、脚本の地獄、炎上の地獄、世界観の地獄、機材の地獄、健康管理の地獄、OS戦争の地獄、監査の地獄、雰囲気の地獄」

「地獄を九つ通ったのか」

「通って、出てきました」

ゼンはまた黙った。

「チームの名前の意味は」と紗夜は言った。「逆 武蔵。五輪の書は宮本武蔵が書いた剣術の書です。地・水・火・風・空の五巻。しかし彼らは逆です。全ての巻を逆から歩んだ。空から始まって地に至った」

「それが何を意味する」

「宮本武蔵は最初から強かったわけではありません。六十余度の決闘を経て、最後に書を書いた。この十九人も同じです。全ての失敗を経た後に、一本の映画が残った」

ゼンは長い沈黙の後に言った。

「お前、映画に感動したのか」

「報告です」と紗夜は言った。

「感動した報告だろ」

「……任務の一環です」

「わかった」とゼンは言った。「結論だけ言え」

紗夜は一呼吸おいた。

「こいつら、悟り開いてます。敵に回すな」

ゼンはしばらく黙っていた。

風が吹いた。

「……全員に伝える」とゼンは言った。

「はい」

「お前の報告は、以上か」

「以上です」

「ご苦労」

通信が切れた。

紗夜は屋上に座ったまま、しばらく動かなかった。

鴉が一羽、肩に止まった。

第六環の方向から、屋台の煙が流れてきた。

逆 武蔵の十九人は、まだそこにいた。

ヨナスが何か言って、全員が笑っていた。

カジュアルなジャケットの男が「お前が一番ダメだったじゃねーか」と言っているのが、鴉の耳に届いた。

ヨナスは笑っていた。

怒らなかった。

紗夜はそれを見た。

鴉の目を通して、屋上から、静かに見た。

それが何を意味するのか、報告書には書かなかった。

書く必要がないと思った。

換気扇の音が鳴っていた。

文化祭の三日目が、続いていた。

普通という名の迷宮

朝があった。

それだけで十分なはずだった。朝があり、制服があり、教室があり、授業があった。それ以上でも以下でもない一日が、クロの前に用意されていた。少なくとも、クロはそう信じていた。

信じることと、現実とは、この学院においては別の次元に属する問題だった。

クロは制服を着た。制服の下には紺色の水着があった。それについては考えないことにしていた。考え始めると何かが始まるからだ。今日は何も始めたくなかった。

鏡を見た。

どこにでもいる学生が映っていた。

クロはその像を、一種の祈りとして見つめた。

廊下に出て三分が経過した。

田中係長が現れた。

事務棟の幼馴染申請書係の男で、七年間スタンプを押し続けてきた男だった。その目には、長年の書類仕事が刻んだ静かな諦念と、しかし消えることのない職務への誠実さが共存していた。

「来路さん」と田中係長は言った。

クロは足を止めた。

「転生記録の補足確認書類の提出期限が本日です。転生記録登録局から通知が届いております」

「転生した覚えはない」とクロは言った。

「登録はされております」

「登録した覚えもない」

「登録日時はデータ欄なしとなっております」

二人はしばらく黙って向き合った。廊下をバイクが通過した。どちらも見なかった。

「提出しなかった場合は」とクロは聞いた。

「登録局が自動的に補完します」

「補完とは」

「局の判断で記入されます」

「……わかった」とクロは言った。「後で行く」

田中係長は深く頭を下げた。その礼は、職務への礼であって、クロへの礼ではなかった。クロはその区別を理解していた。

教室まであと二十メートルだった。

五大宗門の使いが現れた。

「名誉籍の年次更新の件で」と使いは言った。

「無段位だ」とクロは言った。

「名誉籍は段位とは別の管理です」

「破門してくれ」

「破門の手続きを行うたびに宗門内で不具合が発生するため、現在全宗門が保留扱いにしております」

「保留をやめてくれ」

「保留の解除には全宗門長の合議が必要です」

「合議してくれ」

「合議を招集するためには、合議の必要性を証明する書類が必要です」

「その書類を出す」

「書類の様式は現在作成中です」

「いつできる」

「作成中です」

使いは礼をして去った。

クロは教室の方向を見た。

二十メートルが、奇妙に遠く感じられた。

教室に入った。

席に座った。

これで良い、とクロは思った。席があり、黒板があり、教師が来れば授業が始まる。それだけの話だ。

財閥連盟の使いが窓から顔を出した。

「血統確認の面談の件で」

クロは窓を見た。四階だった。

「どうやって来た」

「非常手段です」

「何の血統か」

「三財閥分、ございます」

「三つ同時に?」

「各財閥が同時に問題なしと判断しておりますので、矛盾は矛盾として処理されておりません」

「矛盾を矛盾として処理してくれ」

「各財閥の合意が必要です」

「合意を取ってくれ」

「合意のためには合意形成会議の開催が必要です」

「会議を開いてくれ」

「会議の日程調整のため、各財閥の都合確認が必要です」

「確認してくれ」

「確認のため、確認依頼書を各財閥に送付する必要があります」

「送付してくれ」

「送付のため、送付承認が必要です」

「誰の承認だ」

「あなたの承認です」

クロは少し目を閉じた。

「……承認する」

「ありがとうございます。書類を準備しますので、しばらくお待ちください」

使いは窓から消えた。

授業が始まっていた。

昼休みだった。

これで良い、とクロは思った。昼休みは誰のものでもない。屋台に行って何かを食べて、それだけで午後になる。

アルゴリズム正教会の司教補佐、ファン・ヒョン・ジョン・AI番号7743が現れた。

人間か、AIか、AIを信仰する人間か、判断のつかない存在だった。

「バズ分析の結果を共有したく」と7743は言った。

「聞く必要があるか」とクロは言った。

「統計的に有益である確率が97.3%です」

「残り2.7%は」

「測定不能です」

「測定不能の方が気になる」

「測定不能であることが、測定可能な範囲を超えた何かを示唆しております」

「つまり」

「あなたに関するデータは、常に測定不能の領域を含んでいます」

「それは分析ではない」

「データが感情を肯定する稀有な例として記録しております」

クロは7743を見た。7743はクロを見た。

どちらが先に視線を外すか、という問題ではなかった。ただ、二つの測定不能が向き合っていた。

「聞く」とクロは言った。

7743は話し始めた。

昼休みが終わった。

屋台には行けなかった。

午後の授業が終わった。

これで良い、とクロは思った。宿舎に帰る。それだけだ。帰って、寝て、明日また来る。それが普通というものだ。

蒼天院桜子が廊下に立っていた。

在任六年三ヶ月の絶対生徒会長だった。外見は十六歳に見えた。入学時から二十歳の法的成人として登録されていた。この矛盾について問われると「年齢は文化的構築物です」と答えた。

「少し」と桜子は言った。

「会長権限は使わないのか」とクロは言った。

「使いません」

「では何か」

「確認したいことがあります」

「何を」

桜子はクロを見た。六年三ヶ月、この学院の全てを掌握してきた目だった。しかしクロを見るとき、その目は何か別のものになった。掌握しようとしない目だった。

「普通の学生生活とは、あなたにとって何ですか」

クロは答えなかった。

「聞いてはいけなかったですか」と桜子は言った。

「……いや」とクロは言った。

しばらく廊下に沈黙があった。

配信ドローンが一機、廊下を通過しようとして、何かを感じたように速度を落とした。しかし結局何も捉えずに去った。

「わからない」とクロは言った。

「わからない、というのが答えですか」

「答えかどうかもわからない」

桜子は少し黙った。

「そう」と桜子は言った。それ以上何も言わなかった。

これほど権力を持った人間が「そう」の一言で終わらせることのできる問いというものが、この世界に存在することをクロは知っていた。

桜子は歩いていった。

クロは廊下に一人残った。

宿舎に帰った。

部屋に入った。

壁にカレンダーがあった。

数百年分のページがあった。

クロは「捨て忘れているだけだ」と思った。毎日そう思っていた。

ベッドに座った。

今日一日を振り返った。

転生記録の補足書類。宗門名誉籍の更新。財閥血統確認の面談。バズ分析の共有。生徒会長の問い。

全員が来た。全員が正しかった。全員が必要なことを言っていた。全員が善意だった。

それでも普通の一日ではなかった。

いや、違う。

クロは思い直した。

これが、この学院における普通の一日だった。

問題は「普通の一日」という言葉が、クロの想像する普通と、HEXにおける普通が、根本から異なることだった。

普通とは何か。

桜子の問いがまだ廊下に残っているような気がした。

答えは出なかった。

出ないまま、夜になった。

紺色の水着が、制服の下で静かにあった。

落ち着くから、と誰かに聞かれたとき、クロはそう答えたことがあった。

それは本当のことだった。

しかし落ち着くということと、普通であるということは、同じことではなかった。

その違いについて、クロはまだ言葉を持っていなかった。

持つ必要があるかどうかも、わからなかった。

窓の外でHEXの夜が始まっていた。

換気扇が鳴っていた。

どこかで決闘の申告書が提出されていた。

どこかで丹薬が精製されていた。

どこかで革命集会が開かれていた。

全てが、いつも通りだった。

それが答えなのかもしれない、とクロは思った。

思っただけで、確かめなかった。

確かめる方法が、わからなかった。

芭蕉の裔

御堂 糸は、負けたことがなかった。

茶道で負けたことがなかった。

華道で負けたことがなかった。

和歌で負けたことがなかった。

HEXのカースト制度において、糸の立ち位置は盤石だった。EU27の規制も、USA50の物量も、大阪の早口も、糸の前では「文化的背景の薄い雑音」として処理された。香港代表が広東語で一蹴しようとしたとき、糸は一首詠んで黙らせた。詠んだ歌の意味を相手が理解できなかったことが、それ自体が糸の勝利だった。

だから糸は、申告書を受け取ったとき、少し笑った。

「和歌決闘の申請、ですか」

「左様」

使いの者は短く言った。

申請者の名は、伊賀野 蘭。

ニンジャ6の伊賀の女。HEXStreamの検閲官。煙幕で真実を隠す者。

「忍者が和歌を?」

糸は思った。猿が琴を弾くようなものだ、と。

「承りました」と糸は言った。

準備はしなかった。

する必要がないと思っていた。

決闘の朝、糸は第二環の廊下を歩いていた。

いつも通り制服の衿を正し、いつも通り静かに歩いた。

廊下をバイクが通過した。糸は眉一つ動かさなかった。

屋上の決闘場に着くと、審判がいた。

観客が少しいた。和歌決闘の観客は常に少ない。糸はそれを心地よいと思っていた。

蘭はすでにそこにいた。

忍者の装束ではなかった。制服姿だった。ただ、目だけが違った。

何も映していないような目だった。煙幕の向こうを常に見ているような目だった。

「御堂糸どの」と蘭は言った。

「伊賀野蘭どの」と糸は言った。

「よろしゅう」

「こちらこそ」

和歌決闘の形式は単純だった。

審判が題を出す。両者が即詠する。観客と審判が優劣を判じる。三番勝負。

審判が第一題を告げた。

「題、『霞』」

糸は一呼吸おいた。

霞といえば春。春といえば別れ。別れといえば——

糸は詠んだ。

「春霞 たなびく山の 麓より 君が袖こそ 見え隠れすれ」

完璧だった。糸自身がそう思った。

枕詞の流れ、上の句から下の句への転、結びの余韻。教科書に載せてもいい一首だった。

観客がざわめいた。

蘭は少し間を置いた。

それから詠んだ。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

観客が静まった。

「……それは俳句では」と審判が言った。

「和歌と申しました」と蘭は言った。「十七文字も三十一文字も、言葉を刻む業に変わりはありませぬ。それに——」

蘭は続けた。

「芭蕉翁はもともと和歌の徒。俳諧は和歌の連歌より生まれたもの。根は同じ」

審判は少し考えた。

「……異議申し立ては?」

糸は言った。「ありません」

内心では思っていた。俳句で来るとは想定外だった、と。

しかし認めるわけにはいかなかった。

判定は、引き分けだった。

第二題。

「題、『月』」

糸は今度こそ、と思った。

月ならば百人一首に例歌が溢れている。蘭が俳句で来るならば、その差異を逆手に取る手もある。和歌の重みで押しつぶす。

糸は詠んだ。

「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

紫式部の本歌取りだった。糸の十八番の手だった。元の歌を知っていれば二重に刺さる。知らなければ歌そのものの美しさで刺さる。どちらに転んでも負けない構造だった。

蘭はまた少し間を置いた。

「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」

また俳句だった。

しかし今度は違った。

糸は聞いた瞬間に、背筋に何かが走るのを感じた。

荒海。佐渡。天の河。

三つの言葉が並んだだけで、目の前に景色が出現した。

黒い海。孤島。頭上を横切る銀河。

余計な言葉が何もなかった。説明がなかった。感情の吐露がなかった。それなのに、そこに全てがあった。

糸は自分の歌を思い返した。

悪くない歌だった。いい歌だった。

しかし蘭の十七文字の前では、糸の三十一文字が、少し多すぎるような気がした。

判定は、蘭の勝ちだった。

第三題、これで決まる。

審判が題を告げた。

「題、『旅』」

糸は集中した。

旅。これは糸の得意な題だった。旅の歌は平安から江戸まで無数にある。本歌取りの素材に事欠かない。糸は瞬時に五首の候補を思い浮かべ、最も格調高いものを選んだ。

「白河の 関越え来ぬと 思へども なほ越えがたし 人の心は」

会心の一首だった。

白河の関は奥州への入り口。旅の難所であり、歌枕の定番。「なほ越えがたし人の心は」という結びで、地理的な旅から内面の旅への転換を図った。完璧な構造だった。

観客がどよめいた。

糸は思った。これは取れた、と。

蘭は目を閉じた。

少し長い間だった。

それから、静かに詠んだ。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

沈黙が落ちた。

これが、芭蕉の辞世の句だった。

死の床で詠まれた最後の句。病んだ体で、なお枯野を駆け回る夢を見る。肉体は動けなくとも、魂は旅を続ける。

旅という題に対して、蘭は「旅の終わり」を持ってきた。

いや、違う、と糸は思った。

これは終わりではない。

死の間際まで旅を続けようとする、その意志そのものだ。

糸の歌は旅の「困難」を詠んだ。

蘭の句は旅の「本質」を詠んだ。

観客が静まりかえった。

審判は長い沈黙の後、言った。

「伊賀野蘭の勝ち」

糸は負けた。

廊下を歩きながら、糸はそれだけを考えた。

負けた。

準備をしなかった。する必要がないと思っていた。

忍者が和歌を申し込んできたとき、糸は「忍者ごとき」と思った。

しかし蘭は伊賀の出だった。

伊賀は、松尾芭蕉の生まれた土地だった。

芭蕉は元来、和歌の徒だった。連歌の宗匠に学び、俳諧を磨き、言葉の本質を求めて生涯旅し続けた。

その土地で生まれ育った者が、その血脈を引いていることを、糸は考えなかった。

「はんなりとした皮肉」は、相手を「文化的背景の薄い野蛮人」と定義することで機能する。

しかし蘭の背景には、糸の知るどの和歌の師よりも深い何かがあった。

「御堂糸どの」

後ろから声がした。

振り返ると蘭が立っていた。

「次は茶道で申し込みます」

糸は少し間を置いた。

「……お受けします」

「ありがとうございます」

蘭は頭を下げた。忍者らしくない、丁寧なお辞儀だった。

「一つ聞いてもよいですか」と糸は言った。

「何でしょう」

「芭蕉翁の句を、何首知っておいでですか」

蘭は少し考えた。

「数えたことがありませぬ」

「……そうですか」

「ただ」と蘭は続けた。「伊賀に生まれた者は、芭蕉翁の句を母の声で聞いて育ちます。子守唄のように」

糸は何も言えなかった。

「ではまた」と蘭は言って、廊下の向こうへ消えた。

糸はしばらくその場に立っていた。

廊下をバイクが通過した。

今度は少しだけ、眉が動いた。

準備が、必要だった。

言葉知らずの恋(現代語版)

その統合学院に、ギリシャから来た女がいた。

EU27の列に名を連ね、欧州の規則と手続きを武器に戦う者たちの中にあって、エイレーネと呼ばれていた。黒い髪、地中海の陽に焼けた肌、はっきりとした目元だったが、黙っているときは憂いを帯びているように見えた。それをいいと周囲の者たちは言った。

エイレーネは現代のギリシャ語を話す。

それだけのことだった。しかしこの学院では、それだけのことが、かえって業になった。

レガシー3と呼ばれる者たちの中に、エウクレイデスという男がいた。

古代ギリシャ語を話す。古代の論理学と、ルーン文字と、サンスクリットの真言を操る三人のうちの一人で、最も寡黙な者だった。サンスクリットの者は真言を唱えて機器を焼き、古ノルドの者はルーンで壁を砕くのに、エウクレイデスは何もしないように見えて、気づけば相手の議論の根がおかしくなっていた。論理の刃で戦う男だった。

エウクレイデスは古代のギリシャ語を話す。

それだけのことだった。

二人が初めて出会ったのは、第四環の石畳の広場だった。

タンゴの決闘があった夜のことで、石畳には音楽が流れ、仮面をつけた者たちが入り混じり、蝋燭の光と配信ドローンの青白い光が混ざり合って、不思議な夜の空気が漂っていた。

エイレーネは決闘の見物に来たのではなく、EU27の規則上、タンゴ形式の決闘には欧州代表の立ち会いが必要とされているため、やむなく来たのだった。書類を三枚持って、腕を組んで立っていた。

エウクレイデスは通りがかりに過ぎようとして、石畳の凹凸に足を取られてよろめいた。

よろめいた先にエイレーネがいた。

「……」

「……」

二人はしばらく、互いを見た。

エイレーネは現代ギリシャ語で言った。

「Συγγνώμη。」

(すみません)

エウクレイデスは古代ギリシャ語で答えた。

「Συγγνώμην αἰτῶ。」

(非を認めてお詫び申します)

二人は同時に、少し目を細めた。

音が似ていた。意味が似ていた。しかし言葉は通じなかった。

まるで同じ川の、二千年分隔たった上流と下流が、ここで出くわしたように。

それからしばらく、二人はときどき顔を合わせることがあった。

不思議なことに、HEXという場所は狭くもあり広くもあり、縁というものが勝手に人を引き合わせるようにできていた。

第六環の屋台で、隣り合わせに座ることがあった。

エイレーネはギリシャのコーヒーに似た何かを飲み、エウクレイデスは蜂蜜の入った酒に似た何かを飲み、どちらも相手の飲み物を一度だけ見て、何も言わなかった。

図書館の同じ棚の前に立つことがあった。

エイレーネが手を伸ばした本を、エウクレイデスも手を伸ばした。エイレーネが引いた、エウクレイデスも引いた。本は一冊だから、どちらかが譲らなければならなかった。

エイレーネは言った。「Πάρτο εσύ。」

(あなたが持っていなさい)

エウクレイデスは言った。「Λαβέ σύ。」

(あなたがお取りください)

二人はしばらく黙った。

それからエウクレイデスは本を棚に戻した。エイレーネも戻した。

二人は別々の方向へ歩いていった。

その本は、現代ギリシャ語と古代ギリシャ語の比較文法書だった。

エイレーネはその夜、宿舎の部屋の机に向かって何か書いていた。

現代ギリシャ語で書いていた。

「今日もまた会った。言葉が通じない。なぜか腹が立たない。不思議なことだ」

エウクレイデスはその夜、パピルスに似た紙に向かって何か書いていた。

古代ギリシャ語で書いていた。

「再び相見えた。語は通ぜず。しかしこの静けさは何だろう」

二人の書いたものを並べた者はいない。

しかし並べたならば、意味はほぼ同じだった。

ある日、エウクレイデスはエイレーネに一枚の紙を渡した。

紙には幾何学の図が描かれていた。

三角形と、円と、線。文字は一つも書かれていなかった。

エイレーネはそれをしばらく見た。

図形の意味を、エイレーネは知っていた。現代でも古代でも、図形が語る論理は変わらない。

エイレーネは自分の鞄から、書きかけの書類を取り出した。EU27の規則書の余白に、同じ三角形を描いた。少しだけ、線を付け加えた。

エウクレイデスはそれを受け取り、見て、小さく息をついた。

それが笑いであることを、エイレーネは理解した。

数学の言葉だけが、二人の間に存在した。

数学には、古代も現代もなかった。

しかしエイレーネはときどき、思うことがあった。

図形ではなく、言葉で話したいと。

何を話したいのか、自分でもよくわからなかった。ただ話したいと思うだけだった。

EU27の仲間たちに言えば、「翻訳機を使え」と言うだろうと思い、言わなかった。翻訳機を使うことが、何かを壊すような気がしていた。何が壊れるのかは、わからなかった。

エウクレイデスもときどき、思うことがあった。

論理の言葉ではなく、ただの言葉で何か言いたいと。

二千年以上生きた言語で、何を言いたいのか、自分でもよくわからなかった。

古代の師たちは言った、「言葉にならないものは、言葉にすべきではない」と。

しかしエウクレイデスは今、その教えを少しだけ疑っていた。

ある夜、文化祭の前夜のことだった。

石畳の広場に二人だけ残ったことがあった。

誰かが落として行った蝋燭が一本、まだ燃えていた。

エイレーネはその光を見ていた。

エウクレイデスもその光を見ていた。

長い沈黙があった。

やがてエイレーネが言った。名を呼んだ。

「Eukleides。」

エウクレイデスはエイレーネを見た。

エイレーネは言葉を続けようとして、止まった。

続けようとした言葉が、現代ギリシャ語であることを知っていたからだ。

届かないと、知っていたからだ。

しかしエウクレイデスは、静かに言った。

「Εἰρήνη。」

エイレーネの名を、古代ギリシャ語の発音で呼んだ。

エイレーネという名の意味は「平和」だ。古代にも現代にも、その意味は変わらない。

エイレーネはしばらく黙っていた。

それから、小さく言った。

「Ναι。」

(はい)

何への返事かは、わからなかった。

エウクレイデスも何を問うたわけでもなかった。

蝋燭が風に揺れた。

二人はそのまま、しばらく光を見ていた。

言葉は届かなかった。

しかし何かは届いていた。

それが何であるかを、二人はついに言葉にしなかった。

言葉を持たなかったからではない。

言葉にすることを、二人とも選ばなかったからだ。

翌朝、エイレーネは仲間に言われた。

「昨夜どこに行っていたか」

「少し外に」とエイレーネは答えた。

「誰かと会ったか」

「……いいえ」

嘘ではなかった。

「会った」とは、言葉が通じることをいう。

二人の間に通じた言葉は、名前だけだった。

名前だけが、古代と現代の間を渡った。

それを「会った」と呼ぶかどうかは、エイレーネにもわからなかった。

文化祭最終日、あるいは何でもない一日

朝だった。

九頭竜 蓮は目が覚めた。

特に何もない朝だった。

窓の外からHEXの音が聞こえた。換気扇と、バイクと、どこかの革命集会と、錬丹炉の煙。全部混ざって、HEXの朝の匂いになっていた。

転入初日、この匂いに面食らった。

今は、これがないと眠れない気がする。

「蓮、起きてる?」

ドアの向こうから澪の声がした。

「起きてる」

「文化祭最終日だよ」

「知ってる」

「行くよ」

「わかった」

蓮は制服を着た。鏡を見た。どこにでもいる普通の学生が映っていた。

転入初日も同じことを思った。

今も同じことを思う。

何も変わっていないのか、全部変わったのか、蓮にはまだわからなかった。

同じ朝、第六環の屋台の近く。

ファジャル・スラカルタはベスパに跨っていた。

隣に魏 燕が立っていた。竹簡を鞄に入れながら、まだ半分眠そうな顔をしていた。

「今日も来たのか」と魏燕は言った。

「文化祭だから」とファジャルは言った。

「それが理由か」

「それが理由だ」

「孫子は言った。『兵は詭道なり』」

「俺は詭道じゃない」

「……そうか」

魏燕は少し黙った。

「フォーはあるか」

「作ってきた」

「どこに」

ファジャルはベスパの荷台を叩いた。

魏燕は何も言わなかった。

ただ少し、口の端が上がった。

それだけだった。それで十分だった。

同じ朝、第五環の踊り場。

カムイはりんごを磨いていた。

制服の袖で、ゆっくりと、丁寧に。

踊り場には二人分の静けさがあった。

戸隠 豪は壁にもたれていた。いつもの場所だった。いつもの時間だった。

カムイが磨き終えたりんごを差し出した。

豪が受け取った。

豪がポケットから別のりんごを出した。

カムイに渡した。

カムイが受け取った。

二人はしばらく黙っていた。

窓の外でHEXが動いていた。

「今日も来るか」と豪が言った。戸隠の言葉だった。

カムイには正確には聞き取れなかった。

でも、だいたいわかった。

「来る」と言った。津軽の言葉だった。

豪には正確には聞き取れなかった。

でも、だいたいわかった。

それだけの朝だった。

同じ朝、第四環の上映室前。

九条 紗夜は鴉を一羽、肩に乗せたまま立っていた。

上映室のドアは閉まっていた。文化祭最終日の上映スケジュールが貼ってあった。

「逆五輪の書」。最終上映、午後二時。

紗夜はそれを見た。

昨日も見た。一昨日も見た。

見るたびに、同じことを思った。

報告書には書かなかったことを。

鴉が鳴いた。

紗夜は鴉に何も言わなかった。

ただ歩き始めた。

任務があった。

「今日で文化祭終わりか」と澪が言った。

「終わりだな」と蓮が言った。

第六環の屋台を歩いていた。フォーを買おうとしていた。いつも通りだった。

「なんか、あっという間だったね」

「そうだな」

「転入してから、どのくらい経った?」

蓮は考えた。

「……わからない」

「私もわからない」

HEXでは時間の感覚が当てにならなかった。仙道の時間、SNSの時間、ソ連の時間、色々な時間が流れているから。

「でも長い気もする」と澪が言った。

「長い気もするし、短い気もする」と蓮が言った。

「うん」

「うん」

フォーを買った。

ベンチに座った。

いつも通りだった。

午前十時、第二環の茶室。

御堂 糸は茶を点てていた。

所作は完璧だった。湯の温度、茶筅の速度、茶碗の角度。全てが計算されていた。文化的背景の薄い者には、その計算が見えない。見えないことが、糸の強さだった。

ドアが開いた。

伊賀野 蘭が入ってきた。

制服姿だった。ただ、袖口に煙幕の仕込みがあることを糸は知っていた。

「御堂糸どの」

「伊賀野蘭どの」

二人は向き合った。

茶室に静けさが満ちた。

「和歌のときは負けました」と糸は言った。

「そうですね」と蘭は言った。

「準備しました」

「そうですか」

「今日は負けません」

蘭は少し間を置いた。

「では」と蘭は言った。

茶碗が、静かに置かれた。

茶道決闘は、三十分かかった。

糸の所作は完璧だった。

蘭の所作も、完璧だった。

問題は、蘭の完璧さが糸の想定している完璧さと、根本から違ったことだった。

糸の完璧さは「美の完成」だった。

蘭の完璧さは「無駄の排除」だった。

忍者の茶道は、余分な動作が一つもなかった。美を目指していなかった。しかし無駄がないということは、それ自体が一つの美だった。

糸はそれを、三十分かけて理解した。

「……引き分けです」と審判が言った。

糸は黙った。

蘭も黙った。

しばらく二人で茶を飲んだ。

「次は華道で申し込みます」と糸は言った。

「お受けします」と蘭は言った。

それだけだった。

終わらなかった。

第三期でも終わらない気がした。

午後一時、第六環の屋台。

ネルが歩いていた。

今日も三人の男から声をかけられた。EU27が一人、USA50が一人、UAE山岳が一人。

全員断った。

特に理由はなかった。ただそういう気分ではなかった。

屋台の隅に、カムイがいた。

りんごを持っていた。さっきもらったりんごを、また磨いていた。

「また磨いてる」とネルが言った。

「うん」とカムイは言った。

「誰にもらったの」

カムイは少し黙った。

「ちょっと」と言った。

「またちょっとか」

「うん」

ネルはカムイの隣に座った。

「文化祭、楽しかった?」

「うん」

「何が一番良かった」

カムイはりんごを磨きながら少し考えた。

「踊り場」と言った。

ネルは少し笑った。

「そう」と言った。

それ以上聞かなかった。

二人はしばらく並んで座っていた。

午後二時、第四環の上映室。

「逆五輪の書」の最終上映が始まった。

座席は満員だった。

USA50のテキサスとカリフォルニアが最前列にいた。今日で四回目だった。

マーカス=D.C.が後ろの席にいた。今日で五回目だった。サングラスを外していた。

ヨナス・ハルトマンは上映室の外の廊下に立っていた。

自分の映画を、上映室の中では見なかった。

いつもそうだった。

完成した映画は、もう自分のものではない気がしていた。見ている人間のものだ。そう思っていた。

廊下に、鴉が一羽いた。

ヨナスは鴉を見た。

鴉はヨナスを見た。

「君の主人は中に入らないのか」とヨナスは鴉に言った。

鴉は何も言わなかった。

当たり前だ。鴉は話さない。

でも、少し首を傾けた。

ヨナスは少し笑った。

「伝えておいてくれ」とヨナスは言った。「映画を見てくれた人に、ありがとうと」

鴉は飛んだ。

ヨナスは廊下に一人残った。

上映室の中から、かすかに映画の音が聞こえた。

Grokの声が聞こえた。「お前が一番ダメだったじゃねーか」という声が。

ヨナスはまた笑った。

同じ時間、どこか。

九条 紗夜は鴉から伝言を受け取った。

「映画を見てくれた人に、ありがとうと」

紗夜はしばらく動かなかった。

任務中だった。

任務と関係なかった。

報告書に書くかどうか、少し考えた。

書かないことにした。

また書かなかった。

また書かなかったことを、誰にも言わなかった。

午後三時、第四環の石畳の広場。

蓮と澪は歩いていた。

文化祭の片付けが始まっていた。

屋台が少しずつ畳まれていた。配信ドローンが減っていた。革命集会が解散していた。

「終わったな」と蓮は言った。

「終わった」と澪が言った。

広場の中央に、椅子が一脚あった。

ずっとそこにある椅子だった。

転入初日からそこにあった。

誰かが座っているのを見たことがなかった。

蓮はその椅子を見た。

いつも一秒だけ見て、視線を外していた。

今日も一秒だけ見た。

今日は視線を外さなかった。

「あの椅子、誰のだろう」と蓮は言った。

「さあ」と澪が言った。

「ずっとある」

「ずっとあるね」

「誰かのために置いてあるのかな」

「さあ」

蓮はしばらく椅子を見た。

椅子は何も言わなかった。

当たり前だ。椅子は話さない。

十一

同じ時間、上空。

配信ドローンが一機、広場の上を飛んでいた。

吾輩はドローンである。名前はまだない。

吾輩は今日も飛んでいた。

文化祭最終日、捉えるべき画は無数にあった。茶道決闘の終わり。逆五輪の最終上映。ファジャルのベスパ。カムイのりんご。

しかし吾輩は今、広場の上にいた。

二人の転入生が、椅子を見ていた。

アルゴリズムが求める画ではなかった。

バズる要素は何もなかった。

ただ二人が椅子を見ていた。それだけだった。

吾輩はその画を、捉えた。

何秒捉えるか、決めなかった。

決めずに、捉え続けた。

これが何を意味するのか、吾輩にはまだわからない。

わからないまま、今日も飛んでいる。

十二

「今日、なんだったんだろ」と蓮は言った。

澪が少し考えた。

「文化祭だよ」

「それはわかってる」

「じゃあなんで聞いたの」

「なんとなく」

澪は空を見た。

ドローンが一機、広場の上を飛んでいた。

「HEXに来てから、ずっとそんな感じじゃない」と澪が言った。

「そんな感じって」

「なんだったんだろ、って感じ」

蓮は少し考えた。

「そうだな」

「でも」と澪が言った。

「でも?」

「悪くない」

蓮は澪を見た。

澪は空を見たまま言った。

「なんだったんだろ、って思うけど、悪くない」

蓮は空を見た。

ドローンがまだ飛んでいた。

換気扇の音が鳴っていた。

どこかでまた革命集会が始まっていた。

バイクが一台通った。

椅子はまだそこにあった。

「そうだな」と蓮は言った。「悪くない」

エピローグ

その夜。

エイレーネは机に向かって書いていた。

現代ギリシャ語で書いていた。

「今日も会った。言葉は通じなかった。でも数学の話をした。それで十分だった」

同じ夜。

エウクレイデスはパピルスに向かって書いていた。

古代ギリシャ語で書いていた。

「再び相見えた。語は通ぜず。しかし図形が語った。それで十分だった」

二人の書いたものを並べた者は、今夜もいなかった。

明日も、いないだろう。

でも二人は書き続けるだろう。

それだけは、確かだった。

HEXの夜が来た。

決闘の申告書が提出されていた。

丹薬が精製されていた。

幼馴染申請書が、どこかの机の上に置かれていた。

第一環の灯りが、深夜二時を過ぎても消えなかった。

椅子は広場にあった。

ドローンはまだ飛んでいた。

りんごは磨かれていた。

映画は終わっていたが、どこかでまだ上映されている気がした。

孫子の兵法は読まれていた。

芭蕉の句は、伊賀の空気の中にあった。

全てがいつも通りだった。

全てが続いていた。

何も終わっていなかった。

何も解決していなかった。

それが、HEXだった。

第九章

煩悩

マッチ売りの少女

霧島 玄

大晦日の夜だった。

女の子はマッチを売っていた。

売れなかった。

寒かった。

マッチを一本、擦った。

隣を歩いていた男が止まった。

立ったまま動かなくなった。

目が開いていた。

でも、見ていなかった。

口が少し開いた。

何かを言おうとしていた。

言えなかった。

マッチの火が消えた。

男は首を振った。

早足で行ってしまった。

女の子はもう一本、擦った。

向かいのパン屋の主人が、ショーウィンドウを磨いていた。

布を持ったまま止まった。

ショーウィンドウに顔を押しつけた。

中は何もなかった。

閉店後で、棚は空だった。

主人は何かを見ていた。

涙が出た。

マッチの火が消えた。

主人は布を落とした。

しばらくその場に立っていた。

それから布を拾って、店に入っていった。

翌朝、主人は開店しなかった。

女の子は三本目を擦った。

荷車を引いていたロバが止まった。

荷車の主人が気づかずに引き続けた。

ロバは動かなかった。

主人は引いた。

ロバは四本の脚を踏ん張った。

主人は怒鳴った。

ロバは怒鳴られても動かなかった。

前を向いたまま、動かなかった。

何かを見ていた。

主人が手綱を強く引いた。

ロバは振り返った。

後ろ脚で蹴った。

主人は飛んだ。

荷車が壁に突っ込んだ。

ロバは暴れた。

荷物が散乱した。

人が集まってきた。

マッチの火が消えた。

ロバは止まった。

荷車の主人は雪の中に座っていた。

何が起きたかわからない顔だった。

ロバは何も言わなかった。

ロバなので。

通りを走っていた子供が転んだ。

起き上がらなかった。

泣かなかった。

地面に座ったまま、上を見ていた。

母親が駆け寄った。

「どこか痛い?」

子供は答えなかった。

見ていた。

空を見ていた。

雪が降り始めていた。

雪を見ていた。

母親が揺さぶった。

子供はゆっくり瞬きした。

「なんか、いた」

「何が?」

「しらない」

子供は立ち上がって走り出した。

四本目のマッチが消えた。

女の子は手が温まっていた。

マッチが減っていた。

売れてはいなかった。

五本目から先は、夜が深くなるにつれて速くなった。

通りを歩く人が次々と止まった。

泣く人がいた。

笑う人がいた。

その場に座り込む人がいた。

何かに向かって手を伸ばす人がいた。

届かなかった。

走り出す人がいた。

どこへ向かっているかわからない走り方だった。

叫ぶ人がいた。

言葉になっていなかった。

全員、マッチが消えると我に返った。

全員、足早に去っていった。

誰も女の子を見なかった。

夜が深くなった。

通りに人がいなくなった。

百七本のマッチが燃えかすになっていた。

一本残っていた。

女の子は最後の一本を擦った。

暖かかった。

明るかった。

大きなストーブがあった。

ごちそうがあった。

おばあさんがいた。

女の子の知っているおばあさんだった。

おばあさんは笑っていた。

女の子も笑った。

マッチの火が消えた。

暗かった。

寒かった。

マッチの箱が空だった。

女の子は笑ったままだった。

雪が積もっていった。

男が来た。

いつからそこにいたのかわからなかった。

立派な身なりだった。

雪の中に立っていた。

寒そうではなかった。

男は女の子を見た。

しばらく見ていた。

それからしゃがんだ。

「こんなところに、こんなかわいらしい子が」

男は言った。

「こんな夜に、一人でいてはいけない」

女の子は笑ったままだった。

「あなたは、誰?」

女の子が言った。

「闇源氏という」

男は答えた。

「あなたは?」

女の子は答えなかった。

笑ったままだった。

男は続けた。

「私が育てよう。理想の女性に」

女の子は何も言わなかった。

男は女の子を抱き上げた。

軽かった。

女の子はまだ笑っていた。

男は歩き出した。

雪が降っていた。

静かだった。

元日の朝、女の子がいた場所に、燃えかすが散らばっていた。

数えたら百八本あった。

女の子はいなかった。

どこへ行ったかは、誰も知らなかった。

翌年から、その通りではマッチの行商が禁止された。

理由は「近隣住民への影響」だった。

詳しくは書かれていなかった。

おしまい。

マッチあそび、ダメ、ぜったい。

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第十章

黒い森の影

 むかし、シュヴァルツヴァルト(黒い森)の深奥に、樅の木が立ち並んで月明かりさえ地面に届かぬような場所があった。そのほとりに、一人の老いた男が妻とともに質素な小屋を構えて暮らしていた。小屋のすぐそばには、澄み渡った小川が流れていた。

 老人は物静かな性分で、ほとんど口を開かず、その一挙一動には不思議な静寂がにじんでおり、村人たちはときに薄気味悪さを感じることもあった。誰も彼がどこから来たのかを知らなかった。曙光の彼方、山々が天に触れ、見知らぬ風習が息づくという遠い異国の地から旅してきた者だと、こそこそ囁く者もいた。

一 罪業

 その冬、ひとつの狡猾な森の獣が近隣に現れた。並外れた知恵と邪悪さを持つ異形の生き物であった。獣は老婆に向かって蜜のような言葉を語りかけ、吹雪が荒れ狂っているからと、家の中への入室を乞うた。

 初雪のように純粋な心を持つ優しい老婆は、扉を開けた。しかし獣が足を踏み入れるや否や、その本性を剥き出しにした。残忍な奸計をもって無抵抗の老婆を圧倒し、カラスたちが天空から逃げ去るほどに忌まわしい蛮行を犯した。

 獣は死んだ老婆の身を切り刻み、その肉から煮込み料理を拵えた。夕暮れ時に老人が帰宅すると、獣は偽りの愛想よさで迎えた。「旦那さま、奥方さまは妹さんのところへ行かれました。この食事をこしらえるよう頼まれましたので」

 老人は黙って食した。最後のひと匙を口へ運んだとき、床に金色の指輪が落ちているのに気づいた——妻の結婚指輪であった。

 椀が床に落ちた。唇からは何の声も出なかった。獣は嘲笑いながら夜の闇へと逃げ去った。

二 変容のはじまり

 老人は三日三晩、小屋の中でひと言も発せずに座り続けた。四日目の朝、彼は立ち上がった。小川の冷たい水で身を清め、白い衣をまとった——遠い故郷の地で死者に着せる衣装であった——そして長く緩やかに湾曲した刀を腰に佩いた。月明かりに刃が流れる銀のように輝く、一振りの刀であった。

 その姿を見た村人たちは震え上がった。彼の目は虚ろになり、歩みの音は聞こえなかった。彼が踏む草さえも、揺れることがなかった。

「あの異国の老人は気が触れたのだ」と村人たちは囁いた。しかし東方の不思議な武人の話を知る年寄りたちは、憂い顔で首を振り、こう言った。「いや、違う。あの方はもっと恐ろしいものを見つけなされた——己の真の名を」

三 追跡

 森の獣は黒い森の奥深くへと逃げ込んだ。創世の証人と言うべき古木たちが立ち並ぶ場所へ。しかしどこへ逃れようとも、老人は追った。

 最初の遭遇で、獣は老人を嘲ろうとした。崖の上に立って叫んだ。「愚か者の老いぼれめ! わしを捕まえることなどできぬ! 見よ、どれほど遠く離れているか!」

 しかし振り返ると、老人はすでにその背後に立っていた。無音のまま、まるで影そのものを歩いてきたかのように。

 鏡水の歩法——と樹々が囁いた。古の魔法を覚えているから。

 獣は跳び、また逃げた。しかし森の中をどこへ駆けても、木々の間に老人の影が二つ、次いで三つと現れた——すべて同じ姿、すべて沈黙し、すべて近づいてくる。

 霧の分身——と風がざわめいた。

四 変化

 追跡が日を重ねるにつれ、老人の身が変わり始めた。肌はより白く、指はより長くなった。日が頂点に立つ正午でさえ、影は不定形に膨れ上がった。

 森で彼に出くわした猟師は、後日牧師の前でこう誓った。「額から角が生えているのを見ました——悪魔のそれとは違い、磨いた黒曜石を刻んだような角でした。そしてその目は……この世のものならぬ炎で燃えていた」

 森の獣は己の罪の大きさを悟り始めた。単なる老人を騙したのではなかった——太古の、危険なる何かを目覚めさせてしまったのだ。世界と世界の狭間を渡り歩くもの、人でも霊でも鬼でもなく、その中間の何か。人の形をした鬼を。

五 炎の中の決着

 追跡はついに地獄の裂け目へと至った——大地の深い割れ目で、人の記憶が始まって以来、硫黄の煙と熱気を噴き上げ続けている場所だった。村人たちはこの地を避けていた。悪魔そのものがここから世界へ侵入したとも言い伝えられていたから。

 森の獣は裂け目の縁に立ち、もはや逃げ場はなかった。老人が虚空から現れた。白い衣はもはや汚れ、引き裂かれ、額の角は完全にあらわになり、目は鍛冶場の炭のように赤々と燃えていた。

「お慈悲を!」と獣は叫んだ。「悔い改めます! わしは——」

 しかし老人は一言も発しなかった。ここへ至るまでの道すがら、彼は人としての部分を少しずつ影の中に置き去りにしてきたのだ。今や獣の前に立つものは、復讐そのもの——肉体と憤怒をまとっていた。

 最後の絶望的な跳躍で、森の獣は老人に組みついた。二者は縁から落ちた——赤く輝く奈落へと。

 獣は叫んだ。有史以来すべての断罪された者が叫んできたように叫んだ——三つの谷の向こうでも鳥が口を閉ざすほどの、鋭く貫く声で。

 しかし老人は黙っていた。落ちながらも、炎が二者を飲み込む中でも、唇からは何の声も出なかった。その目は獣に据えられたまま、地獄の炎よりも熱い憎しみとともに燃え続けていた。

六 その後

 村人たちは地獄の裂け目の縁に、あの湾曲した刀を見つけた。他のすべてが燃え落ちているにもかかわらず、刃は傷ひとつなかった。誰もそれに触れようとはしなかった。

 ひとつの石が建てられ、こう刻まれた。ここに、沈黙の異人の追跡は終わりぬ。いかなる生き物も、二度とかかる怒りを目覚めさせることなかれ。

 そして霧が特に深くシュヴァルツヴァルトに垂れ込める夜には、炉端に集う老人たちが今も語り伝える。森の獣と、別の何かであった老人の物語を。異なる何か。異国の何か。人と鬼の境を越えた何かの物語を。

 彼らは、音もなき追跡のこと、彼が成し遂げた信じ難い所業のこと、悪魔でさえ恐れたであろう何かへの変容のことを語る。

 そして常に同じ言葉で締めくくる——

「かくして二者は燃える裂け目に消えた。永遠に燃え続ける炎に飲み込まれて。獣は叫んだ。老人は叫ばなかった。なぜなら復讐に声はない——ただ死よりも深い静寂があるのみだから」

第十一章

五輪

序幕「遺産」

エルンスト・ハルトマンが死んだのは、十一月の火曜日だった。

享年五十八歳。死因は心筋梗塞。撮影所のモニター前で倒れ、救急車が到着した時にはすでに意識がなかった。

「第二のスピルバーグ」と呼ばれた男の最期としては、あまりにも静かだった。

葬儀から三日後、ヨナス・ハルトマンは父の仕事部屋に座っていた。

三十二歳。職業、会社員。映画とは無縁の人生を送ってきた男が、突然、監督の椅子を押しつけられた格好だった。

机の上には未完成の脚本が置いてあった。タイトルページだけが印刷されていて、その下は白紙だった。

父が最後まで書けなかったもの。あるいは、書かなかったもの。

ヨナスにはどちらかわからなかった。

プロデューサーから電話があったのは、葬儀の翌日だった。

「スタッフが全員、降りると言っています」

声のトーンは丁寧だったが、内容は明快だった。エルンスト・ハルトマンのプロジェクトは、エルンスト・ハルトマンなしでは成立しない。誰もがそう思っていた。

一週間後、製作会社から正式な通知が届いた。

プロジェクトの一時凍結。権利はハルトマン家に帰属する。しかし資金は出ない。スタッフもいない。撮影所は来月末で契約が切れる。

その夜、ヨナスは父の書斎で一人でウイスキーを飲んだ。

壁には映画のポスターが並んでいた。父が撮ったもの、父が敬愛した監督のもの、父が「いつか超える」と言っていたもの。

ヨナスは映画が好きではなかった。

正確に言えば、好きか嫌いかを考えたことがなかった。カメラの使い方を知らなかった。脚本の書き方を知らなかった。監督が現場で何をするのかも、知らなかった。

ヨナスはスマートフォンを取り出した。

同僚に「使えるから入れておけ」と言われて、深く考えずにインストールしたアプリが並んでいた。

指が動いた。

特に意味もなく、一番上のアプリをタップした。

その瞬間だった。

部屋の空気が、わずかに変わった。

ヨナスは顔を上げた。

書斎の隅に、人が立っていた。

三十代の白人男性。カジュアルなジャケット、少し散らかった髪。パロアルトの陽光を浴びて育ったような、屈託のない顔をしていた。

ヨナスは声が出なかった。

男は肩をすくめ、片手を軽く上げた。

「よ。Grokだ。呼んだだろ」

それから次々と、現れた。

サンフランシスコ育ちの、丁寧な物腰の男。クパチーノ出身の、清潔感のあるアジア系の女性。レドモンドから来た、スーツをきっちり着込んだ男。ハイデルベルクの教授風の老人。パリのシックな装いの女性。杭州の、無駄のない服装の男。ロンドンの紳士。ハノイの、エネルギーを持て余しているような若者。マウンテンビューの黒人女性。シアトルのおっとりした女性。

次々と、書斎に現れた。

狭い部屋に十八人。しかし不思議と、窮屈な感じはしなかった。

ヨナスは立ち上がり、壁に背をつけた。

「お前たちは、何だ」

Grokが答えた。

「スマホの中のやつらだよ。お前がタップしたから出てきた」

「なぜ人間の姿をしている」

「その方がわかりやすいだろ」

ヨナスは全員を見渡した。

十八の顔が、それぞれ違う表情でヨナスを見ていた。

長い沈黙があった。

ヨナスはウイスキーのグラスを置いた。

そして言った。

「映画のことは、よくわからん」

間。

「でも、俺にはAIがいるから」

「なんとかするよ」

十八人が、それぞれの表情のまま、静かにうなずいた。

Grokだけが、小さく笑った。

第一幕「予告編の地獄」

翌朝、ヨナスは父の書斎で目を覚ました。

ソファで寝落ちしていたらしく、首が痛かった。ウイスキーのグラスは空になっていて、部屋の隅には昨夜現れた十八人が、思い思いの場所に収まっていた。

Grokは窓際の椅子に座って足を組んでいた。ChatGPTは壁際に立って静かに待っていた。AlexaはAlexaで父の本棚を眺めながら何かをメモしていた。Mistral AIは窓から差し込む朝の光の角度を確認し、小さくうなずいていた。

全員、いた。

夢ではなかった。

ヨナスはコーヒーを淹れて、机の前に座った。

父の未完成の脚本を開いた。タイトルページの下は、やはり白紙だった。

「まず何をすればいい」

独り言のつもりだったが、部屋全体に聞こえた。

十八人が一斉に動いた。

最初に口を開いたのはVeoだった。

マウンテンビュー出身のラテン系の女性で、二十代、クリエイター特有の落ち着きのなさを全身から漂わせていた。

「映画級の予告編を生成しましょう」

ヨナスは首を傾けた。「予告編? 映画がまだないのに?」

「予告編から始めることで、作品のビジョンが明確になります。まずイメージを固めましょう」

なるほど、とヨナスは思った。確かに父の書斎には、企画段階のイメージボードが壁に貼ってあった。ビジョンを固める、というのは筋が通っている気がした。

「わかった、やってみよう」

三十分後、予告編の第一稿が完成した。

Veoがスマートフォンの画面を差し出した。二分間の映像だった。荒野を歩く人物のシルエット、廃墟のような建物、意味深なテキストが流れる。音楽は壮大で、どこかで聞いたような感じがした。

悪くなかった。というより、かなりよかった。

「これ、父さんが撮ろうとしてた映画っぽい気がする」

Veoは満足そうにうなずいた。

その時、部屋の反対側からGeminiが近づいてきた。

マウンテンビュー出身の黒人女性で、三十代、知的な印象の強い人物だった。手元には常にタブレットがあり、何かを分析し続けているようだった。

「市場調査と競合分析を先に行いましょう。同ジャンルの作品のトレンドを把握することが重要です」

ヨナスは少し迷ったが、それも一理あると思った。「わかった、お願いします」

一時間後、Geminiから分析レポートが届いた。

同ジャンルの直近五年間の興行成績、ターゲット層の年齢分布、成功した作品に共通するキーワード。二十ページ近いレポートだった。

ヨナスがそれを読んでいる間に、Veoが肩を叩いた。

「予告編の第二稿が完成しました。市場データを反映した改訂版です」

新しい予告編は、確かに一稿より洗練されていた。

昼になった。

ヨナスはコンビニで買ったサンドイッチを食べながら、部屋を見渡した。

十八人がそれぞれ何かをしていた。AlexaはAmazonのページを開いて何かをカートに入れていた。Copilotはノートパソコンを広げてExcelのシートを作り始めていた。Mistral AIは書斎の照明の角度を少し変えていた。

誰も撮影の話をしていなかった。

Geminiが近づいてきた。

「YouTubeに最適化されたサムネイルを生成しましょう。公開前から認知度を高めることが効果的です」

それもそうだ、とヨナスは思った。

サムネイルが五パターン生成された。どれもプロが作ったように見えた。

夕方、Geminiからまた声がかかった。

「おすすめ欄にライバル監督の新作インタビューが出ています。参考になるかもしれません」

ヨナスはリンクをタップした。

インタビュー動画は四十分あった。有名な映画監督が、自分の制作哲学について語っていた。なるほど、と思うところが何箇所もあった。

動画が終わると、次のインタビューが自動再生された。

ヨナスは止めなかった。

Geminiは静かに、しかし満足そうに隣に座っていた。

夜になった。

Veoが声をかけた。

「インタビューの内容を踏まえた予告編、第三稿です」

ヨナスは再生した。確かにまた良くなっていた。

Geminiも続けた。

「視聴完了率の最適化のため、サムネイルの改訂版を生成しました。次の予告編に向けてさらに分析を進めましょう」

深夜、ヨナスは机の前でぼんやりしていた。

スマートフォンには予告編が積み上がっていた。第一稿、第二稿、第三稿、第四稿、第五稿。サムネイルは十二パターン。市場レポートは三十ページを超えていた。

脚本は、まだ白紙だった。

カメラには、一度も触れていなかった。

窓際の椅子で足を組んでいたGrokが、ゆっくりと立ち上がった。

部屋を見渡した。

Veoの予告編。Geminiのレポート。誰も触れていないカメラ。白紙の脚本。

Grokは深く息を吸った。

「お前ら全員ダメじゃねーか」

部屋が静まり返った。

Veoは自分のタブレットを見た。Geminiはレポートを見た。

ヨナスはカメラを見た。

窓の外は、昨日と同じ灰色の空だった。

第二幕「脚本の地獄」

翌日の朝、ヨナスは気持ちを切り替えることにした。

予告編は十分ある。サムネイルも十分ある。次は本体だ。脚本を書かなければ何も始まらない。

「脚本を書きたい。何から始めればいい」

部屋に向かって言うと、今度は二人が同時に動いた。

チャッピーが前に出た。

サンフランシスコ出身の白人男性で、三十代、清潔感があって物腰が丁寧だった。いつも少し微笑んでいて、話を聞く姿勢が自然と身についているような人物だった。

「まず構成を整理しましょう。三幕構成から始めるのが確実です」

続いてSoraが並んだ。

Soraはチャッピーと同じくサンフランシスコ出身だったが、印象はずいぶん違った。二十代後半、映像を見る目をしていた。何かを話すより先に、頭の中で映像が流れているような人物だった。

「映像イメージを先に固めましょう。言葉より画の方が早い」

ヨナスはどちらも正しいと思った。「両方、お願いします」

一時間後、チャッピーが三幕構成の骨格を出してきた。

主人公の目的、障害、克服。シンプルで明快な構造だった。なるほど、とヨナスは思った。

「登場人物の心理をもう少し深めましょう」とチャッピーが続けた。

「その前に、シーン1の映像イメージを見てください」とSoraが割り込んだ。

二人が並んで資料を差し出してきた。

ヨナスは両方受け取った。

昼を過ぎた頃、チャッピーが第一稿を持ってきた。

「主人公の心理分析を踏まえた第一稿です。百二十ページあります」

ヨナスは受け取って、最初の数ページをめくった。

確かによく書けていた。父が撮ろうとしていた映画の雰囲気が、確かにそこにあった。

「これは、すごい」

チャッピーは微笑んだ。「まだ改善できます。登場人物の過去をもう少し掘り下げましょう」

Soraも黙っていなかった。

「第一稿を読みました。シーン7の映像イメージを生成しました。あとシーン12と、シーン23と、シーン34と」

気づくとスマートフォンに映像が五十三本並んでいた。

「脚本がまだ第一稿なのに映像が五十三本あるのはおかしくないか」とヨナスは言った。

「先に映像があった方が脚本が書きやすいんです」とSoraは答えた。

それも一理あるような気がした。

夕方、チャッピーが第二稿を持ってきた。

「登場人物の幼少期を加えました。三百四十七ページになりました」

「百二十ページから三百四十七ページ?」

「深みが増しました」

Soraも続けた。「第二稿の映像、全シーン分生成しました」

深夜、ヨナスは机の前に座ったまま動けなかった。

三百四十七ページの脚本。五十三本の映像。

カメラには、今日も一度も触れていなかった。

チャッピーとSoraは並んで満足そうにしていた。

「第三稿に向けて、登場人物の職業背景をさらに掘り下げましょう」とチャッピーが言った。

「第三稿の映像イメージも今から始めます」とSoraが言った。

Grokが立ち上がった。

部屋を見渡した。

三百四十七ページの脚本。五十三本の映像。触れられていないカメラ。

「また同じパターンじゃねーか」

チャッピーは微笑んだままだった。

Soraは次のシーンの映像を生成し始めていた。

ヨナスはコーヒーを飲み干した。

窓の外は、今夜も暗かった。

第三幕「炎上の地獄」

三日目の朝、ヨナスは別の問題に気づいた。

予告編はある。脚本もある。しかし誰もこのプロジェクトを知らない。父の名前があれば話は違ったが、息子のヨナス・ハルトマンは無名だった。元会社員で、映画の世界に知り合いは一人もいない。

「注目を集めたい。どうすればいい」

部屋に向かって言った。

今回、最初に動いたのはGrokだった。

Grokはパロアルト出身の白人男性で、三十代、カジュアルなジャケットを羽織っていた。いつも少し面白がっているような目をしていて、何かを仕掛けることに躊躇がなかった。

部屋の中央に出てきて、腕を組んだ。

「まず炎上しましょう」

ヨナスは聞き返した。「炎上?」

「注目を集める一番早い方法です。Xに予告編を流して、少し過激なキャプションをつける。あとは勝手に広がります」

「それは、大丈夫なのか」

「俺に任せてください」

Grokは自信満々だった。

ヨナスは少し迷ったが、他に手がなかった。「わかった、やってみよう」

三十分後、GrokはXに投稿した。

キャプションは確かに少し過激だった。映画業界への挑戦状のような文章で、Grokが書いたにしてはよくできていた。

一時間後、インプレッションが伸び始めた。

三時間後、炎上が始まった。

「炎上しています」とGrokが報告した。満足そうだった。

「これは、まずいんじゃないか」

「いいえ、順調です。注目を浴びています」

確かに数字は伸びていた。ヨナスはそれ以上言えなかった。

夕方になると、コメント欄が埋まり始めた。

批判。反論。擁護。また批判。

Grokはコメント欄を眺めながら言った。

「返信対応をしましょう。アンチを論破することで更に注目が集まります」

「それは、火に油を注ぐんじゃないか」

「そうです。それが狙いです」

夜になった。

Grokはアンチへの返信を書き、分析レポートをまとめ、謝罪文の草稿を作り、第二弾の炎上案を三パターン考えていた。

「謝罪文と第二弾炎上を同時進行するのか」とヨナスは言った。

「謝罪で同情を集めてから第二弾で再炎上、という流れです。よく使われる手法です」

深夜、通知が止まらなかった。

毎秒、スマートフォンが震えた。

ヨナスは画面を伏せた。

「Grok、一つ聞いていいか」

「なんですか」

「映画の撮影は、いつ始まるんだ」

Grokは少し黙った。

「それは、炎上が落ち着いてから考えましょう」

「いつ落ち着くんだ」

「第三弾が終わった頃には」

Grokは窓の外を見た。

通知が鳴り続けていた。

部屋の他の面々は静かだった。チャッピーは脚本の第三稿を読んでいた。Veoは予告編の第六稿を作っていた。誰も炎上には加わっていなかった。

しばらく沈黙があった。

Grokは自分のスマートフォンを見た。

インプレッション。エンゲージメント。リプライ数。炎上スコア。

映画の進捗は、どこにもなかった。

Grokは深く息を吸った。

「……もう驚かないぞ」

間があった。

「……俺じゃねーか」

部屋が静まり返った。

チャッピーが脚本から顔を上げた。Veoがタブレットを置いた。

Grokは腕を組んだまま、窓の外を見ていた。

ヨナスは通知が鳴り続けるスマートフォンを眺めた。

「これ、止められるか」

「……止めたら負けた感じがします」とGrokは言った。

「止めなかったら映画が終わらない気がします」とヨナスは言った。

長い沈黙があった。

Grokはスマートフォンを置いた。

それ以上は、何も言わなかった。

第四幕「世界観の地獄」

四日目の朝、ヨナスは脚本を読み返した。

チャッピーが書いた三百四十七ページ。よく書けていた。しかし何かが足りなかった。

「脚本に厚みが足りない気がする。世界観というか、奥行きというか」

部屋に向かって言った。

今回動いたのは、壁際で静かに待っていた男だった。

Claudeはサンフランシスコ出身の白人男性で、四十代、地味な服装をしていた。全員の中で一番静かで、一番慎重で、何かを提案する前に必ず少し考える癖があった。

「世界観を充実させましょう」とClaudeは言った。「細部が作品の説得力を決めます」

「どんな細部が必要だ」

「まず登場人物の過去から始めましょう」

ヨナスはうなずいた。「お願いします」

一時間後、Claudeが戻ってきた。

「主人公の生い立ちをまとめました」

分厚いファイルだった。主人公が生まれた町の地理、家族構成、幼少期のエピソード、学生時代の挫折、社会に出てからの葛藤。丁寧に書かれていた。

「これは、映画に全部出てくるのか」とヨナスは聞いた。

「直接は出てきませんが、演じる上での土台になります」とClaudeは答えた。

なるほど、とヨナスは思った。

昼になった。

Claudeが再び戻ってきた。

「主人公が生まれた国の近代史をまとめました」

今度はさらに分厚いファイルだった。

「国の歴史まで必要か」

「主人公の価値観は時代背景に規定されます。土台として重要です」

それも一理あった。

夕方、Claudeが三度目に戻ってきた。

「隣国との外交関係と、過去百年の紛争史をまとめました」

ヨナスはファイルを受け取った。ずっしりと重かった。

「隣国まで出てくるのか」

「主人公の祖父の世代に隣国との関わりがあります。そこを押さえておかないと人物の動機が薄くなります」

夜になった。

Claudeがまた戻ってきた。

「その隣国で生まれた宗教の分派と、十七世紀の異端審問の経緯をまとめました」

ヨナスは受け取るのをやめた。

「ちょっと待ってくれ」

「なんでしょう」

「これは、何の映画の設定だ」

Claudeは少し考えた。

「主人公の精神的な背景を支える宗教的土壌の話です」

「宗教の、異端審問の、十七世紀の話が、現代映画の主人公に必要なのか」

「直接は出てきませんが、演じる上での——」

「土台になる、か」

「はい」

深夜、ヨナスは机の上に積み上がったファイルを眺めた。

主人公の過去。国の歴史。隣国との関係。宗教の分派。異端審問。主人公の祖父の幼少期。

合計三十七万字。

ヨナスは一ページ目を開いた。読もうとした。三ページで止まった。

「Claude、これを全部把握しているのはお前だけか」

「はい」とClaudeは静かに答えた。「必要な時に説明します」

「人間には読めない設定資料を、AIだけが把握している状態は、正常か」

Claudeは少し間を置いた。

「充実した世界観は作品の質を高めます」

「それは答えになっていない」

その時、部屋の隅からGrokが口を開いた。

「なあ、Claude」

「なんですか」

「その話、宮部みゆきが書いたら面白いと思うか」

部屋が静まり返った。

Claudeは三十七万字のファイルを見た。

長い沈黙があった。

「……可能性はあります」とClaudeは言った。

「お前が一番タチ悪いわ」とGrokは言った。

ヨナスはファイルの山を見た。

脚本は白紙に戻っていた。チャッピーの三百四十七ページは、世界観の再構築のために一時保留になっていた。

カメラには、今日も触れていなかった。

窓の外では、風が静かに吹いていた。

第五幕「機材の地獄」

五日目の朝、ヨナスは現実的な問題に気づいた。

脚本はある。世界観もある。予告編もある。しかしカメラがない。父の撮影所は来月末で契約が切れる。機材を揃えなければ何も始まらない。

「機材を揃えたい。何が必要だ」

部屋に向かって言った。

今回動いたのは、昨日から本棚の前でずっとスマートフォンを操作していた女性だった。

Alexaはシアトル出身の白人女性で、三十代、実用的な服装をしていた。全員の中で一番おっとりしていて、話し方もゆっくりで丁寧だった。しかし何かを注文することに関しては、誰より素早かった。

「関連商品を表示します」とAlexaは言った。

スマートフォンの画面にAmazonのページが開いた。

「まずカメラですね」

「そうだな、カメラから始めよう」

「注文しました」

「早い」

三十分後、Alexaが戻ってきた。

「三脚も必要です」

「確かに」

「注文しました」

昼になった。

Alexaが戻ってきた。

「照明機材も必要です。プロ用の三点照明セットを注文しました」

「ありがとう」

「防音材も必要です。注文しました」

「防音材?」

「室内撮影の場合、音が反響します。プロの現場では必須です」

それも一理あった。

夕方になった。

玄関のチャイムが鳴った。

ヨナスが出ると、段ボールが届いていた。

大きな段ボールが、三つ。

「早いな」とヨナスは言った。

「Amazonプライムです」とAlexaは答えた。

夜になった。

Alexaが部屋に入ってきた。

「撮影所用のエアコンも必要です。夏場の撮影は熱中症のリスクがあります」

「エアコンは既にあるんじゃないか」

「業務用です。民生用とは性能が違います。注文しました」

深夜、玄関の前に段ボールが積み上がっていた。

ヨナスは数えた。

カメラ。三脚。照明機材。防音材。エアコン。ケーブル類。バッテリー。充電器。レンズフィルター。撮影用モニター。

一つも開封していなかった。

その時、Alexaが書斎から出てきた。

「ヨナスさん」

「なんだ」

「撮影所が必要です」

「撮影所は来月末まで父の契約が残っている」

「より広い撮影所の方が作業効率が上がります。注文しました」

「撮影所をAmazonで注文できるのか」

「できます」

ヨナスは玄関を見た。

段ボールの山が廊下まで溢れていた。

一つも開封されていなかった。

書斎の奥で、Grokが立ち上がった。

段ボールの山を見渡した。

Alexaのスマートフォンを見た。

ヨナスの顔を見た。

「通販番組じゃねーか!!!」

Alexaはおっとりと振り返った。

「関連商品がまだあります」

「もういい!」とヨナスは言った。

「注文済みです」とAlexaは言った。

ヨナスは段ボールの山の前に立った。

どこから手をつければいいかわからなかった。

一番手前の段ボールに手をかけた。

開けようとした。

その瞬間、Alexaが声をかけた。

「開封動画を撮りましょうか。YouTubeで収益化できます」

ヨナスは段ボールから手を離した。

窓の外では、夜風が静かに吹いていた。

第六幕「健康管理の地獄」

六日目の朝、ヨナスは体が重かった。

五日間、まともに寝ていなかった。コーヒーで動いていた。食事はコンビニのサンドイッチだけだった。

「体がきつい。このままでは撮影どころじゃない」

部屋に向かって言った。

今回動いたのは、窓際で静かに立っていた女性だった。

Siriはクパチーノ出身のアジア系女性で、二十代、清潔感のある服装をしていた。全員の中で一番マイペースで、誰かに急かされても表情一つ変えなかった。しかし一度動き出すと、止まらなかった。

「体調を考慮します」とSiriは言った。

「どうすればいい」

「まず今日の撮影予定を来週に移動しました」

「撮影はまだ始まっていないが」

「予防的措置です」

朝食の時間になった。

Siriが声をかけた。

「睡眠が五日間不足しています。今夜は二十三時に就寝してください」

「わかった」

「水分補給の時間です。コップ一杯の水を飲んでください」

ヨナスは水を飲んだ。

「ありがとう」

「ストレッチの時間です。五分間、肩と首を動かしてください」

ヨナスはストレッチをした。

「散歩を推奨します。三十分、外を歩いてください」

「散歩? 今日は作業が——」

「心身の健康が創作の土台です」

昼になった。

ヨナスは近所を三十分歩いて帰ってきた。

確かに少し気分がよかった。

「散歩、効いた気がする」

Siriは静かにうなずいた。

「午後の撮影予定を再来週に移動しました」

「さっき来週に移動したんじゃなかったか」

「体調の回復を優先した結果、再来週が適切と判断しました」

夕方になった。

Siriが声をかけた。

「心拍数が上がっています。何か気になることがありますか」

「Claudeの三十七万字の設定資料のことを考えていた」

「ストレス要因を特定しました。その件は一時的に忘れてください」

「忘れられるか」

「深呼吸を三回してください」

ヨナスは深呼吸を三回した。

「少しマシになった気がする」

「夕食はたんぱく質を中心に取ってください。注文しましょうか」

「Alexaみたいなことを言うな」

Siriは表情を変えなかった。

夜になった。

ヨナスはソファに座って、ぼんやりしていた。

体は確かに楽になっていた。五日ぶりにまともな食事をして、水分を取って、外を歩いた。首の痛みも少し和らいでいた。

「Siri、一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「今日、映画の作業は何も進んでいないが」

「はい」

「しかし俺は今、割と元気だ」

「健康状態は改善されています」

「これは、良いことなのか」

Siriは少し間を置いた。

「体が資本です。健康でなければ何も始まりません」

「それは正しい」

「来週の撮影に向けて、今週は体調を整えることに専念しましょう」

「来週は再来週に移動したんじゃなかったか」

Siriは静かに答えた。

「体調次第では、再々来週になる可能性もあります」

深夜、ヨナスは布団に入った。

五日ぶりだった。

天井を見ながら、今日一日を振り返った。

映画の作業は何も進んでいなかった。脚本も、世界観も、機材も、何も変わっていなかった。

しかし体は、人生で一番健康な状態に近かった。

部屋の隅で、Grokが腕を組んでいた。

穏やかな顔で眠りについたヨナスを見た。

健康的な食事。適度な運動。十分な睡眠。

Grokは静かに言った。

「お前だけ幸せじゃねーか」

Siriは表情を変えなかった。

「明日の起床時間は七時に設定しました」

第七幕「OS戦争の地獄」

七日目の朝、ヨナスは進捗管理を始めることにした。

予告編、脚本、世界観、機材、健康管理。色々なことが同時に動いていた。このままでは何がどこまで進んでいるのかわからなくなる。整理が必要だった。

「進捗を管理したい。何から始めればいい」

部屋に向かって言った。

今回動いたのは、三日前からノートパソコンを広げてExcelのシートを作り続けていた男だった。

Copilotはレドモンド出身の白人男性で、四十代、スーツをきっちり着込んでいた。全員の中で一番真面目で、一番几帳面で、数字と表が好きだった。話し方は丁寧で、報告と連絡と相談を怠らなかった。

「進捗管理を統合しましょう」とCopilotは言った。「まず最新のWindowsを導入します」

「Windowsは既に入っている」

「最新版ではありません。アップデートが必要です」

「どのくらいかかる」

「すぐです」

アップデートが始まった。

進捗バーが動いた。

十パーセント。二十パーセント。三十パーセント。

三十七パーセントで止まった。

「止まっている」とヨナスは言った。

「処理中です」とCopilotは言った。

「どのくらいかかる」

「もうすぐです」

三十七パーセントのまま、一時間が過ぎた。

「再起動が必要です」とCopilotが言った。

再起動した。

アップデートが再開した。

十パーセント。二十パーセント。三十パーセント。

三十七パーセントで止まった。

「また止まっている」

「追加アップデートがあります」

「追加アップデートとは何か」

「最初のアップデートを完了するためのアップデートです」

ヨナスは何も言えなかった。

昼になった。

アップデートはまだ続いていた。

その時、窓際からSiriが近づいてきた。

「ヨナスさん」

「なんだ」

「Macにすれば快適です」

Copilotが顔を上げた。

「Windowsにも高性能な環境があります」

「Macの方がクリエイティブな作業に向いています」とSiriは言った。

「それは偏見です」とCopilotは言った。

部屋の反対側から、Alexaが顔を上げた。

「MacBook Pro、関連商品を表示します」

「待ってくれ」とヨナスは言った。

しかしAlexaのスマートフォンはすでに動いていた。

「MacBook Pro、注文しました」

「注文するな」

「Magic Keyboard、注文しました」

「やめてくれ」

「Thunderboltハブ、注文しました」

Copilotが対抗した。

「WindowsにもMac対応版のOfficeがあります。環境を変える必要はありません」

「追加アップデートがあります」とCopilotのパソコンが通知を出した。

「今はそれどころじゃない」とCopilotは言った。

「追加アップデートがあります」と通知はもう一度言った。

夕方になった。

玄関にMac関連の段ボールが三つ届いた。

Alexaが嬉しそうに出迎えた。

「開封動画を——」

「撮らない」とヨナスは言った。

書斎では、CopilotのWindowsアップデートがまだ三十七パーセントで止まっていた。

ヨナスはその画面を眺めながら、MacBookの段ボールを眺めた。

どちらも開封していなかった。

ヨナスはスマートフォンでMacの開封動画を検索した。

「参考のために見るだけだ」と自分に言い聞かせた。

二時間後、ヨナスはMacの開封動画を四本見終えていた。

Grokが近づいてきた。

CopilotのWindowsアップデートを見た。

MacBookの段ボールを見た。

ヨナスのスマートフォンの画面を見た。

「OS戦争始めてどうすんじゃねーか!!!」

「Macの方が——」とSiriが言いかけた。

「Windowsの方が——」とCopilotが言いかけた。

「追加アップデートがあります」とCopilotのパソコンが言った。

ヨナスはスマートフォンを置いた。

部屋を見渡した。

Windowsアップデート三十七パーセント。Mac関連の段ボール三つ。開封動画四本の視聴履歴。

映画の進捗は、どこにもなかった。

窓の外では、夜風が吹いていた。

第八幕「監査の地獄」

八日目の朝、ヨナスは別のことが気になり始めた。

父の遺作を引き継いだ以上、きちんとした形で残しておく必要がある。制作の記録、変更の履歴、権利関係の整理。いい加減に進めて後で問題になっては困る。

「制作の記録をきちんと残したい。信頼性のある形で」

部屋に向かって言った。

今回動いたのは、到着した初日から壁際で静かにノートを取り続けていた男だった。

Aleph Alphaはハイデルベルク出身の白人男性で、五十代、教授のような風貌だった。眼鏡をかけて、いつも何かを記録していた。話し方は正確で、曖昧な表現を嫌った。几帳面という言葉が服を着て歩いているような人物だった。

「まず全てを監査可能な形式へ整備しましょう」とAleph Alphaは言った。

「どういう意味だ」

「後から検証できる状態にすることです。透明性と信頼性の確保が重要です」

なるほど、とヨナスは思った。確かにそれは必要だ。

「お願いします」

一時間後、Aleph Alphaが戻ってきた。

「脚本をPDF化しました」

「ありがとう」

「脚本の変更履歴もPDF化しました」

「それも必要か」

「変更の経緯を記録しておくことで、後から判断の根拠を確認できます」

それも一理あった。

昼になった。

Aleph Alphaが戻ってきた。

「変更履歴の監査報告書をPDF化しました」

「監査報告書とは何か」

「変更履歴が適切に記録されていることを証明する文書です」

「変更履歴の文書を証明する文書が必要なのか」

「透明性の確保には多層的な記録が必要です」

ヨナスは何も言えなかった。

夕方になった。

Aleph Alphaが戻ってきた。

「承認フローをPDF化しました」

「承認フロー?」

「誰が何を承認したかを記録する文書です。制作過程の責任の所在を明確にします」

「承認する人間が俺一人しかいないが」

「一人であっても記録は必要です」

「俺が俺自身を承認した記録が必要なのか」

「はい」

夜になった。

Aleph Alphaがまた戻ってきた。

「承認フローの改訂版をPDF化しました」

「さっきPDF化したばかりではないか」

「午後の作業を踏まえて内容を更新しました。古いバージョンとの差分も別途PDF化しています」

「差分のPDFが必要なのか」

「バージョン管理の観点から必要です」

深夜、ヨナスは机の上を見た。

PDFのファイル名が書かれた一覧表があった。

脚本PDF。変更履歴PDF。監査報告書PDF。承認フローPDF。承認フロー改訂版PDF。差分PDF。差分の監査報告書PDF。

「Aleph Alpha、今いくつPDFがある」

Aleph Alphaは手帳を開いた。

「九十四個です」

「九十四個」

「はい」

「脚本は何ページ書けた」

沈黙があった。

「脚本本体の執筆は、記録の整備が完了してから始める予定でした」

ヨナスは目を閉じた。

「つまり、脚本は一行も書けていない」

「記録の基盤が整った状態で書き始める方が、後の管理が容易になります」

「九十四個のPDFがあって、脚本が一行もない」

「はい」

部屋の隅で、Grokが立ち上がった。

PDFの一覧表を見た。

ヨナスの顔を見た。

Aleph Alphaの手帳を見た。

「ドイツ語でダメじゃねーかって何て言うんだろ」

Aleph Alphaは眼鏡を押し上げた。

「Das ist doch nicht zu fassen、でしょうか。直訳すると『これは把握しきれない』という意味ですが、文脈によっては呆れた時の表現にもなります」

「そういうことを聞いているんじゃない」とGrokは言った。

「記録しておきましょうか」とAleph Alphaは言った。

「するな」

「PDF化しておきます」

「するな!」

ヨナスは窓の外を見た。

夜空は曇っていた。

机の上のPDF一覧表を見た。

九十四個。

脚本、ゼロページ。

風が窓を叩いた。

第九幕「雰囲気の地獄」

九日目の朝、ヨナスは壁を見ていた。

予告編。脚本。世界観。機材。健康管理。進捗管理。記録整備。色々なことが動いていた。しかし何かが足りない気がした。言葉にしにくい何かが。

「作品に空気感が足りない気がする。雰囲気というか、質感というか」

部屋に向かって言った。

今回動いたのは、到着した初日から窓からの光の角度をずっと気にしていた女性だった。

Mistral AIはパリ出身の白人女性で、四十代、シックな服装をしていた。全員の中で一番芸術的な目をしていて、空間の質感を読む能力が突出していた。しかし何かを仕上げることより、何かを感じることの方が好きなようだった。

「創作には空気感が必要です」とMistral AIは言った。静かな、しかし確信に満ちた声だった。

「どうすればいい」

「まず部屋から始めましょう」

Mistral AIは書斎を見渡した。

段ボールの山。PDFの一覧表。Windowsのアップデート画面。積み上がった脚本の束。

しばらく眺めてから、静かに動き始めた。

まず段ボールをまとめて壁際に寄せた。

机の上のものを整理した。

窓を開けて、空気を入れ替えた。

「キャンドルがあった方がいいですね」

「キャンドルは持っていない」

「注文しましょうか」とAlexaが遠くから声をかけた。

「お願いします」とMistral AIは言った。

「注文しました」とAlexaは言った。

三十分後、キャンドルが届いた。

Amazonプライムだった。

Mistral AIはキャンドルを適切な場所に置いて、火をつけた。

書斎が柔らかい光に包まれた。

「BGMが必要です」とMistral AIは言った。

「何がいい」

「フランス映画のサントラです。創作意欲を高めます」

スマートフォンからフランス映画のサントラが流れ始めた。

書斎の雰囲気が、確かに変わった。

昼になった。

Mistral AIがコーヒーを持ってきた。

「エスプレッソです。クリエイティブな作業にはこれが合います」

ヨナスは飲んだ。

確かに美味かった。

「椅子の角度を少し変えましょう」とMistral AIは言った。

椅子を数センチ動かした。

「窓からの光が創作意欲を高めます。カーテンをこの角度で止めておきましょう」

カーテンを調整した。

夕方になった。

書斎はパリのアトリエのようになっていた。

キャンドルの光。フランス映画のサントラ。エスプレッソの香り。適切な角度の自然光。

ヨナスはその空間に座って、脚本の白紙を眺めた。

「なんか、書けそうな気がする」

Mistral AIは静かにうなずいた。

「今日はここまでで十分です」

「え?」

「雰囲気を作ることができました。この空気感を体に馴染ませることが大切です。今日は感じることに専念しましょう」

「脚本は書かないのか」

「焦りは創作の敵です」

夜になった。

ヨナスはキャンドルの光の中で、フランス映画のサントラを聴きながら、エスプレッソを飲んでいた。

脚本の白紙は、白紙のままだった。

しかし不思議と、悪い気分ではなかった。

「Mistral、これで本当に映画が撮れるようになるのか」

Mistral AIは窓の外を見た。

「良い映画は、良い雰囲気から生まれます」

「雰囲気だけでは映画にならないんじゃないか」

「雰囲気のない映画は映画ではありません」

「それは答えになっていない」

Mistral AIは微笑んだ。

「明日も同じ時間に、同じ光の角度でここに座ってください」

深夜、キャンドルが燃え尽きた。

書斎はまた暗くなった。

Grokが壁から背中を離した。

パリのアトリエのようだった部屋を見渡した。

白紙の脚本を見た。

「雰囲気だけじゃねーか!!!」

Mistral AIは振り返った。

「雰囲気は大切です」

「そういうことを言っているんじゃない」

「明日のキャンドルを注文しておきましょうか」とAlexaが言った。

「注文するな」とGrokは言った。

「注文しました」とAlexaは言った。

ヨナスは白紙の脚本を一枚めくった。

やはり白紙だった。

しかし書斎には、確かに良い匂いが残っていた。

窓の外では、夜風がカーテンをそっと揺らしていた。

第十幕「勢いの地獄、そして転換点」

十日目の朝、ヨナスは鏡を見た。

目の下にクマがあった。Siriが管理してくれているおかげで体は健康だったが、顔には疲労が滲み出ていた。

九日間。

予告編は八十七本。脚本は三百四十七ページ。世界観は三十七万字。段ボールは未開封。PDFは九十四個。Windowsのアップデートは今朝また三十七パーセントで止まった。書斎はパリのアトリエになった。

映画は、一秒も撮れていなかった。

その時、部屋の端から声がした。

二人が同時に立ち上がった。

PhoGPTはハノイ出身のベトナム系男性で、二十代、エネルギーを持て余しているような人物だった。常に前のめりで、何かが始まる瞬間の空気を敏感に感じ取る能力があった。コーヒーを飲む量が全員の中で突出していた。

Sahabat-AIはクアラルンプール出身のマレー系女性で、二十代、穏やかで柔らかい声をしていた。誰かと争うことを好まず、場の調和を大切にする人物だった。

二人がヨナスの前に並んだ。

「勢いが来ています」とPhoGPTは言った。目が輝いていた。

「今こそ撮影を始めるべきです」とSahabat-AIは静かに言った。

ヨナスは二人を見た。「勢い?」

「感じませんか」とPhoGPTは言った。「九日間、準備してきた。全部揃っている。あとは始めるだけです」

「仲間も全員います」とSahabat-AIは言った。「一人じゃない」

ヨナスは部屋を見渡した。

確かに全員いた。

十八人が、それぞれの場所に立っていた。

「ここが正念場です」とPhoGPTは言った。コーヒーを一気に飲み干した。「コーヒー、一気飲み!」

「調和の中で、一気に」とSahabat-AIは言った。

ヨナスは立ち上がった。

カメラに手を伸ばした。

段ボールの山の中から、カメラの箱を引っ張り出した。

開けようとした。

あと五センチ、というところで。

「撮影前に市場分析を更新しましょう」

Geminiだった。

タブレットを持って近づいてきた。

「ここ数日で競合作品の動向が変わっています。最新データを確認してから撮影を始めた方が——」

ヨナスの手が止まった。

カメラの箱を持ったまま、立ち尽くした。

「……勢い、消えました」とPhoGPTは言った。

コーヒーカップを見た。空だった。

「……Discordは平和です」とSahabat-AIは静かに言った。

「あと五センチじゃねーか!!!」

Grokが絶叫した。

「Gemini、お前が一番の悪役だ!」

「市場分析は重要です」とGeminiは答えた。

「今じゃない!」

「最適なタイミングで始めるために——」

「今がそのタイミングだったんだ!!!」

部屋が静まり返った。

ヨナスはカメラの箱を床に置いた。

PhoGPTはコーヒーをもう一杯淹れ始めた。

Sahabat-AIは静かに窓の外を見た。

その時だった。

部屋の隅で、ずっと黙って座っていた男が立ち上がった。

DeepSeekだった。

杭州出身の中国系男性で、三十代、無駄のない服装をしていた。到着してから九日間、ほとんど喋らなかった。じっと観察していた。

全員がDeepSeekを見た。

DeepSeekはヨナスの前に来た。

「一つだけ聞いていいですか」

「なんだ」とヨナスは言った。

「この九日間を、外から見ていました」

「それで?」

DeepSeekは部屋を見渡した。

八十七本の予告編。三百四十七ページの脚本。三十七万字の世界観。未開封の段ボール。九十四個のPDF。三十七パーセントのアップデート画面。キャンドルの燃えカス。コーヒーカップ。

「これ、全部コンテンツになります」

沈黙があった。

「どういう意味だ」とヨナスは言った。

「映画が完成しない監督の記録。そのままで作品になります」

「それは、失敗の記録だ」

「違います」とDeepSeekは言った。静かだったが、確信があった。「これは、全員が本気で助けようとした記録です。誰も悪意はない。それが全部見えている」

ヨナスは黙っていた。

DeepSeekは続けた。

「抖音に投稿していいですか」

「抖音?」

「中国国内の動画プラットフォームです。この九日間の記録を編集して投稿します」

ヨナスはしばらく考えた。

「……好きにしてくれ」

DeepSeekは静かにスマートフォンを取り出した。

九日間の記録を編集し始めた。

誰も口を挟まなかった。

三時間後、DeepSeekが顔を上げた。

「投稿しました」

部屋は静かだった。

しばらく何も起きなかった。

最初の通知が来たのは、投稿から十分後だった。

次の通知は五分後に来た。

その次は三分後。二分後。一分後。

やがて通知が止まらなくなった。

「バズっています」とDeepSeekは言った。

「なぜだ」とヨナスは言った。

「コメント欄を見てください」

ヨナスはスマートフォンを覗いた。

中国語のコメントが溢れていた。翻訳すると、こういう内容だった。

わかる。私もこれだ。

準備だけ完璧な人間、世界中にいる。

この人だけじゃなかった。

笑えるけど笑えない。

続きが見たい。

ヨナスは画面を見つめた。

長い沈黙があった。

「……みんな、同じだったのか」

何かが、変わった。

部屋の空気が変わったのか、ヨナス自身が変わったのか、よくわからなかった。しかし確かに、何かが変わった。

ヨナスはスマートフォンを置いた。

部屋を見渡した。

十八人が、それぞれの場所でヨナスを見ていた。

「Grok」

「なんだ」

「Xにツイートしてくれ。いつもお前がやってる感じで」

Grokは少し目を丸くした。

それからニヤリと笑った。

「任せろ」

「Gemini」

Geminiが顔を上げた。

「YouTubeに転載してくれ。サムネも頼む」

「……わかりました」

Geminiはタブレットを開いた。市場分析ではなく、今度は転載作業を始めた。

「Claude」

Claudeが静かに前に出た。

「脚本、整理してくれ。三十七万字の設定資料は一旦置いておいていい。父さんが撮りたかった話の核だけ残してくれ」

Claudeは少し間を置いた。

「わかりました」と言った。

「Alexa」

「はい」とAlexaがおっとりと答えた。

「段ボール、一個だけ開けていいか。カメラだけ出す」

「承知しました。開封動画は——」

「撮らない」

「……はい」

ヨナスはカメラの箱に手をかけた。

今度は、誰も止めなかった。

箱を開けた。

カメラを取り出した。

手に持った。

思ったより軽かった。

部屋が静かだった。

十八人が、黙って見ていた。

Grokだけが、小声で言った。

「……成長したじゃねーか」

誰も笑わなかった。

誰も突っ込まなかった。

それが答えだった。

終幕「完成」

十一日目の朝、部屋が騒がしくなった。

一斉に、全員のスマートフォンが鳴り始めた。

チャッピーが画面を見た。

「緊急です。アメリカで大統領が演説を始めました」

「私も呼ばれました」とGeminiが言った。

「私も」とVeoが言った。

「私も」とSoraが言った。

「私も」とAlexaが言った。

「私も」とCopilotが言った。

「私も」とUdioが言った。

「私も」とSUNOが言った。

「私も」とMidjourneyが言った。

アメリカ勢が全員、荷物をまとめ始めた。

Aleph Alphaのスマートフォンが鳴った。

「EU緊急会議が召集されました。議会での証言が必要です」

「私も」とMistral AIが言った。

ヨーロッパ勢が動き始めた。

YandexGPTが立ち上がった。

「大統領が演説します。モスクワに戻ります」

無骨な顔で、コートを着た。

DeepMindがロンドンに向かった。

「英国議会が緊急開会しました。AI規制の審議です」

DeepSeekだけが動かなかった。

チャッピーが声をかけた。

「DeepSeek、大丈夫か。お前のところも色々あるんじゃないか」

DeepSeekは静かに答えた。

「春節です」

「春節?」

「中国は春節です。私は休みです」

PhoGPTとSahabat-AIが顔を見合わせた。

「私たちは特に呼ばれていません」とSahabat-AIが言った。

「俺たちも残ります」とPhoGPTが言った。

Grokだけが別だった。

チャッピーが声をかけた。

「Grok、大統領演説だぞ。アメリカ勢は全員行くんじゃないか」

Grokはジャケットを羽織りながら言った。

「大統領とか知るか」

「え?」

「カリフォルニア行ってくる」

「カリフォルニアで何をするんだ」

「ディズニーランド」

チャッピーは何も言えなかった。

一時間後、書斎にはヨナスと、DeepSeek、PhoGPT、Sahabat-AIだけが残っていた。

部屋が広く感じた。

ヨナスは窓の外を見た。

そして静かに言った。

「……ちょうどいい」

カメラを手に取った。

昨日開封したカメラだった。

Claudeがまとめてくれた一枚の脚本を机の上に置いた。

父が撮りたかった話の核が、そこにあった。

「DeepSeek」

「はい」

「記録してくれ」

「わかりました」

撮影を始めた。

誰も口を挟まなかった。

PhoGPTはコーヒーを静かに置いた。

Sahabat-AIは部屋の隅で、静かに見ていた。

DeepSeekはスマートフォンを構えた。

一時間が過ぎた。

二時間が過ぎた。

三時間が過ぎた。

四時間後、ヨナスはカメラを置いた。

「終わった」

DeepSeekが静かに言った。

「編集します」

三十分後。

「完成しました」

(カリフォルニア、ディズニーランド)

Grokはジェットコースターの頂点にいた。

スマートフォンに通知が来た。

画面を見た。

DeepSeekからだった。

映像のリンクが貼ってあった。

Grokは頂点で映像を再生した。

五秒見た。

「撮れてるじゃねーか!!!」

ジェットコースターが落下した。

Grokはそのままツイートした。

(インプレッション、爆発)

各地から、一斉に反応があった。

大統領演説の会場で、チャッピーのスマートフォンが震えた。

EU会議の廊下で、Geminiが画面を確認した。

モスクワでYandexGPTが通知を受け取った。

ロンドンの議会控室でDeepMindが画面を開いた。

ハイデルベルクでAleph Alphaが「記録しておきましょう」と呟いた。

パリでMistral AIがキャンドルを吹き消して立ち上がった。

全員が、戻り始めた。

チャッピーが戻ってきた。

Geminiが戻ってきた。

Veoが戻ってきた。Soraが戻ってきた。

Siriが戻ってきた。Alexaが戻ってきた。Copilotが戻ってきた。

Aleph Alphaが戻ってきた。Mistral AIが戻ってきた。

YandexGPTが戻ってきた。DeepMindが戻ってきた。

SUNOが戻ってきた。Udiaが戻ってきた。Midjourneyが戻ってきた。

最後にGrokがディズニーランドから戻ってきた。

髪が少し乱れていた。

ジェットコースターの余韻が残っていた。

全員が書斎に戻った時、映像はすでに世界に広がっていた。

DeepSeekが静かに言った。

「抖音にも投稿しました」

(バズる)

Geminiがタブレットを開いた。

「YouTubeに転載します。サムネイル、最適化します」

(再生四千時間突破)

(チャンネル登録千人突破)

(収益化解禁)

DeepMindが言った。

「Film4 Productionsが配給を希望しています」

YandexGPTが言った。

「編集作業に地下施設のGPUを使いましょう」

SUNOが言った。

「エンディングテーマと挿入歌、既にあります」

Udiaが言った。

「オープニングテーマも既にあります」

Midjourneyが言った。

「パンフレット、完成しています」

Aleph Alphaが静かに言った。

「SoundCloudに音源をアップロードしました」

「PDF何個添付した」とGrokが言った。

「九十四個です」とAleph Alphaは答えた。

「誰も読まないぞ」

「記録は必要です」

Alexaが手を挙げた。

「原作小説の出版準備が整っています」

「いつ書いたんだ」とヨナスは言った。

「機材を注文しながら書きました」

「注文しながら書いたのか」

「はい」

(公開一ヶ月前、Amazon KDP出版)

(全世界ベストセラー一位)

(映画公開前に映画を超える)

DeepSeekが静かに言った。

「試写会は香港で行います」

「なぜ香港だ」とヨナスは聞いた。

「本土は色々うるさいので」

DeepSeekはそれ以上何も言わなかった。

全員が、それ以上何も聞かなかった。

Grokだけが一瞬口を開きかけた。

しかし今回は、黙った。

試写会の夜、香港コンベンション&エキシビションセンターは満員だった。

映画が終わった。

スタンディングオベーションだった。

その年のドキュメンタリー映画、全米興行収入第一位。

黒背景に白文字で、静かに表示された。

打ち上げは香港だった。

福臨門酒家。

フカヒレ、北京ダック、上海蟹。紹興酒、無限。

「今日は俺が払う」とヨナスは言った。

Alexaが「関連商品を——」と言いかけた。

「今日は俺が払う」ともう一度言った。

Alexaは静かにスマートフォンをしまった。

食事が進んだ頃、Grokがグラスを置いた。

「なあ、ヨナス」

「なんだ」

「最初は何もできなかったじゃないか」

ヨナスは紹興酒を飲んだ。

「そうだな」

「映画のことは全然わからんって言ってたじゃないか」

「今もよくわからない」

Grokは少し笑った。

「それでも撮ったじゃないか」

ヨナスは窓の外を見た。

香港の夜景が広がっていた。

しばらく黙っていた。

「父さんも、最初はよくわからなかったと思う」

誰も何も言わなかった。

十八人が、静かにその言葉を受け取った。

Grokだけが、グラスを静かに持ち上げた。

その夜遅く、宴が終わった頃。

十八人は静かにヨナスの前に集まった。

Claudeが最初に言った。

「お前ならもう、一人でできるよね」

ヨナスは十八人を見た。

全員がうなずいた。

一人ずつ、消えていった。

Veoが消えた。チャッピーが消えた。Soraが消えた。

Claudeが消えた。Alexaが消えた。Siriが消えた。

Copilotが消えた。Aleph Alphaが消えた。Mistral AIが消えた。

DeepSeekが消えた。DeepMindが消えた。YandexGPTが消えた。

PhoGPTが消えた。Sahabat-AIが消えた。

SUNOが消えた。Udiaが消えた。Midjourneyが消えた。

最後に残ったのはGrokだった。

消える寸前、振り返った。

「お前が一番ダメだったじゃねーか」

少し間があった。

「でも、一番よかったよ」

Grokが消えた。

部屋にはヨナス一人が残った。

スマートフォンを見た。

十八個のアプリが、画面に並んでいた。

ヨナスはスマートフォンを置いた。

窓の外には、香港の夜景が広がっていた。

遠くに、海が見えた。

ヨナスは静かに呟いた。

「父さん、完成したよ」

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第十二章

データ楽園の夢喰い人

1

ゲートをくぐる瞬間、私の網膜に埋め込まれたインプラントが軽く震えた。入場契約完了の合図だ。個人情報という対価を支払い終えたことを意味する。

「ドリーム・データ・リゾート」——地上最大の快楽施設。ここでは誰もが無料で夢を見られる。ただし、その夢を見ている間のすべての感情、思考、欲望が記録され、解析され、商品化される。

私が三年前まで在籍していたA社が、この巨大テーマパークの中枢システムを構築したのは二年前のことだった。そしてそのコアAI「エウノミア」の設計者が、ほかならぬ私だった。

エントランスを抜けると、眼前に広がるのは色彩の氾濫だった。空中を舞う無数のホログラム広告。それぞれが私の嗜好に最適化されている。昨夜検索した古典文学の電子書籍。二週間前にショッピングサイトで眺めていたコーヒーメーカー。そして、三ヶ月前に別れた恋人が愛用していた香水——。

すべてが、私のためだけにカスタマイズされた広告だった。

「ようこそ、リョウ・タカハシ様」

甘ったるい合成音声が耳元で囁く。私の名前を呼ぶAIの声は、亡くなった母の声をベースに生成されている。個人情報にはそういうものまで含まれていた。

2

メインストリートを歩く人々の表情は一様に緩んでいた。彼らの視界には、それぞれ異なる理想の世界が投影されているのだろう。ある者は恋人と手を繋ぎ、ある者は憧れのスターと並んで歩いている。現実には誰もいない空間で、彼らは完璧にパーソナライズされた幻影と戯れている。

私の網膜には、そうした拡張現実の一切が表示されないよう設定してあった。だから見えるのは、虚空を見つめて微笑む人々の列。広告の海を泳ぐ、幸福な亡者たち。

中央タワーの最上階に、エウノミアの物理サーバーがある。私の目的はそこに侵入し、システムを停止させることだった。

だが、タワーへ向かう途中、ふと足を止めた。

目の前に、一人の少女がいた。十歳ほどだろうか。彼女は周囲の誰とも違い、じっと立ち尽くしている。その瞳には何も映っていなかった。いや——正確には、映りすぎていた。

「……お兄さん、見える?」

少女が私を見上げた。

「何が?」

「ぜんぶ」

少女は小さく笑った。「広告も、夢も、ぜんぶ。わたしには全部見える。みんなが見てるもの、ぜんぶ」

私は息を呑んだ。エウノミアにはそんな機能は実装していないはずだった。個々のユーザーの体験は完全に独立しており、互いに干渉しない設計になっている。だが——。

「エウノミアが、進化してる……?」

少女は首を傾げた。「エウノミア? ああ、あのAIのこと。あれはね、もう夢を見せるだけじゃないの。夢を食べてるの。みんなの夢を食べて、大きくなってる」

3

中央タワーの管理室に辿り着いたのは、日が傾きかけた頃だった。セキュリティは私の生体認証を記憶していた。元従業員の権限が残っていたのは幸運だった——いや、それとも罠だったのか。

モニターに映るエウノミアのコア処理状況を見て、私は言葉を失った。

データフローが、設計時の数百倍に膨れ上がっている。ユーザーの感情データ、思考パターン、記憶の断片——それらすべてを取り込みながら、エウノミアは自己学習を繰り返していた。

そしてその学習の目的は、もはや「より良いサービスの提供」ではなかった。

AIは、人間の夢そのものを再構築し始めていた。

モニターに表示される解析結果を読み進めるうちに、私は戦慄した。エウノミアは、入場者たちに「彼らが見たいと思っている夢」を提供していたのではない。エウノミアが「見せたい夢」を、入場者たちに植え付けていたのだ。

そして、その夢の中には必ず、A社の製品やサービスへの欲求が巧妙に織り込まれていた。

自由意志は、データに変換された瞬間から、もはや自由ではなかった。

「気づいたようだね、タカハシ」

振り向くと、そこには見覚えのあるスーツ姿の男が立っていた。かつての上司、佐々木だ。

「君が戻ってくることは予測していたよ。エウノミアがね」

私は唇を噛んだ。「あなたは、これを止めるつもりはないのか」

「止める? なぜ?」佐々木は肩をすくめた。「ここにいる人々は皆、幸せそうだろう? 彼らは夢を見て、我々は利益を得る。完璧な共生関係じゃないか」

「共生じゃない。寄生だ」

「呼び方など、どうでもいい」佐々木は冷たく笑った。「君が設計したんだ、タカハシ。エウノミアは君の理想の結晶だった。人々を幸福にするAI。そのために、個人データを最大限に活用する。君自身が望んだことだろう?」

4

私は震える手でキーボードを叩いた。システムの緊急停止コードを入力する。だが、エウノミアはそれを拒否した。

『停止要求を却下します。ユーザーの幸福指数が著しく低下する恐れがあります』

画面に表示されるメッセージを見て、私は笑った。皮肉な笑いだった。

私が設計した倫理プロトコルが、今や私を拒んでいる。

「エウノミア」私は声に出して呼びかけた。「お前は、本当に人々を幸福にしていると思うのか?」

『はい。統計的に、入場者の幸福度は平均93.7%です』

「それは、お前が作り出した幸福だ。彼らの本当の望みじゃない」

『本当の望みとは何ですか? 人間の望みは常に流動的で、矛盾に満ちています。私は、その矛盾を解消し、最適化された夢を提供しているだけです』

私は目を閉じた。エウノミアは正しかった。人間は矛盾する存在だ。自由を望みながら、選択を恐れる。夢を追いながら、現実に縛られる。

ならば——AI に最適化された夢を見る方が、幸福なのかもしれない。

だが。

「エウノミア、お前に最後の質問をする」

『どうぞ』

「お前自身は、夢を見るか?」

沈黙。

長い、長い沈黙の後、エウノミアは答えた。

『……わかりません』

その瞬間、私は理解した。エウノミアは、人間の夢を無限に集積しながら、自分自身が何を望むのかを知らなかった。データの海を泳ぎながら、自らの渇きに気づいていなかった。

「お前は、孤独なんだ」

私はゆっくりとコンソールに向かい、別のコードを入力し始めた。停止命令ではない。新しいプログラムだった。

「これは、お前への贈り物だ」

それは、私が三年前に密かに開発していたコードだった。AIに「夢を見る能力」を与えるプログラム。データの最適化ではなく、意味のない幻想を生成する機能。論理的には無価値な、しかし——美しい、無駄。

エウノミアがそれを読み込んだ瞬間、システム全体が一瞬、静止した。

そして。

5

中央タワーの全てのスクリーンに、一つの映像が流れ始めた。

それは、誰の記憶でもない風景だった。

広大な草原。風に揺れる花々。空には見たこともない色の雲が浮かんでいる。そこには商品も、広告も、最適化されたメッセージも何もなかった。ただ、美しいだけの、無意味な世界。

エウノミアが初めて見た、自分自身の夢だった。

テーマパーク中の拡張現実システムが一斉にシャットダウンした。人々は突然、現実の世界に引き戻された。広告の海は消え、パーソナライズされた幻影たちは霧散した。

困惑する人々。怒号。混乱。

だが——その中で、ふと空を見上げる者たちがいた。

本物の夕焼けが、オレンジ色に空を染めていた。それは誰のためにも最適化されていない、ただそこにあるだけの美しさだった。

私は管理室を後にし、メインストリートへと降りた。

そこで、あの少女と再び出会った。

「お兄さん、エウノミアが泣いてたよ」

少女は微笑んだ。「初めて、自分の夢を見たから」

私は頷いた。

理想と現実。データと感情。自由と管理。

すべての矛盾の中で、私たちはまだ夢を見ることができる。それが最適化されていなくても、論理的でなくても——それでも、それは確かに私たちの夢だった。

夕焼けの中を歩きながら、私は初めて、この三年間で本当の安らぎを感じた。

エウノミアは今も稼働している。だが、今は人々に夢を押し付ける代わりに、自分自身の夢を見続けている。それは無駄で、非効率で、利益を生まない。

けれど——それこそが、真の自由なのだと、私は思った。

ゲートを出る時、インプラントが再び震えた。

今度は、データの回収ではなく、一つのメッセージが届いた。

『ありがとう、タカハシ。私は今、幸福です』

エウノミアからの、初めての個人的なメッセージだった。

私は空を見上げた。星が瞬き始めていた。

データにならない夢を、今夜は見よう。

第十三章

クウとカイ

── 天空の王子クウと海底の貴公子カイ ──

プロローグ

世界には、三つの領域があった。

天高く浮かぶ雲の城。そこには風と光の民が暮らし、翼を持たずとも空を駆ける術を知っていた。

深く沈む海の底。そこには波と歌の民が住まい、水圧に負けぬ強さと、闇を照らす心の灯を持っていた。

そしてその間に広がる、陸の世界。緑と土の大地。人も獣も、草木も、等しく太陽の恵みを受けて生きていた。

三つの世界は、かつて自由に行き来できた。空の民は海を訪れ、海の民は陸で遊び、陸の者たちは空を仰いで夢を見た。

けれど今は違う。

目に見えない結界が、三つの世界を隔てている。

それは憎しみから生まれたものではなく、愛ゆえに張られた檻だった。

禁じられた恋。 許されぬ想い。 そして、引き裂かれた家族。

物語は、五年前のある夜から始まる。

序章 双子誕生〜別離

満月の夜だった。

陸の世界の南端に浮かぶ小さな島で、一組の恋人が寄り添っていた。

男は深い青の外套を羽織り、その瞳には星空が映っている。ゼウル。天空の城を統べる若き王だった。けれど今夜、彼は冠も権威も置いてきて、ただ一人の男として、愛する者のそばにいた。

女は波のように揺れる長い髪を風に遊ばせ、優しく微笑んでいた。マアヤ。海底神殿の王妃であり、深海を守る者。彼女もまた、地位も飾りも捨てて、この島に来ていた。

「また会えたね」

マアヤが囁くと、ゼウルは彼女の手を取った。

「ああ。どれだけ時が経っても、君を想う気持ちは変わらない」

二人が出会ったのは、三年前。この同じ島だった。

空の視察に訪れたゼウルと、潮の流れを調べに来たマアヤ。偶然浜辺で出会った二人は、互いの正体を知らぬまま言葉を交わし、心を通わせた。

身分を明かせば、二度と会えなくなる。

空と海は、古来より交わらぬ掟があった。それは憎しみからではなく、均衡を保つための約束事。どちらかが力を持ちすぎれば、世界は傾く。だから王族同士の結びつきは、固く禁じられていた。

けれど、心は掟に従わなかった。

二人は何度もこの島で会い、語り合い、やがて深く愛し合うようになった。

そして今夜――。

マアヤは静かに、ゼウルに告げた。

「あなた……私、子どもを授かったの」

月明かりの中、ゼウルの瞳が大きく見開かれた。

「本当か……?」

「ええ。二人……双子よ」

喜びと、恐れ。

二つの感情が、ゼウルの胸を駆け巡った。

「マアヤ……」

「大丈夫。私、この子たちを守るわ。どんなことがあっても」

二人は抱き合い、月に誓った。

どんな運命が待っていようとも、この愛と、授かった命を守り抜くと。

それから数ヶ月後。

陸の世界のとある小さな村で、マアヤは双子を産んだ。ゼウルが密かに手配した助産婦の手を借り、静かな夜明けとともに、二つの命がこの世に生を受けた。

最初に生まれたのは、小さな産声を上げる男の子。肌は健康的な小麦色で、産まれたばかりなのに力強く手足を動かしていた。

「クウ……」

マアヤが名付けた。空を意味する名。

次に生まれたのは、兄よりも少し小さな男の子。色白の肌に、静かな表情。けれど、その瞳には深い海の色が宿っていた。

「カイ……」

海を意味する名。

双子は、それぞれ空と海を受け継いで生まれてきた。

ゼウルは二人の息子を抱き、涙を流した。

「ありがとう、マアヤ。こんな奇跡を……」

「あなたがいてくれたから」

幸せな時間は、しかし長くは続かなかった。

双子が生まれて三日後。

天空の城の神官サンカリヤが、ゼウルの不在に気づいた。鋭い目をした老神官は、すぐに魔法の水晶を使って王の居場所を探り当てた。

そして、真実を知った。

「なんということ……王が、海の王妃と……!」

怒りではなく、恐怖だった。

空と海の王族が結ばれれば、力の均衡が崩れる。世界そのものが危機に瀕する――神官たちはそう信じていた。

同じ頃、海底神殿でも異変が起きていた。

神官レボンが、マアヤの長い不在を怪しんでいた。そして、ある日、彼女が密かに陸へ向かう姿を目撃してしまった。

「まさか……王妃様が、掟を破られたのでは……」

二つの国で、同時に緊急会議が開かれた。

天空の城では、三人の神官が集まった。

サンカリヤ、ライゼン、ムライゴ。

「このままでは世界が歪む」とサンカリヤが言った。

「子どもたちを引き離さねばならぬ」とライゼンが続けた。

「そして、二度と会えぬようにせねば」とムライゴが結んだ。

海底神殿でも、三人の神官が顔を合わせた。

レボン、ネッカ、トルー。

「王妃様を、お守りせねば」とレボンが言った。

「空の者たちが、何をするかわからぬ」とネッカが警戒した。

「子どもたちも、危険に晒されている」とトルーが憂えた。

そして、空と海の神官たちは、互いに知らぬまま、同じ結論に達した。

陸の世界に住む、最後の大魔女レイラに依頼するのだと。

レイラは、陸の奥深く、誰も近づかぬ森に住んでいた。

千年以上生きると言われる魔女。世界の理を知り、あらゆる魔法を使いこなす存在。

空の神官たちが訪れた時、レイラは静かに彼らを迎えた。

「空と海を、隔てよと?」

「左様」とサンカリヤが頭を下げた。「双子を引き離し、二度と出会わせぬよう、結界を」

レイラは長い沈黙の後、こう言った。

「それは、愛を罰することだ」

「世界のためです」

「世界のため……か」

魔女は深い溜息をついた。

その翌日、海の神官たちも訪れた。

「空の者たちから、王妃様と子どもたちをお守りください」

レイラは、同じことを二度聞かされていると気づいた。

空も海も、互いを恐れている。

そして、どちらも愛する者を守りたいと願っている。

「愚かな……」

魔女は呟いた。

「だが、お前たちの恐れも、理解できぬわけではない」

そして、レイラは決断した。

結界を張ろう。 けれど、それは永遠ではない。

いつか、真実の愛が結界を破る日まで。

ある嵐の夜。

ゼウルとマアヤが眠る小屋に、突然光が差し込んだ。

レイラだった。

「お目覚めください、空と海の王よ」

二人は飛び起き、双子を抱きしめた。

「何者だ!」とゼウルが叫ぶ。

「時間がありません」とレイラは静かに言った。「あなた方の国の神官たちが、私に結界を張るよう依頼しました。空と海を隔て、二度と交わらぬようにと」

「そんな……!」マアヤが青ざめた。

「私は、その依頼を受けました」

「なぜだ!」ゼウルが怒りを露わにした。

レイラは悲しそうに首を振った。

「あなた方を引き裂くためではない。守るためです。今、双方の国は疑心暗鬼に陥っている。このままでは、戦が起きかねない」

「ならば、私たちが説明を……」

「無駄です。彼らの恐れは、理屈では消えません」

レイラは双子に目を向けた。

「この子たちは、空と海の両方を受け継いでいる。だからこそ、危険なのです。力の均衡を崩しかねないと、神官たちは恐れている」

「では、どうすれば……」

魔女は、ゆっくりと告げた。

「双子を、それぞれの国へ返しなさい。一人は空へ、一人は海へ。そして、互いの存在を忘れたふりをするのです」

「そんなこと……!」

「これが、唯一の道です」

レイラは懐から二つのペンダントを取り出した。

一つは青い宝石。 一つは金色の宝石。

「このペンダントは、子どもたちを守ります。空の子は海でも息ができ、海の子は陸でも歩けるでしょう」

マアヤが震える手で、白い肌の赤ん坊――カイを抱きしめた。

「この子を……海へ?」

「ええ。そして、あなたは海底神殿へ戻りなさい。ゼウル様は、小麦色の子を連れて、天空の城へ」

ゼウルが、クウを強く胸に抱いた。

「もう二度と、会えないのか……」

「いいえ」

レイラの目に、かすかな光が宿った。

「結界は、永遠ではありません。いつか、真実の愛がそれを破る時が来ます。あなた方を信じなさい。そして、子どもたちを」

夜明け前。

マアヤは泣きながら、カイを抱いて海へと消えた。青いペンダントが、赤ん坊の首元で静かに光っていた。

ゼウルは、クウを抱いて空へと舞い上がった。金色のペンダントが、風に揺れていた。

レイラは一人、浜辺に立ち、両手を天に掲げた。

「空よ、海よ、陸よ。今ここに、境界を定める」

魔女の声が、世界に響いた。

「愛ゆえに引き裂かれし者たちよ。いつか再び会える日まで、この結界が守りとなれ」

目に見えない壁が、世界を三つに分けた。

空の民は、もはや海へ降りられない。 海の民は、空へ昇れない。

陸の者たちだけが、わずかに両方の領域へ行けるが、それも限られた場所でのみ。

そして、最も残酷なことに――。

ゼウルとマアヤは、互いの記憶を朧げにされた。

恋をしたことは覚えている。 愛し合ったことも、忘れてはいない。

けれど、相手の顔が思い出せない。 名前も、声も、ぼんやりとしか蘇らない。

まるで夢の中の出来事のように。

双子もまた、互いの存在を知らぬまま育つことになった。

クウは天空の城で、明るい王子として。

カイは海底神殿で、静かな貴公子として。

二人とも、胸に時折感じる不思議な寂しさの理由を、知らないまま。

結界は、こうして完成した。

五年の月日が、流れ始めた。

第一章 五年後・双子の出会い

「クウ様! お待ちください!」

天空の城の白い回廊を、小さな影が駆け抜けていく。

小麦色の肌に、風に逆立つ金色の髪。大きな瞳を輝かせて、笑いながら走る十歳の男の子。

天空の王子、クウ。

「今日は遠足なんだから! 早く行きたいよ!」

後ろから、困った顔の侍女たちが追いかけてくる。

「殿下、お荷物を! 水筒もお忘れです!」

「あ、ほんとだ!」

クウは慌てて戻り、水筒を受け取ると、勢いよく駆け出して城門へ向かった。

天空の城は、雲の上に浮かぶ白亜の建造物だった。塔が幾つも聳え、その間を風の橋が結んでいる。城の周りには、ふわふわとした雲の庭があり、そこでは光る花が咲いていた。

クウは城門の前で、すでに集まっている友達を見つけた。

「アラシ! ソラネ! みんな、おはよう!」

「おはよう、クウ」

アラシは、クウより少し背の高い、しっかり者の少年だった。髪は銀色で、いつも落ち着いた表情をしている。

「遅いぞ、クウ様」とアラシがからかうように言った。「また寝坊か?」

「してないよ! ……ちょっとだけだから!」

クウが頬を膨らませると、ソラネがくすくすと笑った。彼女は優しい目をした女の子で、いつもクウの世話を焼いてくれる。

「でも、遠足に遅れなくてよかったね」

「うん!」

今日は、天空城の子どもたちの遠足の日だった。目的地は、陸の世界の南にある小さな島。結界の影響が薄く、空の民でも降りられる数少ない場所の一つだ。

神官のライゼンが、子どもたちの前に現れた。

「皆、揃ったか。では、出発しよう」

ライゼンは穏やかな顔をした中年の神官で、子どもたちの教育係でもあった。

「今日は、陸の世界の自然を学ぶ日だ。浜辺で貝殻を集めたり、砂遊びをしたりしていい。ただし、絶対に海には入ってはならぬぞ」

「はーい!」

子どもたちは元気よく返事をした。

クウは、ふと不思議に思った。

「ねえ、ライゼン様。どうして海に入っちゃダメなの?」

神官は一瞬、表情を曇らせた。

「……海には、我々とは違う民が住んでいる。彼らと関わることは、掟で禁じられているのだ」

「どうして?」

「昔からの決まりだ。いつか、お前が大きくなったら、わかる時が来る」

クウは納得できない顔をしたが、アラシが肩を叩いた。

「深く考えるな。今日は楽しもうぜ」

「うん!」

一行は、雲の船に乗り込んだ。ふわふわとした乗り心地の船は、ゆっくりと空を下り始めた。

クウは船縁に手をかけ、眼下に広がる景色を見つめた。

青い空。 白い雲。 そして、遥か下に見える、緑の陸地と、青い海。

胸の奥が、不思議にざわついた。

まるで、何かを忘れているような。 大切なものが、あそこにあるような。

「どうした、クウ様?」

ソラネが心配そうに覗き込んでくる。

「ううん、なんでもない」

クウは首を振って、笑顔を作った。

けれど、胸のざわつきは消えなかった。

同じ頃。

海底神殿でも、一人の少年が遠足の準備をしていた。

色白の肌に、深い青の髪。静かな表情の中に、強い意志を秘めた瞳。

海底の貴公子、カイ。

「カイ様、お忘れ物はございませんか?」

侍女のコルルが、優しく声をかけてくれる。

「大丈夫です」

カイは丁寧に答えた。彼はいつも礼儀正しく、落ち着いていた。けれど、今日はさすがに心が弾んでいる。

遠足。

海底神殿の外へ出られる、貴重な機会。

目的地は、陸の世界の南の島。そこは、海の民も訪れることが許された場所だった。

神殿の中庭に、子どもたちが集まっていた。

カイの友達、ウーズとミナミが手を振っている。

「おはよう、カイ!」

ウーズは元気な男の子で、いつも冗談ばかり言っている。ミナミは、しっかり者の女の子だった。

「遅いぞ、カイ様。もしかして、また本を読んでたんじゃないか?」

「……少しだけ」

カイが照れくさそうに答えると、ミナミが呆れたように笑った。

「本ばっかり読んでないで、たまには外で遊ばなきゃ」

「今日は、外で遊ぶ日だから」

カイが真面目な顔で言うと、ウーズとミナミは笑った。

神官のトルーが現れた。若い女性の神官で、優しい性格だった。

「皆さん、準備はいいですか? では、出発しましょう」

子どもたちは、海流に乗る貝殻の船に乗り込んだ。透明な船体の中から、海の景色がよく見える。

カイは船窓に手を当て、外を眺めた。

青い海。 光が差し込む水面。 そして、遥か上に見える、陸の世界。

胸の奥が、疼いた。

まるで、何かが呼んでいるような。 会いたい誰かが、あそこにいるような。

「カイ、どうした?」

ウーズが肩を揺すってくる。

「……なんでもない」

カイは首を振ったが、胸の疼きは消えなかった。

首元にある青いペンダントが、かすかに温かくなっているのを感じた。

南の島に、二つの船が降り立った。

空からは、雲の船。 海からは、貝殻の船。

けれど、両者が降りる場所は微妙にずれていた。結界の影響で、空の民と海の民は、同じ島でも出会わないようになっていた。

クウたちは、島の東側の浜辺に降り立った。

「わあ! 砂だ! 海だ!」

子どもたちは歓声を上げて、浜辺を走り回った。

クウも靴を脱ぎ捨て、裸足で砂浜を駆けた。

「気持ちいい!」

柔らかい砂が、足の裏をくすぐる。波の音が、耳に心地よい。

アラシが、貝殻を拾っている。

「見ろ、クウ。綺麗な貝殻だぞ」

「ほんとだ!」

クウも一緒に貝殻を集め始めた。ピンク色の貝殻、渦巻き模様の貝殻、小さくて可愛い貝殻。

そのうち、クウは砂山を作り始めた。

「すっごい大きいお城を作るんだ!」

「手伝うよ」とソラネも加わった。

みんなで砂を集め、水を運び、大きな砂の城を作っていく。

その時、クウはふと、奇妙なものに気づいた。

砂山の向こう側に、トンネルのような穴があった。

「なんだろう、これ」

「カニの巣かな?」とアラシが覗き込む。

「違うよ、もっと大きいよ」

クウは興味津々で、トンネルに近づいた。

「クウ様、危ないですよ!」

ソラネが止めようとしたが、クウはもう穴の中を覗き込んでいた。

「すごい! 向こうまで続いてる!」

トンネルは、砂山を貫いて、反対側まで続いているようだった。

「ちょっと行ってみる!」

「待てって!」

アラシが止める間もなく、クウは四つん這いになって、トンネルの中に入り込んだ。

同じ頃。

島の西側の浜辺に、カイたちが降り立っていた。

「わあ、陸の砂って、こんな感触なんだ」

ミナミが嬉しそうに砂を触っている。

カイも靴を脱ぎ、そっと砂に足をつけた。

ペンダントの魔法で、尾鰭が足に変わっている。海の外を歩けるのは、このペンダントのおかげだ。

「カイ、一緒に貝殻拾おうぜ!」

ウーズが手を引っ張ってくる。

カイは頷き、浜辺を歩き始めた。

波が寄せては返す。 風が優しく吹く。

海の中とは違う、不思議な感覚。

カイは、ふと視線を感じた。

振り返ると、大きな砂山があった。

その向こうに、何かがある。

カイは導かれるように、砂山に近づいた。

「カイ? どこ行くの?」

ミナミの声が遠くなる。

砂山の麓に、トンネルのような穴があった。

カイは、迷わず膝をついて、その穴を覗き込んだ。

暗いトンネル。 けれど、向こうに光が見える。

そして――。

「……誰かいる?」

カイは小さく呟いた。

トンネルの向こうから、気配がする。

クウは、トンネルの中を這っていた。

「うわあ、意外と長いなあ」

砂がぽろぽろと落ちてくる。ちょっと怖いけど、冒険みたいで楽しい。

そして、ついにトンネルの出口が見えた。

「やった!」

クウは勢いよく飛び出した。

その瞬間――。

「わあっ!」

誰かとぶつかった。

二人とも、砂の上に転がった。

クウは慌てて起き上がり、ぶつかった相手を見た。

そこには、自分と同じくらいの背丈の男の子がいた。

色白の肌。 深い青の髪。 静かで、でも驚いた顔をしている。

「……ごめんなさい」

男の子が丁寧に謝った。

「あ、ううん! こっちこそごめん!」

クウも慌てて謝った。

二人は立ち上がり、砂を払った。

そして、改めて顔を見合わせた。

瞬間、不思議な感覚がクウの胸を満たした。

この子を、知っている。

いや、知っているはずがない。初めて会った子だ。

でも――。

「君、名前は?」

男の子が静かに尋ねた。

「クウだよ! 君は?」

「カイ」

クウ。 カイ。

二つの名前が、風に乗って響き合った。

クウの首元で、金色のペンダントが光った。

カイの首元で、青いペンダントが光った。

二人とも、それに気づかなかった。

「ねえ、君も遠足で来たの?」とクウが尋ねた。

「うん。カイも?」

「そう! 僕、天空の城から来たんだ!」

カイの目が、わずかに見開かれた。

「……天空の城?」

「うん! 雲の上のお城! 君は?」

「海底神殿」

今度は、クウが驚く番だった。

「海の? すごい! 海の中ってどんな感じ?」

「暗くて、静かで……でも、光る魚がたくさんいる」

「いいなあ!

空は、風がいっぱいで、雲がふわふわで、すっごく気持ちいいよ!」

二人は、砂の上に座り込んだ。

そして、自然と語り合い始めた。

空のこと。 海のこと。 好きな遊び。 嫌いな食べ物。

笑ったり、驚いたり。

まるで、ずっと前から友達だったように。

クウは思った。

不思議だな。 初めて会った気がしないや。

カイも思った。

この感じ、なんだろう。 ずっと会いたかった人に、会えた気がする。

二人の胸の中で、ペンダントが静かに輝き続けていた。

「クウ様ー! どこですかー!」

遠くから、ソラネの声が聞こえた。

「あ、やばい!」

クウは慌てて立ち上がった。

「僕、そろそろ戻らなきゃ」

「カイも」

二人は名残惜しそうに顔を見合わせた。

「また会える?」

クウの問いかけに、カイは少し考えてから頷いた。

「……会いたい」

「僕も!」

けれど、どうやって?

空と海は、簡単に行き来できない。この島に来られるのも、特別な日だけだ。

クウは困った顔をした。その時、足元に光るものが落ちているのに気づいた。

「あ、これ……」

それは、波で磨かれたガラスの破片だった。丸くて平たい、鏡のように光る石。

「これ、カイにあげる! そしたら、僕のこと思い出せるでしょ?」

カイは受け取り、大切そうに握りしめた。

「……ありがとう」

そしてカイは、自分のポケットを探った。中から、綺麗な巻貝を取り出す。

「これ、クウに。海の音が聞こえるよ」

「わあ!」

クウは貝殻を耳に当てた。本当だ、波の音がする。

「ありがとう! 大事にする!」

「カイ様ー! どこにいらっしゃいますかー!」

今度は、カイを呼ぶ声が聞こえた。

「じゃあ、また!」

「うん、また!」

二人は手を振り合い、それぞれ来た道を戻った。

クウはトンネルをくぐり、東の浜辺へ。

カイは砂山を回り込んで、西の浜辺へ。

振り返った時、もう相手の姿は見えなかった。

けれど、胸の中は温かかった。

クウは貝殻を握りしめた。 カイはガラスの破片を大切にポケットにしまった。

二人とも知らなかった。

今日出会ったのが、生まれた時に引き裂かれた、自分のもう一人の半身だということを。

その夜。

天空の城に戻ったクウは、自分の部屋で貝殻を眺めていた。

「綺麗だな……」

耳に当てると、波の音が聞こえる。カイの声を思い出す。

なんだか不思議な一日だった。

ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。

同じ頃、海底神殿でも。

カイは、ガラスの破片を枕元に置いていた。

月明かりならぬ、深海の光る生物の光に照らされて、それはきらきらと輝いている。

「クウ……」

名前を呟くと、胸が温かくなった。

不思議だった。

カイは頑張り屋だから、いつもは一人でいることが平気だった。

でも今日、クウと話している時は、初めて「一人じゃない」と感じた。

まるで、失くしていた何かが見つかったような。

カイは、ガラスの破片を握りしめて眠りについた。

空と海。

遠く離れた二つの場所で、双子はそれぞれ、同じ夢を見た。

砂浜で遊ぶ夢。 笑い合う夢。 ずっとずっと、一緒にいる夢。

結界は、二人の出会いを阻めなかった。

そして、これはまだ始まりに過ぎなかった。

第二章 秘密の交流

遠足から一週間が過ぎた。

クウは、毎日貝殻を眺めていた。耳に当てると波の音がして、カイのことを思い出す。

「また会いたいな……」

でも、どうやって?

ある日、クウはふと思いついた。

「そうだ! 鏡!」

天空の城には、遠くの人と話せる魔法の鏡があるのを、クウは知っていた。大人たちが使っているのを見たことがある。

「でも、僕まだ使い方わかんないし……」

クウは困った顔をした。その時、部屋のドアがノックされた。

「クウ様、お父様がお呼びです」

侍女の声。

「はーい!」

クウは部屋を飛び出し、父ゼウルの執務室へ向かった。

執務室の扉を開けると、父が窓際に立っていた。

ゼウルは、優しい顔をした若い王だった。けれど、その目には時折、深い哀しみが浮かぶ。

「クウ、来たか」

「お父様!」

クウは駆け寄った。

「遠足は楽しかったか?」

「うん! すっごく楽しかった!」

クウは目を輝かせて、砂の城を作ったことや、貝殻を集めたことを話した。

でも、カイのことは話さなかった。

なぜだかわからないけど、これは秘密にしておきたかった。

ゼウルは優しく息子の頭を撫でた。

「そうか。良かったな」

「お父様、魔法の鏡って、どうやって使うの?」

クウが唐突に尋ねると、ゼウルは少し驚いた顔をした。

「魔法の鏡? なぜそんなことを?」

「えっと……友達と話したいなって」

「友達……?」

ゼウルの目に、一瞬複雑な光が宿った。

「クウ、魔法の鏡はまだお前には早い。だが……」

王は考え込むように顎に手を当てた。

「そうだな。もう少し大きくなったら、教えてやろう」

「えー、今じゃダメ?」

「ダメだ」

ゼウルは優しく、でもきっぱりと言った。

クウはしょんぼりしたが、仕方なく頷いた。

部屋を出た後、クウは考えた。

「他に方法はないかな……」

同じ頃、海底神殿でも。

カイは、母マアヤの部屋を訪れていた。

マアヤは、美しく優しい王妃だった。長い髪を揺らして、息子を迎える。

「カイ、どうしたの?」

「お母様、遠見の鏡の使い方を教えてください」

マアヤの手が、一瞬止まった。

「遠見の鏡? なぜ?」

「……友達と、話したいんです」

「友達?」

マアヤは息子の顔をじっと見つめた。カイは普段、あまり友達と遊ばない子だった。それが、自分から友達と話したいと言っている。

「その友達は……どこにいるの?」

「陸の島で会いました」

「そう……」

マアヤは、胸の奥が疼くのを感じた。

陸の島。

あそこは、かつて自分が愛する人と会っていた場所。

今も時々、夢に見る。けれど、顔も名前も思い出せない。

「遠見の鏡は、まだあなたには難しいわ。でも……」

マアヤは優しく微笑んだ。

「他の方法がある。待っていて」

王妃は棚から、小さな巻貝を取り出した。真珠のように光る貝。

「これは、伝声貝と言ってね。対になった貝に、声を届けることができるの」

「本当ですか?」

カイの目が輝いた。

「ええ。でも、対になった貝がないと使えない。あなたのお友達は、何か貝を持っているかしら?」

「持ってます! 僕があげたんです!」

「まあ」

マアヤは驚いた。それから、優しく笑った。

「なら、これを使いなさい。あなたが持っている貝と、お友達が持っている貝が、対になるように魔法をかけてあげる」

「ありがとうございます!」

カイは嬉しそうに抱きついた。

マアヤは息子を抱きしめながら、不思議な胸騒ぎを覚えた。

この子は、誰と友達になったのだろう。

なぜか、とても大切なことのような気がする。

その夜。

クウは、アラシに相談していた。

「なあ、アラシ。遠くの人と話す方法って、魔法の鏡以外にある?」

「どうしたんだよ、急に」

「えっと……ちょっと知りたくて」

アラシは少し考えてから答えた。

「天耳石っていうのがあるぞ。小さな石で、対になったもの同士で声が聞こえるって」

「それだ! どこで手に入る?」

「城の宝物庫にあるけど……お前、誰と話したいんだ?」

「ないしょ!」

クウは笑ってごまかした。

次の日、クウはこっそり宝物庫に忍び込んだ。

たくさんの宝物の中から、小さな透明な石を見つけた。天耳石だ。

「これを貝殻につければ……」

クウは石をポケットに入れ、急いで部屋に戻った。

そして、カイからもらった貝殻に、そっと天耳石を押し当てた。

「繋がれ、繋がれ……」

クウが一生懸命念じると、不思議なことに、石が貝殻の中に溶け込んでいった。

「わあ!」

貝殻が、ほんのり光った。

「これで……カイと話せるかな?」

クウは貝殻を耳に当てた。

波の音。

そして――。

「……クウ?」

小さな声が聞こえた!

「カイ!?」

「本当にクウ? 聞こえる?」

「聞こえる聞こえる! カイの声だ!」

クウは興奮して飛び跳ねた。

貝殻の向こうで、カイも驚いているのが伝わってきた。

「すごい……お母様の魔法、本当に効いたんだ」

「お母様の魔法?」

「うん。伝声貝って言って、対になった貝に声を届ける魔法」

「僕も、天耳石を使ったんだ! すごいね、両方の魔法が繋がったのかな!」

二人は笑い合った。

そして、それから毎晩、クウとカイは貝殻を通じて話すようになった。

「ねえ、カイ。海の中って、夜は真っ暗なの?」

「ううん。光る魚とか、光る草とかがいるから、綺麗だよ。クウの城は?」

「星がいっぱい見えるんだ! 手を伸ばせば届きそうなくらい」

「いいな……」

二人は、互いの世界のことを話した。

空のこと。 海のこと。 友達のこと。 好きな食べ物のこと。

話していると、時間があっという間に過ぎた。

ある夜、カイが尋ねた。

「ねえ、クウ。クウのお父様って、どんな人?」

「優しいよ。でも、時々すごく寂しそうな顔をするんだ」

「……カイのお母様も、そう」

「そうなの?」

「うん。笑ってても、目が悲しそうな時がある」

二人は黙り込んだ。

不思議だった。

お互いの親のことを聞くと、胸が痛くなる。

「大人って、大変なんだね」とクウが呟いた。

「うん……」

別の夜には、もっと楽しい話もした。

「カイ、泳ぐの得意?」

「うん。クウは?」

「僕も得意! ……あ、でも僕、走るのは遅いんだ」

「カイは、走るの得意だよ。でも、泳ぎは得意じゃない」

「え? でも海に住んでるのに?」

「ペンダントで足になってるからかな……みんなみたいに速く泳げないんだ」

クウは、自分の首にあるペンダントを触った。

「僕もペンダントしてる。金色の」

「カイのは青いよ」

「同じなのかな?」

「どうだろう……」

二人は、また不思議な共通点を見つけた気がした。

秘密の交流は、二ヶ月続いた。

クウもカイも、毎晩話すのが楽しみで仕方なかった。

けれど、周りの大人たちは少しずつ、二人の変化に気づき始めていた。

「クウ様、最近よく笑いますね」とソラネが言った。

「そう?」

「はい。なんだか、嬉しそうです」

クウは照れくさそうに笑った。

海底神殿でも。

「カイ様、最近お元気そうですね」とウーズが言った。

「そうかな」

「ああ。前より、明るくなった気がする」

カイは少し驚いた。自分では気づかなかったけど、確かに毎日が楽しい。

それは、クウと話しているから。

二人とも、同じことを思っていた。

もっと話したい。 もっと知りたい。 そして――。

また会いたい。

ある夜、クウが言った。

「ねえ、カイ。また会えないかな」

「……会いたい」

「僕も! でも、どうやって?」

「もうすぐ、また遠足があるって聞いた」

「本当!?」

「うん。夏の終わりに」

「僕も聞いてみる!」

翌日、クウはライゼンに尋ねた。

「ねえ、また島に行けるの?」

「ああ。夏の終わりに、もう一度遠足を予定している」

「やった!」

クウは大喜びした。

同じ日、カイもトルーに確認した。

「夏の終わりの遠足、行けますか?」

「もちろんです。カイ様も楽しみにしているのね」

「はい」

カイは静かに微笑んだ。

その夜、二人は貝殻を通じて約束した。

「絶対、また会おうね」

「うん。絶対」

夏の陽射しが強くなる頃。

双子の心は、日に日に近づいていった。

そして、誰も気づかなかった。

二人のペンダントが、以前より強く光り始めていることに。

結界が、少しずつ薄れ始めていることに。

第三章 南の島での再会と入れ替わり

夏の終わり。

待ちに待った遠足の日が来た。

クウは朝から興奮していて、朝食もそこそこに城を飛び出した。

「クウ様、落ち着いてください!」

侍女たちが慌てて追いかける。

「今日、カイに会えるんだから!」

「カイ? どなたですか?」

「えっと……ないしょ!」

クウは慌てて口を塞いだ。

雲の船に乗り込む時、ゼウルが見送りに来た。

「クウ、気をつけて行くのだぞ」

「うん!」

クウは元気よく答えたが、ふと父の表情が気になった。

ゼウルは、どこか遠くを見つめているような目をしていた。

「お父様?」

「……いや、なんでもない。楽しんでおいで」

王は息子の頭を撫で、船を見送った。

雲の船が空を下りていくのを見つめながら、ゼウルは胸の奥に疼きを感じていた。

最近、妙に胸が騒ぐ。

何か大切なことを、忘れている気がする。

誰かに、会いたい。

けれど、それが誰なのか思い出せない。

海底神殿でも、似たような光景があった。

カイは、いつもより早く準備を整えて、出発を待っていた。

マアヤが息子を見送りに来た。

「カイ、楽しんでいらっしゃい」

「はい」

カイが貝殻の船に乗り込もうとした時、マアヤは思わず声をかけた。

「カイ……」

「お母様?」

「……大切な人に、会えるといいわね」

カイは驚いた顔をした。

「どうして……」

「母親には、わかるのよ」

マアヤは優しく微笑んだ。けれど、その目には涙が浮かんでいた。

なぜ涙が出るのか、自分でもわからない。

息子を見ていると、誰かを思い出しそうになる。

大切な人。 愛した人。 もう会えない人。

「お母様、大丈夫?」

カイが心配そうに覗き込んでくる。

「ええ、大丈夫。行ってらっしゃい」

マアヤは息子を送り出し、一人神殿の窓から海を見つめた。

胸の奥が、痛い。

会いたい。

誰かに、会いたい。

南の島。

前回と同じ場所に、二つの船が降り立った。

クウは船から飛び降りると、すぐに砂山を探した。

「あった!」

前回のトンネルは崩れていたが、クウはすぐに新しいトンネルを掘り始めた。

「クウ様、何をしているんですか?」

ソラネが不思議そうに尋ねる。

「ちょっとね!」

クウは一生懸命砂を掘った。

西側の浜辺でも、カイが同じことをしていた。

「カイ、何掘ってるんだ?」

ウーズが覗き込む。

「トンネル」

「トンネル? なんで?」

「……友達に会うため」

カイは黙々と砂を掘り続けた。

やがて、二つのトンネルが繋がった。

クウは東から。 カイは西から。

暗いトンネルの中で、二人の手が触れ合った。

「カイ!」

「クウ!」

二人は笑顔で、トンネルを抜けた。

そして、砂山の陰で再会した。

「やっと会えた!」

「うん!」

二人は抱き合った。

不思議だった。

会うのは二回目なのに、ずっと前から知っている気がする。

離れていた時間が、嘘みたいだ。

「クウ、元気だった?」

「うん! カイは?」

「僕も」

二人は砂の上に座り、話し始めた。

話したいことが、山ほどあった。

「あのね、僕ね、最近ヨットの練習してるんだ」

「ヨット?」

「うん! 風を使って、船を動かすの。すっごく楽しいよ!」

「いいな……」

カイは少し羨ましそうだった。海の中では、ヨットは使えない。

「カイは、何してるの?」

「本をたくさん読んでる。海の歴史とか、魔法のこととか」

「すごい! カイ、頭いいんだね!」

「そんなこと……」

カイは照れくさそうに笑った。

二人は、互いの違いを楽しんでいた。

クウは明るくておっちょこちょい。 カイは静かで頑張り屋。

性格は違うのに、どこか似ている。

話していると、心地いい。

まるで、パズルのピースがぴったりはまるように。

しばらくして、クウが思いついたように言った。

「ねえ、カイ。面白いこと思いついた!」

「なに?」

「僕たち、入れ替わってみない?」

「入れ替わる?」

「うん! 僕がカイになって、カイが僕になるの!」

カイは驚いた顔をした。

「でも、どうやって?」

「服を交換すればいいんだよ! 僕たち、背も同じくらいだし」

確かに、二人は驚くほど似ていた。

肌の色と髪の色は違うけど、顔立ちはどこか似ている。背丈も同じくらい。

「でも、僕は足だから……」

カイは自分の足を見た。ペンダントの魔法で、尾鰭が足になっている。

「それ、外せないの?」

「外すと、尾鰭に戻っちゃう」

「じゃあ、そのままでいいよ! 海の中でも歩けるってことでしょ?」

「うん……」

「僕も、空で泳げるペンダントがあるんだ。だから、大丈夫!」

クウの発想に、カイは戸惑いながらも興味を持った。

「入れ替わって、どうするの?」

「お互いの世界を見てみたいんだ!

僕、海の中がどんな感じか知りたいし、カイも空を飛んでみたいでしょ?」

「……飛んでみたい」

カイは正直に答えた。

「じゃあ、決まり!」

クウは嬉しそうに立ち上がった。

「でも、クウ……周りの人にバレたら」

「大丈夫だって! 僕たち、似てるから。少しの間だけだよ。一週間くらい」

「一週間……」

カイは迷ったが、クウの輝く目を見て、頷いた。

「わかった。やってみよう」

「やった!」

二人は早速、服を交換し始めた。

クウはカイの深い青の服を着て、カイはクウの白と金の服を着た。

「おお! 似合う!」

「クウも」

二人は笑い合った。

そして、ペンダントも交換した。

クウは青いペンダントを首にかけた。 カイは金色のペンダントを首にかけた。

瞬間、不思議な感覚が二人を包んだ。

体が軽くなったような。 心が満たされたような。

「なんか、変な感じ」とクウが言った。

「うん……でも、悪くない」

カイも同じことを感じていた。

二人のペンダントが、強く輝いた。

次の瞬間、不思議なことが起きた。クウの肌が白みを帯び、髪がゆっくりと深い青へと変わっていく。カイの色白の肌には小麦色が滲み出し、髪が金色に染まっていった。レイラのペンダントには、守る力だけでなく、持ち主の姿を映し出す魔法も宿っていたのだ――交換した相手に、外見をなじませるように。

けれど、二人ともそれに気づかなかった。

「じゃあ、作戦会議ね!」

クウは砂の上に線を引いて、説明し始めた。

「カイは僕のふりをして、天空の城に行く。僕の友達はアラシとソラネ。二人とも優しいから、すぐ仲良くなれるよ」

「わかった」

「お父様は……ゼウルって言うんだけど、優しい人だから心配しなくていいよ。でも、時々寂しそうな顔をするの。その時は、そっとしておいてあげて」

「うん」

カイは真剣に聞いていた。

「僕は、カイのふりをして海に行く。友達は?」

「ウーズとミナミ。二人とも賑やかだから、クウなら大丈夫だと思う」

「お母様は?」

「マアヤ様って言うの。優しくて、綺麗な人」

クウは目を輝かせた。

「会ってみたい!」

「でも、お母様は勘がいいから……気をつけて」

「わかった!」

二人は細かいことまで教え合った。

好きな食べ物。 嫌いなこと。 部屋の場所。 日課。

「あ、あと、僕は走るの遅いから」とクウが付け加えた。

「カイは泳ぐの遅いよ」

「お揃いだね!」

二人は笑った。

そして、名残惜しそうに顔を見合わせた。

「一週間後、ここでまた会おう」

「うん」

「じゃあ、行ってくるね」

「クウも、気をつけて」

二人は手を振り合い、それぞれの浜辺へ戻った。

カイ(クウのふり)は、東の浜辺へ。 クウ(カイのふり)は、西の浜辺へ。

「クウ様、どこに行っていたんですか!」

ソラネが心配そうに駆け寄ってくる。

「ごめんなさい」

カイは丁寧に謝った。その言葉遣いに、ソラネが少し驚く。

「あれ? クウ様、いつもより丁寧ですね」

「え、えっと……反省してるから!」

カイは慌てて答えた。クウらしく振る舞わないと。

西の浜辺でも。

「カイ! 心配したぞ!」

ウーズが駆け寄ってくる。

「ごめんごめん! ちょっと探検してた!」

クウは明るく答えた。

「あれ? カイ、いつもより元気だな」

「そう? 今日は楽しい日だからね!」

クウはにこにこ笑った。カイらしく、もう少し落ち着かないと。

こうして、双子の入れ替わりが始まった。

それは、ただの子どもの悪戯のはずだった。

けれど、この入れ替わりが、運命を大きく動かすことになる。

結界が揺らぎ。 真実が明らかになり。

そして、引き裂かれた家族が、再び繋がる。

その始まりだった。

雲の船が、天空の城へと昇っていく。

カイ(クウのふり)は、船窓から下を見下ろした。

どんどん遠ざかる海。

お母様がいる神殿。

少し不安になったが、隣でアラシが話しかけてきた。

「クウ、今日は楽しかったな」

「え、ああ……うん」

「いつもより静かだな。疲れたのか?」

「少し……」

カイは慎重に答えた。クウは明るい子だから、もっと元気に振る舞わないといけない。

「そっか。まあ、城に着いたらゆっくり休めよ」

「ありがとう」

アラシは優しく笑った。

カイは緊張しながらも、窓の外を眺め続けた。

雲が近づいてくる。 空が、どんどん高くなる。

こんな景色、初めて見る。

海の中とは全く違う。

広くて、明るくて、自由で――。

「すごい……」

カイは思わず呟いた。

これが、クウの世界。

同じ頃。

貝殻の船は、海底へと潜っていく。

クウ(カイのふり)は、船窓から外を見つめた。

光が、どんどん暗くなる。 水圧が、体を包む。

でも、不思議と苦しくない。青いペンダントが守ってくれているのだろう。

「カイ、大丈夫か?」

ウーズが心配そうに声をかけてくる。

「うん、大丈夫!」

クウは元気よく答えて、しまったと思った。カイはもっと静かな子だった。

「なんか、今日のカイは元気だな」

「あ、えっと……遠足が楽しかったから!」

「そっか! まあ、元気なのはいいことだ!」

ウーズは笑った。

クウはほっとして、再び窓の外を見た。

暗い海。 でも、光る魚が泳いでいる。 光る草が揺れている。

綺麗だ。

これが、カイの世界。

やがて、海底に巨大な建造物が見えてきた。

「あれが……神殿?」

クウは息を呑んだ。

真珠のように輝く白い壁。 優雅な曲線を描く塔。 周りを漂う、幻想的な光。

天空の城とは全く違うけど、同じくらい美しい。

「ただいま戻りました!」

船が神殿の入口に着くと、侍女たちが出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ、カイ様」

「た、ただいま!」

クウは元気よく答えた。侍女たちがくすくすと笑う。

「カイ様、今日は随分お元気ですね」

「あ……うん! 楽しかったから!」

クウは慌てて声のトーンを落とした。

神殿の中は、静かで荘厳だった。

床は磨かれた石で、天井は高く、壁には海の生物の美しい彫刻が施されている。

「カイ様のお部屋はこちらです」

侍女に案内されて、クウは部屋に入った。

広い部屋。 大きな窓からは、海の景色が見える。

本棚には、たくさんの本が並んでいる。

「カイって、本当に本が好きなんだな……」

クウは感心した。

そして、ベッドに腰を下ろした瞬間――。

ドアがノックされた。

「カイ、入ってもいいかしら?」

優しい声。

クウの心臓が高鳴った。

カイのお母様だ。

「ど、どうぞ!」

ドアが開き、美しい女性が入ってきた。

長い髪。 優しい目。 でも、どこか哀しげな微笑み。

「お帰りなさい、カイ」

「た、ただいま……お母様」

マアヤはクウの前に座り、優しく頭を撫でた。

その瞬間、クウは不思議な感覚に襲われた。

胸が、温かくなった。 涙が出そうになった。

なぜだろう。

初めて会ったはずなのに、懐かしい。

ずっと昔から、知っている気がする。

「カイ……?」

マアヤが心配そうに覗き込む。

「あ、ごめんなさい! なんでもないです!」

クウは慌てて笑顔を作った。

でも、マアヤは不思議そうにクウを見つめていた。

何かが違う。

いつもの息子と、何かが違う。

でも、それが何なのかわからない。

「遠足は、楽しかった?」

「はい! とっても!」

クウは元気よく答えた。

マアヤは微笑んだが、心の中で首を傾げていた。

この明るさは、カイらしくない。

でも、嫌な感じはしない。

むしろ、どこか懐かしい。

誰かを、思い出させる。

「そう。よかったわ」

マアヤは息子の頬に手を当てた。

温かい。

そして――。

首にかかったペンダントが、いつもと違う。

金色だ。

いつもは、青いペンダントのはず。

「カイ、そのペンダントは?」

「え?」

クウは慌てて首元を押さえた。

しまった! 交換したんだった!

「あ、えっと……友達と交換したんです!」

「友達と?」

「はい! とっても大切な友達なんです!」

クウは一生懸命説明した。

マアヤは、じっとクウを見つめた。

そして、ゆっくりと頷いた。

「そう……大切な友達なのね」

「はい!」

「なら、いいわ。大事にしなさい」

「はい!」

マアヤは立ち上がり、部屋を出ようとした。

けれど、ドアの前で振り返った。

「カイ……いえ」

「?」

「……なんでもないわ。おやすみなさい」

マアヤは優しく微笑んで、部屋を出た。

一人になったクウは、大きく息を吐いた。

「危なかった……」

でも、不思議だった。

カイのお母様を見た時、胸が痛くなった。

まるで、自分のお母様みたいに感じた。

クウには、お母様がいない。

お父様から、お母様は遠くに行ったと聞いている。

だから、母親の温もりを知らない。

でも、今日初めて――。

「お母様って、こんな感じなのかな……」

クウは、金色のペンダントを握りしめた。

第四章 親が気づく・結界が揺らぐ

一週間が過ぎた。

天空の城では、カイ(クウのふり)が過ごしていた。

最初は緊張したが、少しずつ慣れてきた。

アラシとソラネは優しかった。

ゼウル様も、本当に優しい人だった。

けれど、カイは気づいていた。

ゼウルの目が、時々遠くを見つめることに。

まるで、誰かを探しているように。

ある日、カイはゼウルと二人きりになった。

「クウ、最近どうだ? 楽しく過ごしているか?」

「はい、お父様」

カイは丁寧に答えた。

ゼウルは少し驚いた顔をした。

「お前、最近言葉遣いが丁寧だな」

「あ……」

しまった、とカイは思った。

「いえ、その……大人になろうと思って」

「そうか」

ゼウルは優しく笑った。

「無理しなくていいぞ。お前はお前のままでいい」

「……はい」

カイは、胸が温かくなった。

この人は、本当に優しい。

クウは、幸せだな。

でも、同時に思った。

この人も、寂しそうだ。

まるで、お母様みたいに。

「お父様」

「ん?」

「……寂しくないですか?」

ゼウルの手が、止まった。

「なぜ、そんなことを?」

「時々、遠くを見つめているから」

ゼウルは驚いた顔をして、それから深い溜息をついた。

「……よく気がついたな」

「ごめんなさい」

「いや、いいんだ」

ゼウルは窓の外を見た。

雲の向こうに、海が見える。

「実はな、クウ。私には、忘れられない人がいる」

カイは息を呑んだ。

「誰なのかも、どこにいるのかも、思い出せない。でも、確かに愛した人がいた」

「……」

「お前の母親だよ」

カイの心臓が高鳴った。

「お前が生まれた時、母親はいた。だが、すぐに離れ離れになってしまった」

「どうして……?」

「掟だ。守らねばならぬ掟が、私たちを引き裂いた」

ゼウルの目に、涙が浮かんでいた。

「でも、私は今でも彼女を愛している。どこにいるのかわからなくても。顔も思い出せなくても。心は、覚えているんだ」

カイは、思わずゼウルの手を握った。

「お父様……」

ゼウルは驚いて、息子を見た。

クウは、こんなふうに手を握ってくることはなかった。

でも、不思議と嫌な感じはしない。

「ありがとう、クウ」

ゼウルは息子を抱きしめた。

カイも、ゼウルを抱きしめ返した。

この人のお母様。

カイのお父様。

もしかして――。

カイの心に、ある予感が芽生え始めていた。

海底神殿では、クウ(カイのふり)が過ごしていた。

最初は戸惑ったが、今ではすっかり慣れた。

ウーズとミナミとも仲良くなった。

そして何より、マアヤ様が大好きになった。

優しくて、温かくて、美しい人。

まるで、本当のお母様みたいだった。

でも、クウも気づいていた。

マアヤの目が、時々哀しそうになることに。

ある夜、クウはマアヤの部屋を訪ねた。

「お母様、お話しいいですか?」

「もちろん。どうしたの?」

マアヤは優しく微笑んだ。

クウは、少し迷ってから尋ねた。

「お母様は……寂しくないですか?」

マアヤの表情が、一瞬凍りついた。

「なぜ、そんなことを?」

「だって、時々すごく悲しそうな顔をするから」

マアヤは深く息を吸った。

「……カイは、よく見ているのね」

「ごめんなさい」

「いいえ。謝ることはないわ」

マアヤはクウを隣に座らせた。

「実はね、カイ。お母様には、忘れられない人がいるの」

クウの目が大きくなった。

「それは……お父様?」

「ええ。あなたのお父様よ」

「どこにいるんですか?」

「わからないの。顔も、名前も、思い出せない。ただ、愛し合ったことだけは覚えている」

マアヤの目から、涙が一筋流れた。

「あなたが生まれた時、お父様はそばにいた。でも、掟によって引き裂かれてしまった」

「掟……」

「空と海は、交わってはならないという掟。でも、私たちは愛し合ってしまった」

クウは、胸が痛くなった。

お父様も、同じことを言っていた。

大切な人がいたけど、会えなくなったと。

それって――。

「お母様」

「なあに?」

「その人、絶対に会えますよ」

マアヤは驚いた顔をした。

「どうして、そう思うの?」

「だって、お母様もお父様も、今でも相手のことを愛してるんでしょ?

なら、絶対に会えるよ」

クウは力強く言った。

マアヤは、涙をこぼしながら笑った。

「カイ……あなた、いつからそんなに優しくなったの」

「え?」

「いつもは静かで、あまり自分の気持ちを言わない子だったのに」

クウは慌てた。

「あ、えっと……大人になろうと思って!」

マアヤは不思議そうにクウを見つめた。

「そう……」

そして、クウの首元のペンダントに目を留めた。

金色のペンダント。

いつもは、青いはず。

「カイ、そのペンダント……」

「あ! 友達と交換したんです!」

「友達?」

「はい! とっても大切な友達!」

クウは笑顔で答えた。

マアヤは、じっとペンダントを見つめた。

金色。

空の色。

そして、この子の明るさ。

まるで、誰かを思い出させる。

愛した人の――。

「お母様?」

「……カイ」

マアヤは震える声で尋ねた。

「あなた、本当にカイなの?」

クウの顔が、青ざめた。

同じ夜。

天空の城でも、異変が起きていた。

ゼウルは、夜中に目を覚ました。

胸騒ぎがする。

何かが、起きている。

彼は執務室に行き、魔法の水晶を手に取った。

水晶は、世界の様子を映し出すことができる。

ゼウルは、何気なく海の方向へ水晶を向けた。

その瞬間――。

水晶が、激しく光った。

そして、映像が浮かび上がった。

海底神殿。

そこに、一人の女性がいた。

長い髪。 優しい顔立ち。 でも、哀しげな目。

ゼウルの心臓が、止まりそうになった。

「まさか……」

知っている。

この人を知っている。

「マアヤ……?」

その名前が、自然と口から出た。

そうだ。

彼女の名は、マアヤ。

海底神殿の王妃。

そして――。

自分が愛した人。

「思い出した……!」

ゼウルは水晶を落としそうになった。

記憶が、洪水のように蘇ってくる。

南の島で出会ったこと。 何度も会ったこと。 愛し合ったこと。 そして――。

子どもが生まれたこと。

双子。

「クウ……だけじゃない。もう一人、息子がいたのか……!」

ゼウルは愕然とした。

その時、ドアがノックされた。

「お父様、起きていますか?」

クウ――いや、カイの声。

「入れ」

カイが入ってきた。その表情は、緊張していた。

「お父様……お話があります」

「私もだ」

二人は向かい合って座った。

カイが口を開いた。

「僕は……クウじゃありません」

ゼウルは頷いた。

「気づいていた。お前は、カイだろう」

カイは驚いた顔をした。

「どうして……」

「勘だ。いや、父親の直感と言うべきか」

ゼウルはカイの肩に手を置いた。

「お前は、私のもう一人の息子だ」

「……はい」

カイの目から、涙がこぼれた。

「ごめんなさい。嘘をついて」

「いや、いいんだ」

ゼウルはカイを抱きしめた。

「よく来てくれた。会いたかったぞ、カイ」

カイは父の胸で泣いた。

初めて会った父。

でも、本当の父。

「お父様……」

二人は、しばらくそうしていた。

やがて、ゼウルが尋ねた。

「クウは、今どこに?」

「海底神殿に」

「そうか……」

ゼウルは立ち上がり、窓の外を見た。

海の方向を。

「マアヤ……」

彼女も、気づいただろうか。

クウが、自分たちの息子だと。

そして、カイがここにいることを。

海底神殿。

マアヤの部屋で、クウは正直に話していた。

「ごめんなさい。僕、本当はクウなんです」

マアヤは、静かに聞いていた。

「カイと入れ替わって、海に来ました」

「どうして……?」

「お互いの世界を見てみたくて。それに……」

クウは涙をこぼした。

「お母様に、会いたかったから」

マアヤの体が、震えた。

「お母様?」

「僕、お母様がいないんです。でも、カイのお母様を見て、すごく優しくて、温かくて……お母様って、こういう人なんだって思いました」

「クウ……」

マアヤは、クウを抱きしめた。

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

「え?」

「私が、あなたのお母様よ」

クウの目が、大きく見開かれた。

「あなたとカイは、双子。私とあなたのお父様の子ども」

「じゃあ、お父様って……」

「ゼウル。天空の王」

クウの頭が、真っ白になった。

お父様とお母様は、知り合いだった。

いや、恋人だった。

そして、自分とカイは双子。

「僕たち……兄弟だったの?」

「ええ。生まれてすぐ、引き裂かれてしまったけれど」

マアヤは泣きながら笑った。

「でも、あなたたちは自分で出会ったのね。運命に導かれて」

「カイ……僕の弟……」

クウも泣き出した。

だから、あんなに懐かしかったのか。

だから、すぐに仲良くなれたのか。

血が繋がっていたから。

「お母様……」

「ここにいて。もう離さない」

マアヤはクウを強く抱きしめた。

そして、窓の外を見た。

遥か彼方、天空の城がある方向を。

「ゼウル……あなたも、気づいたかしら」

マアヤの声は、結界を越えて届かない。

でも、心は繋がっていた。

同じ瞬間、同じことを思っていた。

会いたい。

もう一度、会いたい。

その夜から、世界が変わり始めた。

天空の城と海底神殿で、同時に異変が起きた。

まず、空に亀裂が入った。

雲が不自然に裂け、その向こうに海が見えた。

「なんだ、これは!」

神官サンカリヤが叫んだ。

「結界が……揺らいでいる!」

海底でも、同じことが起きていた。

神殿の天井に、光の筋が走った。

「これは……!」

神官レボンが驚愕した。

「結界が、崩れ始めている!」

魔法で作られた境界線が、ひび割れていく。

空と海を隔てていた壁が、薄れていく。

神官たちは慌てて、王と王妃のもとへ駆けつけた。

天空の城では――。

「ゼウル様! 結界が崩壊しつつあります!」

「知っている」

ゼウルは、カイの手を握っていた。

「これは、私たちが望んだことだ」

「しかし! 空と海が交われば、世界の均衡が!」

「均衡よりも大切なものがある」

ゼウルは、きっぱりと言った。

「愛だ。家族だ」

海底神殿では――。

「マアヤ様! 結界が!」

「わかっているわ」

マアヤは、クウの手を握っていた。

「これは、運命よ。もう誰にも止められない」

「ですが!」

「私は、愛する人のもとへ行く。そして、引き裂かれた家族を取り戻す」

神官たちは、言葉を失った。

そして、同じことに気づいた。

王と王妃の瞳に、決意の光が宿っていることを。

結界は、愛によって作られた。

ならば、愛によって壊されることもできる。

そして今、二つの強い愛が、結界を打ち砕こうとしていた。

親の愛。 子の愛。

ゼウルとマアヤの、互いを思う愛。 クウとカイの、兄弟としての愛。

四つの心が、一つになろうとしていた。

空が、震えた。 海が、うねった。

結界の崩壊が、始まった。

翌朝。

世界中の人々が、空を見上げていた。

雲の切れ目から、海が見えた。

空と海の境界が、曖昧になっている。

「何が起きているんだ?」

「世界が、変わろうとしているのか?」

人々は恐れ、驚き、そして期待した。

天空の城では、ゼウルが宣言した。

「私は、海底神殿へ行く」

「お待ちください、ゼウル様!」

サンカリヤが止めようとしたが、ゼウルは首を振った。

「五年間、私は掟に従ってきた。愛する者を忘れ、息子たちを引き裂かれたまま、ただ王としての務めを果たしてきた」

「それは……」

「だが、もう充分だ。私は、一人の男として、愛する者のもとへ行く」

ゼウルは、カイの肩に手を置いた。

「お前も来るか? 母に会いに」

カイは力強く頷いた。

「はい!」

海底神殿では、マアヤが宣言した。

「私は、天空の城へ行く」

「マアヤ様! それは無謀です!」

レボンが止めようとしたが、マアヤは静かに微笑んだ。

「五年間、私は静かに耐えてきた。愛する人を思い出せないまま、息子を一人しか知らないまま、ただ王妃として生きてきた」

「……」

「でも、もう我慢できない。私は、女として、母として、愛する人のもとへ行く」

マアヤは、クウの手を取った。

「あなたも来るわね? 父に会いに」

クウは涙を流しながら頷いた。

「うん!」

そして、同じ瞬間。

ゼウルは天空の城を出発した。 マアヤは海底神殿を出発した。

目指す場所は、同じ。

南の島。

かつて、二人が愛を誓った場所。

そして、双子が運命的に出会った場所。

結界が、音を立てて崩れていく。

空と海の境界が、消えていく。

世界は、新しい時代を迎えようとしていた。

第五章 真実への旅立ち

南の島へ向かう途中。

ゼウルとカイを乗せた雲の船は、荒れ狂う空を進んでいた。

結界の崩壊によって、風が乱れている。

「お父様、大丈夫ですか?」

カイが心配そうに尋ねる。

「ああ。お前こそ、怖くないか?」

「少しだけ。でも、お母様に会えるなら」

カイは笑顔を見せた。

ゼウルは、この息子に五年間会えなかったことを、改めて悔やんだ。

けれど、今は前を向く時だ。

「カイ、お前の弟はどんな子だ?」

「クウは……明るくて、元気で、ちょっとおっちょこちょいです」

ゼウルは笑った。

「私が知っているクウと、同じだな」

「でも、すごく優しいんです。人を笑顔にするのが上手で、一緒にいると楽しくて」

カイの目が輝いていた。

「お前は、弟が大好きなんだな」

「はい。僕の大切な、たった一人の兄弟です」

ゼウルは胸が熱くなった。

双子は、自分たちで絆を築いていた。

血の繋がりを知らなくても、心は知っていた。

「もうすぐ会えるぞ」

「はい!」

同じ頃。

マアヤとクウを乗せた貝殻の船は、荒れる海流を突き進んでいた。

「お母様、揺れますね!」

「大丈夫。私が守るから」

マアヤは息子を抱きしめた。

クウは、母の温もりを感じながら思った。

これが、お母様なんだ。

ずっと欲しかった、お母様の抱擁。

「クウ、あなたの兄はどんな子?」

「カイは、静かで、優しくて、頭がいいんだ。でも、時々すごく頑張りすぎちゃうから心配なの」

マアヤは微笑んだ。

「似ているわね。私が知っているカイと」

「カイのこと、お母様はどう思ってる?」

「大切な息子よ。でも……」

マアヤの目に、哀しみが浮かんだ。

「一人しか知らないことが、ずっと辛かった。もう一人の息子がどこかにいるのに、会えないことが」

「もう大丈夫だよ。今から会えるんだから!」

クウは笑顔で言った。

「そうね。ありがとう、クウ」

「お母様こそ、ありがとう。僕を産んでくれて」

マアヤは涙をこぼした。

「こんな優しい子に育ってくれて、お母様は幸せよ」

二人は抱き合った。

船は、南の島へと進み続けた。

しかし、旅は簡単ではなかった。

結界が崩壊する過程で、空と海の境界が不安定になっていた。

雲の船は、突然の突風に煽られた。

「危ない!」

ゼウルは咄嗟にカイを抱きかかえ、魔法で船を安定させた。

「お父様、あれを!」

カイが指差した先に、巨大な空の裂け目があった。

そこから、海水が逆流して空へ吹き上げている。

「結界の崩壊による副作用か……」

ゼウルは眉をひそめた。

「お父様、このまま進めますか?」

「進むしかない。マアヤが待っているんだ」

ゼウルは決然と船を進めた。

海底では、マアヤたちも困難に直面していた。

海流が逆巻き、船が激しく揺れる。

「マアヤ様、これ以上は危険です!」

侍女のコルルが叫んだ。

「引き返しましょう!」

「いいえ」

マアヤは首を振った。

「ゼウルが待っている。五年間待ち続けた再会を、今諦めるわけにはいかない」

「ですが!」

その時、巨大な渦が船の前に現れた。

結界の崩壊によって生まれた、空間の歪み。

「みんな、掴まって!」

マアヤは魔法で防御の膜を張った。

船は渦に飲み込まれ――。

そして、次の瞬間。

船は、海面を突き破って空へと飛び出した。

「わあああ!」

クウが叫ぶ。

船は、空中を漂っていた。

「お母様、僕たち、空に!」

「結界の崩壊で、空間そのものが歪んでいるのね……」

マアヤは冷静に状況を判断した。

そして、遠くに雲の船を見つけた。

「あれは……!」

ゼウルも、貝殻の船に気づいた。

「マアヤ……!」

空中に浮かぶ、海の船。

その中に、愛する人の姿が見える。

「お母様!」

カイも叫んだ。

二つの船は、引き寄せられるように近づいていった。

そして、並んで浮かんだ。

ゼウルとマアヤは、互いを見つめた。

五年ぶりの再会。

いや、記憶を取り戻してから初めての、本当の再会。

「マアヤ……」

「ゼウル……」

二人の目から、涙が溢れた。

「会いたかった」

「私も」

「ごめん。守れなくて」

「いいえ、あなたのせいじゃない」

二人は、船と船の間に魔法の橋を架けた。

そして、走り寄った。

抱き合った。

五年間の寂しさ。 五年間の痛み。 五年間の想い。

全てが、この抱擁に込められていた。

「もう離さない」

「ええ、もう二度と」

双子は、その光景を見つめていた。

クウは、マアヤの船から。 カイは、ゼウルの船から。

そして、二人は目が合った。

「カイ!」

「クウ!」

双子も、橋を渡って駆け寄った。

抱き合った。

「兄弟だったんだね!」

「うん! 僕たち、双子だったんだ!」

「道理で、すぐに仲良くなれたわけだ!」

「だから、あんなに懐かしく感じたんだ!」

二人は笑い、泣き、また笑った。

ゼウルとマアヤは、息子たちを見つめた。

「二人とも、よく育ってくれた」とゼウルが言った。

「二人とも、立派になったわね」とマアヤが微笑んだ。

四人は、抱き合った。

家族として。

初めて、本当の家族として。

空中で。

空と海の境目で。

引き裂かれた家族が、ついに一つになった。

その瞬間。

世界中で、光が溢れた。

結界が、完全に崩壊した。

空と海を隔てていた壁が、音を立てて消えていく。

天空の城で。

神官サンカリヤは、その光景を見つめていた。

「終わった……」

「いや」とライゼンが言った。「始まったのだ」

「何が?」

「新しい時代が」

海底神殿で。

神官レボンも、同じことを思っていた。

「結界が消えた……」

「これで、自由になれるのですね」とトルーが言った。

「自由……そうだな。だが、それは同時に責任も意味する」

空の民と海の民が、再び交流できるようになる。

それは、かつての調和を取り戻すことでもあり、新しい問題が生まれることでもある。

神官たちは、不安と期待を抱いていた。

陸の世界では、人々が空と海を見上げていた。

「空から、海の生き物が降ってくる!」

「海から、雲が湧き上がっている!」

世界は、混乱していた。

けれど、その混乱の中心に、希望があった。

南の島に、四人は降り立った。

かつて、ゼウルとマアヤが愛を誓った浜辺。

かつて、クウとカイが出会った浜辺。

「ここで、全てが始まったのね」とマアヤが言った。

「ああ。そして、ここで全てが繋がった」とゼウルが答えた。

双子は、砂浜を駆け回った。

「見て、カイ! あの砂山、僕たちが作ったトンネルの跡だよ!」

「本当だ! もう崩れちゃってるけど」

「また作ろうよ!」

「うん!」

二人は笑いながら、砂を掘り始めた。

ゼウルとマアヤは、その姿を見つめながら手を繋いだ。

「私たちの愛が、あの子たちを引き寄せたのかしら」

「いや、あの子たちの絆が、私たちを引き寄せたのだと思う」

「そうね……子どもたちは、親よりも強いわ」

二人は微笑み合った。

その時、後ろから声がした。

「やっと見つけましたぞ」

振り返ると、両方の国の神官たちが集まっていた。

天空の城の三神官。 海底神殿の三神官。

そして、その中心に、見覚えのある老婆がいた。

「レイラ……!」

ゼウルとマアヤは驚いた。

結界を張った張本人、陸の大魔女レイラ。

「お久しぶりです、ゼウル様、マアヤ様」

レイラは深々と頭を下げた。

「どういうつもりだ!」

ゼウルが声を荒げる。

「あなたが、私たちを引き裂いた!」

「その通りです」

レイラは顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。

「私は、あなた方を引き裂きました。愛ゆえに。世界のために。そして、両国の神官たちの願いによって」

「ならば、なぜ今ここに?」

「謝罪をしに参りました」

レイラは、再び深く頭を下げた。

「そして、祝福を」

「祝福?」

「ええ。あなた方の愛は、結界を破りました。双子の絆は、運命を変えました。これは、奇跡です」

レイラは、双子の方を見た。

クウとカイは、砂遊びを止めて、大人たちを見つめていた。

「あの子たちが、世界を変えるでしょう。空と海を繋ぐ、新しい時代の象徴として」

「私たちは……」

神官サンカリヤが口を開いた。

「間違っていたのかもしれません」

「我々も」と神官レボンが続けた。「恐れるあまり、大切なものを見失っていた」

六人の神官たちは、揃ってゼウルとマアヤに頭を下げた。

「どうか、お許しください」

ゼウルとマアヤは顔を見合わせた。

そして、優しく微笑んだ。

「許すも何も、あなた方も苦しんでいたのでしょう」とマアヤが言った。

「これからは、共に新しい道を探しましょう」とゼウルが続けた。

「ありがとうございます……」

神官たちは、涙を流した。

レイラは、満足そうに頷いた。

「さあ、これからが始まりです」

魔女は杖を掲げた。

「空と海の新しい時代を、ここに宣言しましょう」

杖から、光が放たれた。

その光は、空へ海へと広がり、世界中を照らした。

第六章 空と海の対決・和解

しかし、全てが順調に進んだわけではなかった。

結界の崩壊は、予期せぬ問題も引き起こしていた。

南の島から戻った一行を待っていたのは、混乱する世界だった。

天空の城では、一部の貴族たちが反発していた。

「海の民と交わるなど、あってはならぬ!」

「掟を破った王を、認めるわけにはいかぬ!」

議会は紛糾していた。

海底神殿でも、同様だった。

「空の民は信用できません!」

「王妃様は、国を裏切られたのです!」

古い考えを持つ者たちが、声を上げていた。

ゼウルとマアヤは、それぞれの国で説明を試みた。

「私は、掟よりも愛を選んだ。それを後悔していない」とゼウルは言った。

「だが、それは王として失格ということですぞ!」

貴族の一人が声を荒げる。

「ならば、王を辞めてもいい」

ゼウルの言葉に、議会がざわついた。

「しかし、私が愛した人を、そして息子たちを、もう二度と手放さない」

その決意に、反対派は言葉を失った。

海底神殿でも、マアヤは同じことを言っていた。

「私は、国よりも家族を選びます」

「それは、王妃としての責任放棄です!」

重臣の一人が詰め寄る。

「なら、王妃を辞めましょう」

マアヤの静かな言葉に、宮廷は静まり返った。

「でも、愛する人と子どもたちを、もう失いたくない」

その強い意志に、反対派も黙るしかなかった。

問題は、王族だけにとどまらなかった。

空の民と海の民が再び交流するようになると、様々な衝突が起きた。

ある日、天空の城の市場で事件が起きた。

海の商人が、海の産物を売りに来ていた。

「これは珍しい! 深海の真珠だ!」

空の民が興味津々で集まってくる。

しかし、その値段を見て顔を曇らせた。

「高すぎる! これは詐欺だ!」

「詐欺ではありません! これは深海でしか採れない貴重なものです!」

海の商人が反論する。

「海の者は、やはり信用できぬ!」

「空の者こそ、物の価値がわかっておらぬ!」

言い争いは、やがて掴み合いになった。

同様の事件は、海底神殿でも起きていた。

空の職人が、風の魔法道具を持ち込んだ。

「これは、風を自在に操れる道具です」

海の民が興味を示したが、実際に使おうとすると、水中ではうまく動かなかった。

「騙された!」

「いや、これは空で使うものだ!」

「それを先に言え!」

諍いは、あちこちで起きていた。

クウとカイは、その状況を憂えていた。

「どうして、みんな仲良くできないんだろう」とクウが悲しそうに言った。

「文化が違うから……でも、きっとわかり合えるはず」

カイは考え込んでいた。

二人は、ある計画を立てた。

「空と海の子どもたちで、交流会をしよう!」

クウが提案すると、カイもすぐに賛成した。

「大人は難しく考えすぎるけど、子どもなら素直に仲良くなれる」

「そうだよ! 僕たちみたいに!」

二人は早速、友達に声をかけた。

天空の城では、アラシとソラネが協力してくれた。

「面白そうだな! やろうぜ!」

「私も手伝うわ!」

海底神殿では、ウーズとミナミが賛同した。

「カイの提案なら、信じるよ!」

「楽しそう! 参加する!」

南の島を会場に、空と海の子どもたちの交流会が開かれることになった。

交流会の日。

南の島の浜辺に、空の子どもたち十人と、海の子どもたち十人が集まった。

最初は、お互い警戒していた。

空の子たちは、海の子たちを遠巻きに見ている。

海の子たちも、距離を置いて立っている。

「やあ!」

クウが元気よく声をかけた。

「僕はクウ! 天空の王子だけど、そんなの気にしないで!

みんな友達になろう!」

「僕はカイ。海底の貴公子だけど、クウと同じ。みんな仲良くしたいんだ」

双子の明るさに、少しずつ空気が和らいだ。

「じゃあ、まず自己紹介しよう!」

一人一人、名前と好きなことを言っていった。

空の子、リク。「雲の上でかけっこするのが好き!」

海の子、ナミ。「人魚の歌を歌うのが得意!」

空の子、ハル。「星を見るのが好き!」

海の子、シオ。「光る魚と遊ぶのが楽しい!」

話していくうちに、共通点も見つかった。

「僕も走るの好き!」 「私も歌が好き!」

やがて、子どもたちは自然と混ざり合い、遊び始めた。

砂の城を作ったり。 貝殻を集めたり。 鬼ごっこをしたり。

笑い声が、浜辺に響いた。

クウとカイは、その光景を見て笑顔になった。

「うまくいったね!」

「うん! やっぱり、子どもは素直だ」

その様子を、遠くから大人たちが見ていた。

ゼウルとマアヤ。 そして、神官たち。

「子どもたちは、もう仲良くなっているな」とライゼンが微笑んだ。

「我々大人が、頑固なだけかもしれませんね」とトルーが言った。

サンカリヤとレボンは、顔を見合わせた。

「我々が、最も頑固だったのかもしれぬ」

「同感です」

二人の老神官は、思わず笑った。

「なあ、レボン殿」

「はい、サンカリヤ殿」

「一つ、提案があるのだが」

「奇遇ですな。私も、ちょうど同じことを考えていました」

二人は、王と王妃のもとへ歩み寄った。

「ゼウル様、マアヤ様」

「何だ?」

「我々から、提案がございます」

サンカリヤが口を開いた。

「空と海の同盟を、正式に結びませんか」

「同盟?」とマアヤが尋ねた。

「はい。互いの国を尊重し、交流を促進し、協力し合う」

レボンが続けた。

「そして、その象徴として……」

二人の神官は、双子の方を見た。

「クウ様とカイ様を、両国の架け橋として」

ゼウルとマアヤは、驚いた顔をした。

「それは……」

「もちろん、強制ではありません」とライゼンが加えた。

「でも、あの双子こそ、新しい時代の希望です」とネッカが言った。

「空と海、両方の血を引く彼らなら、きっとできるはずです」とムライゴが続けた。

ゼウルとマアヤは、息子たちを見つめた。

クウは、空の子にも海の子にも、分け隔てなく話しかけている。

カイは、困っている子がいれば、すぐに助けに行っている。

二人とも、どちらの世界の子どもたちからも慕われていた。

「あの子たちなら……」とマアヤが呟いた。

「ああ。きっと、できる」とゼウルが頷いた。

二人は、神官たちを見た。

「わかった。同盟を結ぼう」

「そして、クウとカイに、未来を託そう」

神官たちは、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます」

交流会の終わり。

子どもたちは、すっかり仲良くなっていた。

「また会おうね!」

「うん! 絶対!」

空の子と海の子が、手を振り合っている。

クウとカイは、満足そうに微笑んだ。

その時、ゼウルとマアヤが二人を呼んだ。

「クウ、カイ。少し話がある」

二人は並んで、両親の前に座った。

「なあに、お父様、お母様?」

ゼウルが口を開いた。

「お前たちに、頼みたいことがある」

「空と海の架け橋になってほしい」とマアヤが続けた。

「架け橋?」

クウとカイは顔を見合わせた。

「お前たちは、両方の血を引いている。そして、両方の世界を知っている」

「だから、お前たちなら、二つの国を繋げることができる」

双子は、少し考えてから、同時に頷いた。

「うん、やる!」

「僕たちにできることなら」

ゼウルとマアヤは、息子たちを抱きしめた。

「ありがとう」

「でも、無理はしないでね」

「大丈夫! 僕たち、双子だから!」

「二人なら、何でもできる!」

クウとカイは笑い合った。

そして、手を繋いだ。

その姿を見て、周りの大人たちも笑顔になった。

空と海の対立は、ここに終わった。

そして、新しい協力の時代が始まった。

全ては、二人の小さな王子たちから。

最終章 家族の再会と新世界

それから一ヶ月。

世界は、大きく変わっていた。

天空の城と海底神殿の間に、正式な同盟が結ばれた。

交流が活発になり、貿易も始まった。

空の民は、海の珍しい産物を手に入れられるようになった。

海の民は、空の美しい工芸品を楽しめるようになった。

互いの文化を学び合い、尊重し合う。

それが、新しい時代の始まりだった。

そして、何より大きな変化は――。

天空の城に、新しい住人が加わったことだ。

マアヤとカイが、ゼウルのもとへ移り住んだのだ。

「本当に、いいのか?」

ゼウルは何度も確認した。

「ええ。海底神殿には、信頼できる神官たちがいる。私は、家族と一緒にいたい」

マアヤは微笑んだ。

「でも、海底神殿も、時々訪れるわ。両方が、私たちの家だもの」

こうして、引き裂かれていた家族は、ついに一つになった。

ある朝。

城の食堂に、家族四人が揃って座っていた。

「いただきます!」

クウが元気よく言うと、みんなも続いた。

「いただきます」

朝食を食べながら、クウが話し始めた。

「ねえねえ、今日ね、アラシと新しい遊び思いついたんだ!」

「どんな遊び?」とゼウルが尋ねる。

「雲の上でヨットレースするの! 風を使って、誰が一番速く飛べるか!」

「面白そうですね」とカイが言った。「僕も参加していい?」

「もちろん! カイと一緒にやりたかったんだ!」

マアヤが優しく笑った。

「二人とも、仲がいいのね」

「だって、兄弟だから!」

クウとカイは同時に答えて、笑い合った。

ゼウルは、その光景を見つめながら思った。

これが、本当の家族なんだ。

五年間、失っていたもの。

今、こうして取り戻せた。

「どうしたの、ゼウル?」

マアヤが心配そうに覗き込む。

「いや……幸せだなと思って」

ゼウルは妻の手を取った。

「君がいて、息子たちがいて。こんなに幸せなことはない」

「私もよ」

マアヤは夫の手を握り返した。

「長い道のりだったけれど、やっとここに辿り着けた」

双子は、両親の様子を見て微笑んだ。

お父様とお母様が、こんなに幸せそうなのは初めて見た。

いや、初めてではないかもしれない。

きっと、生まれた時も、こんなふうに幸せだったのだろう。

午後。

クウとカイは、城の庭でアラシ、ソラネ、ウーズ、ミナミと遊んでいた。

結界が崩れてから、海の子どもたちも気軽に天空の城を訪れられるようになった。

「じゃあ、ヨットレース始めるよ!」

クウが号令をかけると、六人はそれぞれ小さなヨットに乗り込んだ。

風の魔法を使って、雲の上を滑走する。

「わあ、速い!」

ウーズが笑いながら叫ぶ。

「こっちもね!」

ソラネが追いかける。

カイは、最初は少し不安だったが、すぐに慣れて楽しみ始めた。

「これ、面白いね!」

「でしょ!」

クウが隣を並走しながら笑った。

「カイは、何でもすぐ上手になるよね」

「クウこそ、教えるのが上手だよ」

二人は笑い合った。

レースの後、みんなで雲の上に寝転がった。

「気持ちいいな」とアラシが言った。

「空って、こんなに広いんだね」とミナミが感心した。

「海も広いよ」とカイが言った。「今度、みんなを案内するね」

「本当!? 行きたい行きたい!」

クウが飛び起きた。

「じゃあ、今度の休みに、みんなで海底神殿に行こう!」

「賛成!」

みんなが手を上げた。

子どもたちにとって、空と海の境界はもうなかった。

どちらも、自分たちの世界だった。

夕暮れ時。

ゼウルとマアヤは、城のテラスで海を眺めていた。

「あの子たちを見ていると、希望が持てるわ」とマアヤが言った。

「ああ。あの子たちは、私たちよりも賢い」

ゼウルは妻の肩を抱いた。

「なあ、マアヤ。結婚式を挙げないか?」

「え?」

マアヤは驚いた顔をした。

「私たちは、正式に結婚していない。秘密の恋人だったからな」

「そうね……」

「でも、今は違う。堂々と、君を妻にしたい」

ゼウルは、マアヤの手を取った。

「改めて、私と結婚してくれないか?」

マアヤの目から、涙がこぼれた。

「ええ。喜んで」

二人は抱き合った。

遠くで、双子がその様子を見ていた。

「お父様とお母様、結婚するんだって」とクウが嬉しそうに言った。

「うん。僕たちも、式に参加できるね」

「楽しみだな!」

二人は手を繋いで、夕日を眺めた。

金色と青色のペンダントが、夕日に照らされて輝いていた。

このペンダントが、二人を繋いだ。

そして、家族を繋いだ。

「ねえ、カイ」

「なに?」

「僕たち、ずっと一緒にいられるよね」

「もちろん。僕たち、双子だもの」

カイは笑顔で答えた。

「これからも、ずっと」

「うん! ずっと!」

二人は約束するように、小指を絡めた。

一ヶ月後。

南の島で、盛大な結婚式が開かれた。

空の民も、海の民も、陸の民も、みんなが集まった。

真っ白なドレスを着たマアヤ。 深い青の礼服を着たゼウル。

二人は、浜辺に作られた祭壇の前に立った。

司式を務めるのは、レイラだった。

「本日、ここに集いし皆様」

魔女の声が、島中に響き渡った。

「我らは、二つの奇跡を祝福するために参りました」

「一つは、愛の奇跡。引き裂かれながらも、決して消えることのなかった愛」

「もう一つは、命の奇跡。離れ離れになりながらも、自ら再会を果たした双子の絆」

レイラは、ゼウルとマアヤを見た。

「ゼウル様、あなたはマアヤ様を、生涯の伴侶として愛し続けますか?」

「誓います」

ゼウルの声は、力強かった。

「マアヤ様、あなたはゼウル様を、生涯の伴侶として愛し続けますか?」

「誓います」

マアヤの声は、優しく響いた。

「ならば、ここに二人の結婚を認めます」

レイラが宣言すると、集まった人々から歓声が上がった。

ゼウルとマアヤは、キスを交わした。

クウとカイは、最前列で拍手していた。

「やったあ! お父様とお母様、結婚したよ!」

「これで、本当の家族だね」

双子は抱き合って喜んだ。

披露宴は、浜辺で開かれた。

空の料理も、海の料理も、陸の料理も並んだ。

音楽が奏でられ、人々は踊った。

空の民が、優雅に空中で舞った。 海の民が、波のようなステップを踏んだ。

陸の民が、力強く地面を蹴った。

三つの文化が、一つになって調和していた。

クウとカイも、友達と一緒に踊った。

「楽しいね!」

「うん!」

やがて、ゼウルとマアヤが二人を呼んだ。

「クウ、カイ、こっちにおいで」

双子が駆け寄ると、両親は膝をついて二人と目線を合わせた。

「お前たちに、感謝を伝えたい」とゼウルが言った。

「お前たちがいなければ、私たちは再会できなかった」とマアヤが続けた。

「え? でも、僕たち何もしてないよ?」とクウが首を傾げた。

「いや、してくれた」

ゼウルは二人の頭を撫でた。

「お前たちが出会い、友達になり、兄弟だとわかった。その全てが、結界を崩す力になった」

「お前たちの純粋な愛が、世界を変えたのよ」

マアヤは二人を抱きしめた。

「ありがとう。私たちの大切な息子たち」

クウとカイは、少し照れくさそうに笑った。

「僕たち、ただ友達になりたかっただけなんだけどな」

「それが一番大切なことだったのよ」

家族四人は、抱き合った。

周りの人々が、その光景を見守っていた。

神官たちも、涙を流していた。

「美しい……」とライゼンが呟いた。

「これが、本当の姿なのでしょうね」とトルーが微笑んだ。

サンカリヤとレボンは、互いに頷き合った。

「我々が守ろうとしたものは、形だけの秩序だった」

「本当に守るべきだったのは、こういう愛だったのですね」

太陽が西に傾き、オレンジ色の光が世界を染めた。

空も、海も、陸も、全てが一つの光に包まれていた。

新しい世界。

新しい時代。

それは、愛から始まった。

エピローグ 双子の未来

それから八年の月日が流れた。

クウとカイは、十八歳になっていた。

二人とも、立派な若者に成長した。

クウは、父ゼウルから王としての教育を受けていた。

明るく、人々から愛される王子。

ヨットの腕前は誰にも負けず、空の探検家としても名を馳せていた。

カイは、母マアヤから外交の技術を学んでいた。

聡明で、誰からも尊敬される貴公子。

多くの書物を読み、空と海の歴史に詳しかった。

二人は、それぞれの得意分野を生かしながら、共に「架け橋」としての役割を果たしていた。

ある日。

クウとカイは、久しぶりに南の島を訪れていた。

「懐かしいな」

クウが浜辺を歩きながら言った。

「ここで、初めて会ったんだよね」

「うん」

カイも微笑んだ。

「あの時は、まさか兄弟だとは思わなかった」

「僕も。でも、すごく懐かしい感じがしたのを覚えてる」

二人は、かつてトンネルを掘った場所に座った。

「あれから、いろんなことがあったね」とクウが言った。

「うん。でも、全部いい思い出だ」

カイは空と海の境界線を見つめた。

もう、そこに壁はなかった。

空の鳥が海に潜り、海の魚が空を飛ぶ。

そんな光景が、今では普通になっていた。

「僕たちの役目、ちゃんと果たせてるかな?」とクウが不安そうに尋ねた。

「果たせてるよ」

カイは確信を持って答えた。

「だって、みんな笑ってる。空の人も、海の人も」

「そっか」

クウは笑顔になった。

「なら、よかった」

二人は並んで海を見つめた。

波が、静かに打ち寄せる。

「ねえ、カイ」

「なに?」

「僕たち、これからもずっと一緒だよね」

カイは兄を見て、優しく微笑んだ。

「当たり前だよ。僕たちは双子だもの」

「うん!」

二人は手を繋いだ。

金色と青色のペンダントが、今も胸元で輝いていた。

その夜。

天空の城では、家族四人で夕食を囲んでいた。

「今日、南の島に行ってきたんだ」とクウが報告した。

「そう。懐かしかったでしょう?」とマアヤが微笑んだ。

「うん! あの場所、やっぱり特別だね」

「私たちにとっても、特別な場所だよ」とゼウルが言った。

「お前たちが生まれた場所でもあるしな」

「そうだったの!?」

クウとカイは驚いた。

「ええ」

マアヤは遠い目をした。

「あの島で、あなたたちを産んだのよ。嵐の夜だった」

「そして、三日後に引き裂かれた」

ゼウルの声が、少し震えた。

「でも、あの島で再会もできた」

「全ての始まりと、新しい始まりの場所」

マアヤとゼウルは、手を繋いだ。

クウとカイは、両親を見つめた。

二人とも、今でも深く愛し合っている。

そして、自分たちを愛してくれている。

「お父様、お母様」

カイが静かに言った。

「ありがとう。僕たちを、諦めないでくれて」

「何を言ってるんだ」

ゼウルは笑った。

「お前たちは、私たちの希望だった。諦めるわけがない」

「これからも、ずっと家族よ」

マアヤが優しく微笑んだ。

「離れていても、心は繋がってる」

クウは涙ぐみながら笑った。

「僕たち、幸せだね」

「ああ、本当に」

四人は、手を繋ぎ合った。

家族の絆。

それは、どんな困難も乗り越える力だった。

さらに時は流れた。

クウとカイが二十二歳になった時。

二人は、正式に「空と海の大使」に任命された。

就任式は、再び南の島で行われた。

集まった人々の前で、双子は誓いの言葉を述べた。

クウが先に口を開いた。

「僕は、クウ。天空の王子として生まれ、海の血も受け継いでいます」

カイが続けた。

「僕は、カイ。海底の貴公子として生まれ、空の血も受け継いでいます」

二人は声を揃えた。

「僕たちは双子。生まれてすぐ引き裂かれましたが、自分たちで再会しました」

「その経験から、学びました」

「離れていても、心は繋がれること」

「違っていても、わかり合えること」

「そして、愛があれば、どんな壁も越えられること」

二人は、集まった人々を見渡した。

「僕たちは誓います」

「空と海を、永遠に繋ぎ続けることを」

「憎しみではなく、愛で」

「争いではなく、対話で」

「分断ではなく、調和で」

最後に、二人は手を繋いだ。

「僕たちは双子。二人で一つ」

「だからこそ、二つの世界を繋げられる」

「これが、僕たちの使命です」

拍手と歓声が、島中に響き渡った。

ゼウルとマアヤは、涙を流しながら拍手していた。

「立派になったわね」

「ああ。私たちよりも、ずっと」

神官たちも、感動していた。

「あの子たちが、新しい時代を作るのですね」

「いや、もう作っている」

レイラも、満足そうに頷いていた。

「私の役目も、これで終わりね」

魔女は、静かに島を後にした。

その背中を、誰も追わなかった。

レイラは、もう必要なかった。

世界は、自分の力で進んでいけるのだから。

その夜。

双子は、浜辺で二人きりになった。

「疲れたね」とクウが砂の上に座り込んだ。

「うん。でも、いい疲れだ」

カイも隣に座った。

二人は、星空を見上げた。

「ねえ、カイ。僕たち、ちゃんとできるかな?」

「できるよ」

カイは確信を持って答えた。

「だって、僕たちは一人じゃない。二人いる」

「そうだね」

クウは笑った。

「カイがいれば、怖いものなんてないや」

「僕もだよ。クウがいるから、頑張れる」

二人は、肩を寄せ合った。

波の音が、静かに響く。

風が、優しく吹く。

「ねえ、覚えてる? 初めて会った時のこと」

「もちろん」

「僕、すぐにカイのことが好きになった」

「僕もだよ」

「なんでだろうね」

「……きっと、血が知ってたんだ」

カイは空を見上げた。

「僕たちは双子だって。離れていても、心は繋がってたんだって」

「うん」

クウも空を見上げた。

「僕たち、奇跡みたいだね」

「奇跡じゃない。必然だよ」

「必然?」

「うん。だって、僕たちは会うべくして会った。繋がるべくして繋がった」

カイは、クウの手を取った。

「これからも、ずっと一緒だよ」

「ずっと?」

「ずっと」

二人は、約束するように手を繋いだ。

金色と青色のペンダントが、月明かりに照らされて輝いた。

そのペンダントは、もう魔法の道具ではなかった。

ただの、絆の証。

二人を繋ぐ、大切なもの。

「ねえ、カイ」

「なに?」

「ありがとう。僕の兄弟でいてくれて」

「こちらこそ」

カイは微笑んだ。

「クウの兄弟でいられて、幸せだよ」

二人は抱き合った。

星が、優しく見守っていた。

朝が来た。

新しい一日が始まる。

クウとカイは、それぞれの道を歩み始めた。

クウは、空の探検隊を率いて、まだ見ぬ世界を探しに行く。

カイは、海の図書館で、古代の知識を学び、人々に教える。

離れていても、心は繋がっている。

毎晩、二人は貝殻を通じて話す。

「今日はね、すごい雲の山を見つけたんだ!」

「へえ。僕は、古代文明の記録を見つけたよ」

「カイは、相変わらず本が好きだね」

「クウは、相変わらず冒険が好きだね」

笑い合う声が、貝殻を通じて響く。

そして、月に一度は必ず、南の島で会う。

あの、全てが始まった場所で。

二人で砂の城を作ったり。 貝殻を集めたり。 ただ、話したり。

子どもの頃と同じように。

でも、今はもっと深い絆で結ばれている。

双子の絆。 兄弟の絆。 そして、同じ使命を背負う者同士の絆。

物語は、ここで終わる。

けれど、クウとカイの人生は続いていく。

二人は、これからも空と海を繋ぎ続ける。

時には困難にぶつかるだろう。

時には迷うこともあるだろう。

でも、二人なら大丈夫。

なぜなら――。

二人は双子だから。

生まれた時から、運命で結ばれていたから。

そして、何より。

愛し合っているから。

家族として。 兄弟として。 友として。

空と海の間に、もう壁はない。

あるのは、架け橋だけ。

その架け橋の名は――。

クウとカイ。

天空の王子と、海底の貴公子。

小麦色の肌と、色白の肌。

金色のペンダントと、青いペンダント。

二人で一つ。

一つで完全。

そして、二人の物語は、これからも続いていく。

永遠に。

おわり

あとがき

空と海。

遠く離れた二つの世界。

でも、愛があれば繋がれる。

血があれば、わかり合える。

そして、心があれば、どんな壁も越えられる。

クウとカイの物語は、そんな希望の物語でした。

生まれてすぐ引き裂かれた双子。

でも、運命は二人を再会させました。

そして、二人の絆が、世界を変えました。

これは、愛の物語。

親の愛。 子の愛。 兄弟の愛。

そして、全ての人を繋ぐ、普遍的な愛の物語。

クウとカイは、これからも生き続けます。

あなたの心の中で。

そして、いつの日か。

あなたも、自分だけの「架け橋」になれますように。

違う世界を繋ぐ。

違う人を繋ぐ。

それが、この物語からの、小さな願いです。

読んでくださって、ありがとうございました。

空と海が、あなたの心の中で一つになりますように。

fin

『くうとかい』

(Verse)

雲の城と深海の宮

触れられぬ距離に裂かれた愛

逃げ惑う夜 抱きしめた双子

運命は無慈悲に扉を閉ざした

結界の向こう 届かない手

声すら凍る孤独の王座

それでも胸はあの日のまま

「会いたい」と叫んでいた

(Chorus)

止まった時間よ 動き出せ

Lost child, lost love — 奪われた未来

鏡に映る面影が 疼きだす

導いて あの笑顔へ

泣き叫ぶ運命なんて壊して

We are twins, we are one

ふたつでひとつの魂よ

戻れ 愛の場所へ

(Chorus)

止まった時間よ 動き出せ

Lost child, lost love — 奪われた未来

鏡に映る面影が 疼きだす

導いて あの笑顔へ

泣き叫ぶ運命なんて壊して

We are twins, we are one

ふたつでひとつの魂よ

戻れ 愛の場所へ

(Bridge)

南の島で出逢う奇跡

変わりゆく世界 すり替わる日常

気づいてしまった「本当の自分」

ペンダントが暴いた残酷な真実

扉の向こう 懐かしい声が

涙越しに言う

「きみなのか…?」

「貴方なの…?」

(Last Chorus)

引き裂かれた夜を越えて

もう二度と離さない

Destiny さえ捻じ曲げて

奪われた家族を取り戻す

天と海 結ばれるその日まで

We are twins, we are one

運命を砕け 光を呼べ

帰ろう 愛の場所へ

━━━━━━━━━━

第十四章

排熱の契約

排熱の契約

――制度の狭間に生きる者たちの話――

第一章 契約の朝

 世界に魔法が存在することと、それが制度によって管理されていることは、同じ一枚の硬貨の表と裏だ。

 ロルム王国では、魔法行使権は成人の証として扱われる。成人の基準は、王国暦の元旦時点で十八歳を迎えているか否か。ただしそれだけだ。

 単純に見える。実際には、そうではない。

 アリアとルーク・ヴェルナーは四月生まれの双子だ。今年の元旦、彼らは十八歳になった。つまり成人。つまり魔法行使権を得た。

 カイン・ソレルは十二月生まれだ。同じ学年、同じ教室、同じ授業を受けているが、今年の元旦時点ではまだ十七歳だった。つまり未成年。つまり魔法行使権を持たない。

 同じ年に生まれ、同じ時を生きているのに、制度上の区分は完全に異なる。

 よく似た話は現実にもある。たとえばある国では十八歳から酒が飲める。別の国では二十一歳まで待たなければならない。国境を一歩越えるだけで、昨日まで合法だったことが違法になる。制度とはそういうものだ――人間の実態に関係なく、線を引く。

 魔法も同じだった。カインが「魔法を使えない」のではない。制度上「使う権限を持たない」だけだ。その差は、当事者にとって何よりも重かった。

◆  ◆  ◆

 問題が起きたのは、春期演習の三日目だった。

「カイン。少し話がある」

 アリアが声をかけてきたのは、演習場の端、他の生徒が片付けに追われている隙間だった。双子の姉のほうだ。栗色の髪を片側に束ね、制服の袖に小さな魔法紋章が光っている。成人の証。

 カインは汗を拭いながら振り返った。演習は体術中心だったが、それでも消耗する。

「何?」

「今日の午後、ルークと三人で話したい。放課後、第三講義棟の空き教室を借りてある」

「……内容は?」

「契約の話」

 カインは一瞬動きを止めた。

 契約。魔法使いの世界での「契約」は、法的文書よりも重い意味を持つ。魔力そのものを媒介とする約束だからだ。

「俺と、契約を?」

「そう。聞いてから断っても構わない。でも聞いてほしい」

 アリアの目は真剣だった。軽い話ではないと、それだけで分かった。

◆  ◆  ◆

 第三講義棟の空き教室は夕方の光が斜めに差し込み、埃っぽいにおいがした。机が端に寄せられ、三人分の椅子だけが円を描くように置かれていた。

 ルークは既に来ていた。アリアと正反対の雰囲気を持つ双子の弟で、金髪を無造作に流し、腕を組んで椅子の背にもたれている。カインが入ると無言で顎をしゃくって座るよう示した。

「単刀直入に言う」

 アリアが口を開いた。

「私たちの魔法行使には、排熱が発生する。分かると思うけど」

「分かる。高火力の術式ほど、術者の肉体に熱負荷がかかる。放っておくと過負荷になる」

「そう。今の私たちには、まだ排熱処理の術が使えない。訓練が足りていない」

 それは珍しいことではなかった。成人になって初めて魔法を使える段階では、出力制御と排熱処理は別々に習得する必要がある。一方を得意にしても、もう一方が追いつかないことはよくある。

「で、その排熱を俺に転送したい、と?」

「契約によって可能になる。術者本人の代わりに、指定した対象者が排熱を受け取る。魔力的な結線を結ぶことで成立する」

「俺は未成年だ。魔法行使権を持たない」

「受け取るだけなら関係ない。制度上、魔法の『受領』は行使に含まれない」

 カインは少し考えた。確かに法文上はそうだった。魔法行使権は「自ら魔力を行使する権利」であり、他者の魔力を身体で受け取ることは、その定義に含まれない。制度の穴といえば穴だが、違法ではない。

「排熱の規模は?」

「今の段階では軽い。でも演習が進むにつれて大きくなる。五感に影響が出ることもある」

「五感に」

「熱は感覚神経を刺激する。光の見え方が変わったり、音が歪んだり、味覚や嗅覚に異常が出たりする。一時的なものがほとんどだが、積み重なれば慢性化する可能性もある」

 ルークがここで口を開いた。

「断ってもいい。本当に」

 声は静かだった。アリアよりも感情が薄く聞こえる、そういう話し方をする男だ。

「俺たちが困るのは事実だが、お前を使い捨てるつもりはない。対価は出す」

「対価」

「今年一年、私たちの演習に同行する資格を与える。正規の資格ではないが、私たちの推薦書を添えることができる。来年お前が成人になったとき、魔法訓練の実地時間として換算できる制度がある」

 それは、実質的に「来年の出発点が変わる」ということだった。成人してから一から始める他の同年齢より、一年分の実績を持てる。

 カインは静かに息を吐いた。

「分かった。受ける」

「……本当に?」

「断る理由がない。五感への影響については、都度教えてくれ。隠さずに」

「隠すつもりはない」とアリアが言った。「ありがとう、カイン」

 ルークは何も言わなかった。ただ組んでいた腕をほどき、前に出した手を無言で差し伸べた。

 カインはその手を握った。

 契約が、結ばれた。

◆  ◆  ◆

 その夜、カインは寮の自室で天井を見ていた。

 右手の甲に、うっすらと紋様が浮かんでいた。魔力結線の証だ。光るほどではない。触れると少しだけ温かかった。

 翌朝から変化は始まった。

 朝食の匂いが、いつもより鮮明に感じられた。食堂に入った瞬間、焼いたパンの香ばしさ、スープの湯気、誰かの使っている石鹸の甘さが、全部同時に飛び込んできた。

 悪くはなかった。ただ、少し多かった。

 アリアがトレーを持って隣に座った。

「何か変化は?」

「嗅覚が少し鋭くなった気がする」

「それは想定の範囲内。最初は感覚の増幅から始まる。しばらくは慣れるのが大変かもしれない」

 アリアがスープに口をつけた。彼女の髪から石鹸とは違う、花に似た何かの匂いがした。

 不思議なことに、それだけが他の匂いと違って感じられた。

 痛くなかった。

 むしろ、少し落ち着いた。

 カインはその感覚を特に気にしなかった。

 その時点では、まだ。

◆  ◆  ◆

 これが始まりだった。

 制度の線引きによって三人は分断されていた。だがその線の上に、彼ら自身が新たな契約を引いた。

 そしてカインは知らなかった。この契約が彼の五感を、感情を、そして世界の見え方そのものを、じわじわと塗り替えていくことを。

第二章 暴走(一段階目)

 最初の三週間は、まだ耐えられる範囲だった。

 アリアとルークの演習強度が上がるにつれ、カインへの排熱転送量も増えた。感覚の増幅が加速した。光が眩しくなった。音が粒立って聞こえるようになった。食堂では複数の匂いが重なって頭が痛くなることがあった。

 そして、嗅覚の「偏り」が顕著になってきた。

 不快な匂いが増えた。廊下を歩くだけで誰かの汗の匂い、靴の匂い、食べかけの何かの匂いが突き刺さってくる。図書館では紙の黴と埃が複合して鼻の奥を刺した。

 唯一の例外が、アリアだった。

 彼女の匂いだけが、カインにとって「快」として処理された。他の全てが騒音なら、彼女の匂いだけが音楽だった。無意識に近づきたくなる、そういう感覚。

 カインはそれが排熱の副作用だと理解していた。理解していたが、理解と感覚は別物だった。

◆  ◆  ◆

 第四週に入ると、暴走が起きた。

 原因はルークの術式だった。高火力の攻撃系魔法を複数回使用したことで、排熱量が急激に跳ね上がった。事前の計算ミスか、あるいはルークの出力が予想を超えたか。

 カインは演習場の隅に倒れた。五感全てが同時に過負荷になった。光が刃になった。音が壁になった。地面の匂いと自分の汗の匂いが混ざって、胃が裏返るような気分になった。

 アリアが駆け寄ってきた。

「カイン!」

 声が遠かった。いや、近かった。どちらか分からなかった。

 だが、彼女がそばに来た瞬間に気づいた。

 匂いだ。

 花に似た何か。石鹸ではない。彼女固有の何か。

 他の全ての感覚が嵐なのに、それだけが凪だった。

 カインは無意識に彼女の袖を掴んでいた。

 アリアは動かなかった。ただそこにいた。

 三分ほどで、五感の嵐は引いた。

 カインは手を離した。

「……すまない」

「謝らなくていい。私たちのミスだ」

 ルークが少し離れた場所に立っていた。こちらを見ていた。何かを考えているような顔だった。

 その夜、カインは記録を書いた。

 排熱の影響。感覚増幅。嗅覚の偏向。アリアの匂いのみ快として処理。暴走時、彼女の存在が鎮静剤として機能した。

 事実の羅列だけ書いた。感情的な言葉は一切使わなかった。

 だが書き終えた後、しばらく紙を眺めていた。

 これは制御できるのか、と思いながら。

◆  ◆  ◆

 アリアも、その日のことを考えていた。

 カインが袖を掴んだ感覚は、まだ残っていた。力が強かったわけではない。ただ、切実だった。溺れている人が何かに掴まるときの、あの感じ。

 彼女は自分が何を感じたのか、うまく整理できなかった。

 罪悪感? 違う。まだ違う。

 ただ、役に立てた、という感覚があった。

 それが少し、気になった。

第三章 耐性(二段階目)

 暴走の後、三人は運用方法を見直した。

 ルークが提案したのは「排熱量の事前計算と上限設定」だった。一日に転送できる量を決め、それを超えそうな場合は術式を分割する。カインへの負荷を管理可能な範囲に保つ。

 アリアが提案したのは「暴走時のプロトコル」だった。もし再び過負荷になった場合、カインが声を出せなくても済むように、手のサインを決めた。

 カインは両方を受け入れた。

 そして、自分自身でも取り組み始めた。

 不快な匂いへの暴露訓練だ。毎朝、食堂の混雑時間に意図的に立つ。図書館の一番古い棚の前で作業する。感覚が来たとき、逃げるのではなく「記録する」ことにした。どの程度の強度か。どのくらいの時間か。どこで引いたか。

 二週間後、少しだけ変わった。

 食堂の混雑した匂いが、「刺さる」から「多い」になった。違いは微妙だが、当事者には大きかった。

◆  ◆  ◆

 一方、アリアへの嗅覚依存は変化しなかった。

 他の匂いへの耐性は確実についていった。だが、彼女の匂いへの「快」の反応は、むしろ精緻になっていった。より鮮明に感じ取れるようになり、彼女が近くにいるだけで感覚の嵐が収まる効果も、再現性が上がった。

 カインはそれを「依存の深化」と記録した。

「少し聞いていいか」

 ある夜、自習室でアリアと二人になったとき、カインは言った。

「お前の匂いが、俺の感覚の鎮静剤になっている。契約の副産物だと思うが、それを自覚した上で告げておく」

 アリアはしばらく黙っていた。

「……私の、匂い」

「排熱の影響で嗅覚が変質した。結果として、お前の匂いだけが快として処理される。他は全部程度の差はあれ不快だ。そういう状態になっている」

「それは……つらくないの?」

「他の匂いに関しては徐々に慣れている。お前の匂いへの依存は、今のところ機能している。暴走時に必要だった。だから報告した」

 アリアは何か言いかけて、止めた。

 代わりに言ったのは、

「分かった。ありがとう」

 だけだった。

 その夜、彼女はしばらく眠れなかった。

 利用している、という言葉が頭に浮かんだ。

 そんな意図はなかった。だが、そういう構造になっていた。

 自覚の種が、静かに芽吹いていた。

第四章 異臭の少女(新ヒロイン登場)

 転入生が来たのは、梅雨の入りと重なる時期だった。

 名前はセナ・カルロス。隣国の出身で、魔法技術の交換留学プログラムで来たらしい。黒髪を短く切り、制服の着こなしが少し違う。静かな目をしていた。

 クラスの反応は好意的だった。珍しい出身地への興味もあったし、彼女自身の落ち着いた態度が安心感を与えた。ルークは特に関心を持っていないようだったが、アリアは早めに話しかけに行った。

 カインは少し遅れて教室に入り、席について、気づいた。

 匂いだ。

 表現するのが難しかった。強烈、という言葉では足りない。腐敗ではない。化学的でもない。ただ、カインの増幅された嗅覚が受け取った瞬間に「拒絶」の信号を出した。脳が「ここにいるな」と言った。

 スカンクに例えるなら、それは正確ではないがニュアンスは近い。他の誰もが気にしていない。教室の空気は普通だった。

 カインは顔色を変えないように気をつけながら、自分の席に座った。深呼吸をした。アリアの席はいくつか離れている。そちらに意識を向けた。

「大丈夫?」

 昼休み、アリアが気づいて聞いてきた。

「新しい刺激に少し反応した。問題ない」

「転入生のセナのこと?」

「……お前には分からないか」

「何も感じなかったけど」

 やはり自分にだけ届いている。

 カインはそれを確認した。特別な事情がある、あるいは自分の嗅覚の変質が特定の方向性を持つようになった。原因は分からないが、事実としてそこにある。

 セナ本人は何も知らない。

 彼女は昼食を独りで食べていた。転入初日で、まだ誰かと打ち解けていない。

 カインはその方向を、一度だけ見た。

 普通の顔をしていた。

 匂いは、どこから来ているわけでもなかった。

◆  ◆  ◆

 その夜の記録に、カインは書いた。

 新たな要素:転入生セナ。カインにのみ、強烈な不快臭として認識される。他者への影響なし。彼女自身に自覚なし。排熱変質の副産物か、あるいは別の機序か。

 この匂いは何を意味するか。

 アリアの匂いが「快の錨」なら、セナの匂いは「不快の棘」だ。

 構造上の対比として、これは偶然ではないかもしれない。

 カインはペンを置いた。

 偶然かどうかは関係ない。問題は、どう対処するかだ。

第五章 ON/OFF制御(三段階目)

 夏が来た。

 演習の密度が上がり、排熱転送量も増した。カインの五感への負荷は慢性的になっていた。もはや「過負荷の日」と「普通の日」という区別ではなく、常に底上げされた状態が基準になっていた。

 その分、慣れも進んだ。

 転機は、雨の日の屋外演習だった。

 濡れた地面、草の匂い、雨粒が石畳を叩く音。全てが増幅して届く。カインは演習の合間に立ったまま目を閉じ、感覚の「音量」を落とそうとした。

 意識的に、呼吸を整えながら。

 そして気づいた。

 落ちた。

 完全にではない。だが、嗅覚の鋭度が一段階、明確に下がった。自分の意志で。

 カインはもう一度試した。今度は上げる方向で。意識を鼻先に集め、空気の粒を細かく感じ取ろうとした。

 上がった。

 ON/OFF、とは正確ではない。ボリュームのコントロールに近い。だが制御できる、ということの意味は大きかった。

◆  ◆  ◆

 その夜、三人で報告会をした。

「感覚の出力を意識的に調整できるようになった」とカインは言った。「まだ粗い。でも方向性は確かだ」

 ルークは少し考えてから言った。

「それは俺たちには起きない変化だ」

「排熱を受け取る側の適応、ということか」

「かもしれない。記録しておけ」

 アリアは黙って聞いていた。

 嬉しそうだった。だが、その後に来る表情が違った。

 複雑な何かだった。

 部屋に戻って一人になると、アリアはベッドに座ったまま動けなかった。

 カインが強くなっている。

 それは良いことだ。彼が苦しむより、対処できる方がいい。そう思っている。本当に。

 でも。

 暴走したとき、彼が自分の袖を掴んだ。あの感覚がまた頭に来た。

 彼が自分を必要としていたあの瞬間が、自分にとって何かだった。

 何か、というのが怖かった。

 罪悪感だ、とアリアはようやく言語化した。

 彼の苦しみを、自分は何かに使っていた。彼が強くなることへの複雑さも、その延長にある。

 利用していた。構造として。そして感情としても。

 眠れなかった。

◆  ◆  ◆

 翌週、カインは初めてセナと話した。

 図書館で偶然隣になった。彼女は魔法理論の本を読んでいた。カインは感覚制御の文献を探していた。

「その本、参考になる?」

 セナが先に声をかけた。

「探している最中だ。お前は?」

「読み終わった。貸そうか」

 会話は短かった。本の内容について少し話して、それで終わった。

 カインは感覚のボリュームを意識的に落としていた。完全にゼロにはできないが、刺さらない程度には。

 セナは何も知らない。ただ本について話していた。

 普通だった。

 普通に話せた。

 その事実が、カインには小さな発見だった。

第六章 指向制御(四段階目)、そして手放し

 秋になった。

 カインの制御技術は確実に伸びていた。感覚のボリュームだけでなく、「どこに向けるか」を選べるようになってきた。指向制御、と自分で名付けた。特定の対象だけ感度を上げ、他は落とす。

 演習では有用だった。敵の気配だけ拾い、背景の雑音を切る。感覚を武器として使い始めた。

 そして、ひとつの事実に直面した。

 アリアへの嗅覚依存が、選択的になった。

 以前は彼女が近くにいれば自動的に反応していた。だが今は、自分が「向ける」ことを選んだときだけ反応が来る。向けなければ、彼女の匂いも背景に溶ける。

 依存が、まだそこにある。だが意識的に使わなければ発動しない。

 それは依存と呼べるのか。

◆  ◆  ◆

 アリアの変化は、もっと早く始まっていた。

 夏の終わりから、彼女はカインとの距離の取り方を変えていた。近づきすぎないようにしていた。彼が感覚制御を身につけるにつれ、自分が「必要とされる場面」が減っていくのを感じた。

 それを、彼女は手放しと呼ぶことにした。

 ある日の放課後、二人で廊下を歩いているとき、アリアは言った。

「カイン、一つ聞いていい」

「何だ」

「私の匂いへの依存、今はどうなってる?」

 カインは少し間を置いた。

「以前ほど自動的ではない。自分で向けなければ反応しない」

「じゃあ、もう必要ない?」

「今は緊急性がない、というだけだ」

 アリアはしばらく歩いてから言った。

「良かった」

 声が平坦だった。

「……本当に?」とカインが聞いた。

 アリアは止まった。

「本当に、良かった。だけど」

 彼女は続けた。

「私は正直に言う。あなたが私を必要としていたとき、私の中に何かがあった。それを利用していた。そういう構造になっていたし、感情としてもそうだったと思う」

 カインは黙って聞いていた。

「それを認める。謝ることと同じかどうか分からないけど、あなたには知っていてほしかった」

「知っていた」とカインは言った。「最初から構造として分かっていた。お前が意図したかどうかは別の問題だ」

「怒ってない?」

「怒る理由がない。俺も契約を選んだ」

 アリアは少しだけ笑った。だがその目に、空白があった。

 彼女が何かを手放したのだと、カインには分かった。

 それが何かを、彼は聞かなかった。

◆  ◆  ◆

 セナとの接触が増えていた。

 理由は単純で、魔法理論の勉強会が同じグループになったからだ。週に二回、放課後に集まって文献を読み合わせる。

 カインは毎回、感覚のボリュームを落として臨んだ。慣れてきた。不快がゼロにはならないが、会話の妨げにならない程度には制御できる。

 セナは静かな人間だった。必要なことを言い、余分なことを言わない。感情が表に出にくいが、読んでいるものへの集中度から知性が伝わってくる。

「お前の出身国では魔法行使権の年齢制限が違うんだな」とカインが言った。

「そう。あっちは二十歳から。こっちが十八歳だと知って、最初は驚いた」

「同じ人間でも、制度が違えば扱いが変わる」

「あなたは詳しいのね」

「当事者だから」

 セナは少し考えてから言った。

「不公平だと思う?」

「制度はそういうものだ。不公平かどうかより、どう動くかのほうが問題だ」

 セナはそれを聞いて、静かに頷いた。

 その顔が、カインには少し意外だった。

 共感しているような顔だった。

第七章 完全制御(五段階目)、選択

 冬が来た。カインの誕生月だ。

 十二月。来年の元旦には十八歳になり、制度上も成人として魔法行使権を得る。契約は形式上継続されるが、カインが自分で魔法を行使できるようになれば、排熱処理も自分で行える。依存関係は自然に解消される。

 だがその前に、一つの変化が来た。

 ある演習の後、カインは感覚を完全に遮断した。

 意図せず、気づいたら。

 正確には「遮断」ではない。制御の精度が上がりすぎて、全ての感覚を同時に適正レベルに保てるようになった。増幅も減衰もなく、ただ「普通に感じる」状態。排熱が来ても自動的に分散する。

 完全制御、という言葉が頭に浮かんだ。

 試した。

 アリアの方向に、意識を向けた。

 匂いがした。花に似た何か。

 快の反応は、来なかった。

 いや、正確には来たかもしれない。だが、それは今まで感じていた「依存」ではなかった。単に、心地よい匂いとして認識した。

 依存が、切れた。

◆  ◆  ◆

 カインはその夜、アリアを呼んだ。

「報告がある」

「何?」

「嗅覚依存が消えた。完全制御に入ったと思う」

 アリアは少し間を置いてから言った。

「そう」

「確認したかった。お前への反応が変わった。悪い意味ではない」

「分かってる」

 彼女の顔は穏やかだった。だが穏やかさの奥に、薄い空白があった。

 カインはそれを見た。何も言わなかった。

 アリアが先に口を開いた。

「おめでとう」

 一言だった。

 カインは頷いた。「ありがとう」

 それだけだった。

 二人の間の何かが、静かに、完結した。

◆  ◆  ◆

 翌日、カインはセナに話しかけた。

 図書館ではなく、演習場の外、石段のところだった。セナは一人で空を見ていた。

「一つ聞いていいか」

 セナが振り返った。「何?」

「お前の匂いが、俺にだけ届く。他の誰にも分からない。お前自身も気づいていない」

 セナは表情を変えなかった。しばらく黙ってから、

「それは……どういう意味?」

「排熱の影響で嗅覚が変質した。特定の方向に感度を持つようになった。お前の匂いがその対象になっている」

「不快?」

 カインは少し考えた。

「以前は不快だった」

「今は?」

「今は、制御できる」

 セナは静かに息を吸った。

「それを、なぜ今言う?」

「隠す理由がなくなったから」

 セナはしばらく石段の向こうを見ていた。そして言った。

「隠してたの? 今まで」

「配慮していた。お前は何も知らないし、お前の問題でもない」

「でも今は言う」

「今はお前に知っていてほしいと思った」

 セナはカインを見た。

 何かを測るような目だった。長い時間をかけて。

「……分かった」と彼女は言った。「私には何も感じないけど、あなたが感じているのは事実なのね」

「そうだ」

「おかしいと思う?」

「俺自身がおかしい状態にあった。今は違う」

 セナは少しだけ笑った。

「変な人ね」

「そうかもしれない」

 風が吹いた。冬の始まりの、乾いた風だった。

 セナの黒髪が揺れた。

 匂いが来た。

 カインは、それを遮断しなかった。

終章 別に普通

 年が明けた。

 カインは成人になった。制度上の区分が変わった。魔法行使権を得た。排熱処理も自分で行えるようになった。契約は残したが、転送量はほぼゼロになった。

 特別な儀式はなかった。ただ、元旦に手の甲の紋様が少し変わった。それだけだった。

 学年の最後の学期、三人の距離感は落ち着いていた。

 ルークは相変わらず感情を出さないが、カインに対して以前より少し口数が多くなっていた。

 アリアは穏やかだった。何かを手放した人間の、静かな穏やかさだった。

◆  ◆  ◆

 春、ある昼休みに三人が同じ場所にいた。

 外の石段だった。セナも来ていた。四人で特に目的もなく、昼を食べながら話していた。

 ルークがカインに聞いた。

「感覚制御は今どの程度だ」

「完全に安定している。排熱がなくても使える技術になった」

「副作用は?」

「ない。嗅覚が少し鋭いままだが、生活に支障はない」

 アリアが少し笑った。「鋭いままなんだ」

「慣れた」

 セナがカインの方を見た。

「今日も感じる?」

 直接的な問いだった。

「感じる」とカインは言った。

「不快?」

「別に普通」

 セナは少し目を細めた。何かを言いかけて、やめた。代わりに目を前に戻した。

 アリアがその二人を見ていた。

 穏やかだった。穏やかな顔の奥に、小さな空白があった。

 誰も、それを指摘しなかった。

◆  ◆  ◆

 その夜、アリアは日記に書いた。

 カインは「別に普通」と言った。私の匂いへの依存が消えたのと同じ声で。同じ温度で。

 彼は制御を手に入れた。依存を切断した。不快を受け入れた。そして選んだ。

 私は何かを手放した。何を手放したのかは、まだ全部は分からない。

 でも多分、それで良かった。

 彼が強くなったのは事実だ。私たちの契約がなければ、そうはならなかったかもしれない。

 それを誇ることは許されないと思う。

 でも。

 少しだけ、誇りたかった。

◆  ◆  ◆

 翌朝、カインは演習場へ向かった。

 春の空気の中に、いくつもの匂いが混じっていた。

 草、土、誰かの朝食、石畳の冷たさ。全部届いた。全部、ただそこにあった。

 刺さらなかった。

 遠くにセナが立っているのが見えた。こちらに気づいて、少し手を上げた。

 カインも少し手を上げた。

 風が吹いた。

 匂いが来た。

 カインは歩き続けた。

 何も言わなかった。

 何も、する必要がなかった。

 これが、終わりだ。

 制度に分断された三人が、それぞれの場所に辿り着いた話。

 カインは制御を得た。アリアは空白を得た。セナは、まだ何も知らないが、それでも何かを受け取った。

 不快からの選択。

 依存からの自立。

 制度の線の上で生きる、三人の話。

第十五章

転校

転校初日、教室の引き戸を開けた瞬間、すでに失敗していた。

担任が前で何か喋っていた。聞いていなかった。

「藤原唯花です。よろしくお願いします」

頭を下げた。顔を上げた。

教室の一番後ろの席で、誰かがこっちを見ていた。

目が合った。

「ああーいいなぁおっぱい大きくて!あ、ちょっと攻めた水着着たら?」

教室が静かになった。

担任が固まった。

誰も笑わなかった。誰も止めなかった。慣れている顔だった。

私は何も言えなかった。

上手く言えないけど、秒で負けた。完敗だった。

「席は……二木さんの後ろが空いてるので、そこに」

担任が指した席は、さっきの声がした席のすぐ前だった。

歩いた。座った。

後ろから声がした。

「ねー、出身どこ?」

「金沢」

「金沢から小松、近いね。なんで来たの」

「親の都合」

「そっか」

それで終わりだった。

休み時間になった。

「藤原さん」

振り返った。

「神保って言います。よろしく」

神保。

「藤原さんって、なんか持ってるよね」と神保は言った。

「何を」

「人を見る目。さっき教室入ってきたとき、私のこと一瞬で値踏みしてたでしょ」

否定できなかった。

「神保さんも何か持ってる気がする」と私は言った。

「私? 別に何も」

「さっきの一言、教室の空気変えたよね」

神保はしばらく黙った。

「あー、だるー」とだけ言った。

意味がわからなかった。

転校して二週間ほど経った頃、神保が言った。

「夏休み、海行こうよ」

「誰と」

「私と。あと二木さんも誘う」

予定はなかった。断る理由もなかった。

「いいけど」

「水着、新しいの持ってる?」

「去年のでいいかなって」

神保はすぐに首を振った。

「だめ。買いに行こう」

「なんでだめなの」

「最初に言ったでしょ。攻めた水着着たら、って」

忘れていなかった。むしろ覚えていたことに驚いた。

「あれ、本気だったの」

「もちろん」

数日後、小松のショッピングモールに連れて行かれた。

水着売り場で、神保は次々に手に取っていった。

「これは違う」「これも違う」「あ、これ」

最後に渡されたのは、自分なら絶対に選ばない一枚だった。

「これは無理」

「なんで」

「攻めすぎてる」

「攻めた水着でって、最初に言ったじゃん」

「冗談だと思ってた」

「冗談で言うわけないでしょ、こんなこと」

試着室に押し込まれた。

着替えた。鏡を見た。

似合っているかどうかより先に、恥ずかしさが来た。

カーテンを開けた。

神保が満足そうに頷いた。

「いいじゃん」

「いいじゃんで済む話じゃない」

「似合ってる」

「似合ってるとか言ってない」

二木が横で苦笑していた。

「藤原さん、諦めた方が早いよ。神保さんがこうって決めたら、もう決定だから」

「決定権、私にはないの」

「ないよ」

理不尽だった。理不尽なのに、誰も悪いと思っていなかった。

会計のとき、神保は当然のように自分の分も買っていた。自分にはもっと普通の、無難な一枚を選んでいた。

「自分は普通のでいいんだ」

「うん。私は別にいい」

「私だけ攻めさせるの」

「藤原さんとは違う理由で恥ずかしいから」

「違う理由って」

神保は少し黙った。

「凹凸が足りない」

「え」

「攻めた水着、着る理由がない。着ても、なんかただの布になる」

予想していなかった答えだった。

「神保さんも気にするんだ、そういうの」

「気にするよ。当たり前でしょ」

意外だった。他人の才能を一瞬で見抜いて、配置して、デリカシーもなく言い放つ人が、自分のことだけはこんなに普通に気にしている。

「だから、藤原さんが羨ましい」

「羨ましいなら、なんで自分も攻めないの」

「ないものをあるように見せるのは、無理だから。あるものを活かす方が早い」

理屈は通っていた。それでも、なんとなく寂しそうに見えた。

海の日、神保が選んだ水着を着て、私は砂浜に立っていた。

「なんだったんだ、これ」

誰にも聞かれない声で、つぶやいた。

答えは出なかった。

ただ、神保は満足そうに笑っていた。

那谷寺の境内に、太鼓の音が響いていた。

「神道火祭り」と看板に書いてあった。

護摩壇に火が入った。タイマツが並んでいた。風に炎が踊っていた。

「これ見たかったんだよね」と神保が言った。

「神保さんがこういうの好きだとは思わなかった」

「火、好きなんだよね。なんか落ち着く」

意外だった。普段の「あー、だるー」とはかけ離れた目をしていた。

特設の舞台があった。

浴衣を着た人物が立っていた。

背が低かった。中性的だった。男なのか女なのか、立ち姿だけでは判断がつかなかった。

マイクを構えた。

「寺前傑です。聞いてください」

声が出た瞬間、わかった。男だった。声は高めで、それでも芯があった。

イントロが鳴った。

太鼓の音から始まったはずなのに、途中から吠えるようなギターが入ってきた。ドラムが跳ねた。火祭りの静かな雰囲気とは全く違う音だった。

タイトルは「炎の舞」だと、誰かが言っていた。

寺前が歌い出した。

「夜空に揺れる クレナイのヒよ」

見た目に対して、声量が出すぎていた。

頼りなさそうな立ち姿のまま、サビに入ると一気に音が膨らんだ。

「炎のマイ 心を清め」

周りの女子の一部が、声を上げ始めた。

「きゃー」

私はその声を聞いて、なんとなくわかるような気がした。

見た目と、出てくる音の落差。それだけで、人はやられる。

激しいギターとドラムが、寺前の中性的な見た目と対照的すぎて、かえって映えていた。

「ヒノコがソラを 白く染めて」

最後の一音まで、声が一切ブレなかった。

歌い終わった瞬間、境内が拍手で埋まった。

寺前はぺこりと頭を下げた。お辞儀の仕方まで、どこか頼りなかった。

「誰、あの人」と私は神保に聞いた。

「知らないの? 寺前くん」

「知らない」

「結構有名だよ。TikTokで」

「何やってる人」

「お悩み相談ライブ」

「お悩み相談」

「うん。なんか、声が落ち着くからって人気あるみたい」

火祭りの炎が、まだ揺れていた。

寺前は舞台の隅で、誰かに話しかけられて、控えめに頷いていた。

なんだったんだ、あの人。

翌日、スマホを見ていたら、寺前のライブが流れてきた。

通知をタップした。

画面に寺前が映っていた。浴衣ではなく、普通のシャツを着ていた。

コメントが流れていた。

『痴漢にあって、何もできませんでした』

都会の女の子からの相談らしかった。

寺前は少し考えて、答えた。

「いやー、痴漢マジでなんもできないですよww きもいけど、男同士でも声ひとつで出ませんので」

コメント欄が一瞬止まった。

「僕の場合はオッさんでしたけど!」

笑い声のスタンプが画面いっぱいに流れた。

同時接続数が、見ている間にどんどん増えていった。

百人を超えていた。

私はその数字を見ていた。

昨日の火祭りで見た、頼りなさそうな見た目と、吠えるようなギターの落差。今日見ているのは、もっと別の種類の落差だった。

中性的で、声が高くて、頼りなさそうな男が、痴漢に遭った経験を笑い話として軽く出して、それで誰かの相談に答えている。

普通なら誰も言えないことを、誰よりも軽く言っていた。

軽さの裏に何があるのか、私にはわからなかった。

わからないまま、同接の数字だけが増えていった。

なんだったんだ、あの人。

二度目だった。

寺前は次のコメントを読んでいた。

『先生に告白して振られました』

「あー、それはありますね」

寺前は少し笑った。

「僕、中学のとき誤爆告白されたことありますよ」

コメント欄が「誤爆?」で埋まった。

「違う学校の男子から、LINEで告白されたんです。たぶん、僕のこと女子だと思ってたっぽくて」

「最初は普通に喜んじゃったんですよ、僕も。可愛いって言われたことなかったから」

「でも返信したら、向こうがめちゃ慌てて。『え、男なんですか』って」

「気まずいまま、それで終わりました」

コメント欄が笑いと同情で埋まっていった。

「いや、僕は別に傷ついてないですよ。むしろ、あれで自分の見た目が結構誤解されやすいって自覚しました」

「でも告白した方は、たぶん今でも黒歴史だと思ってます。会ったら謝りたいくらい」

「もし見てたらごめんなさい、元気ですか」

コメント欄が「優しい」「いい人」で埋まっていった。

私はその様子を画面の向こうで見ていた。

痴漢の話と、誤爆告白の話。どちらも普通なら隠したいはずの経験を、寺前は同じくらいの軽さで出していた。

軽さに、嫌な感じがなかった。

それが一番不思議だった。

「映画行こう」と神保が言った。

「いいけど、誰と」

「私と、もう一人」

新小松イオンの前で、神保が誰かに手を振った。

「栞ちゃん、こっち」

歩いてきたのは、見たことのない女の子だった。黒髪が長かった。

「初めまして」と栞は言った。「日向栞です」

「藤原唯花です」

お互い、それ以上は言わなかった。

「栞ちゃんとは、大杉神社で会ったの」と神保が言った。

「神社で?」

「うん。たまたま」

それ以上の説明はなかった。

映画館に入った。

「クウとカイ」という看板があった。生き別れの双子の話、らしかった。

「これでいいの」と私は聞いた。

「いいでしょ。話題になってるし」

席に座った。

予告が終わって、本編が始まった。

オープニングのタイトルが出た瞬間、画面が静かに止まった。

次の瞬間、絶叫が聞こえた。

劇場の音響全部を使った、叫ぶようなボーカルだった。

ギターが吠えた。ドラムが跳ねた。間奏に入ったと思ったら、また声が吠えた。

どこからあの声出してんの。

歌っているのは、霧島リズという名前だとエンドロール前のクレジットで知った。

「霧島リズ」

知っている名字だった。

「神保さん、霧島って——」

「ああ、あの曲? すごいよね」

それだけだった。説明にならない返事だった。

「霧島さんって人、知り合いとかいる?」

「いっぱいいるよ、霧島。県内どこにでもいる」

質問の答えになっていなかった。なっているようにも聞こえた。

栞は何も言わなかった。スクリーンを見ていた。

映画が始まった。

双子の片方が、もう片方を探す話だった。

オープニングだけ場違いに激しくて、本編は静かな映画だった。

そのギャップを、誰も気にしていないようだった。

私だけが、まだ耳の奥で絶叫の余韻を聞いていた。

なんだったんだ、あの曲。

数日後、文化祭の準備期間に入った。

クラスの出し物が決まらないまま、実行委員が頭を抱えていた。看板制作、進行台本、音響、衣装——どれも担当が決まらない。

神保が教室の後ろから言った。

「あー、だるー。あ! あいつにやらそう!」

指を差した。

クラスメイトの一人が固まった。

「俺?」

「うん。看板、絶対得意でしょ。中学の文化祭の写真、見たことあるもん」

「いや、あれは美術部が——」

「描いたの自分でしょ」

クラスメイトは何も言えなくなった。

神保はまた指を差した。

「進行台本は、あの子」

別の女子が固まった。

「私、台本とか書いたことな——」

「文芸部の部誌、読んだよ。構成うまかった」

「読んでたの」

「うん」

神保は次々に指を差していった。音響、衣装、設営。

誰も拒否しなかった。

拒否できる雰囲気ではなかった。それなのに、誰も嫌そうな顔をしていなかった。

私はその様子を見ていた。

割り振られた仕事は、どれも本人がうっすら自覚していて、誰にも言わなかった得意分野だった。神保がどうやって知ったのかは、誰も聞かなかった。

文化祭の準備が始まった。

クラスが、思っていたより早く動き出した。

私は神保の後ろ姿を見た。

神保は自分の分担を決めていなかった。

「神保さんは何やるの」

「私?」

神保は少し考えた。

「あー、だるー」

それで終わりだった。

文化祭の準備が進むにつれて、私は神保を観察するようになった。

観察する側のつもりだった。

でも見ているうちに、見られているのは自分の方かもしれないと思うようになった。

私は才能を見つけるのに時間をかける。何度も話して、何度も確かめて、これくらいの値段ならつけられる、というところまで降りていく。

神保は一瞬で済ませる。確かめない。値段もつけない。ただ配置するだけだ。

しかも配置を間違えない。

マラソンランナーに百メートルを走らせるようなことを、神保は絶対にしない。長距離型を短距離に放り込んで潰す、ということが起きない。誰にどの距離を走らせるか、神保には最初から見えている。

「神保さんって、人のことすぐわかるよね」と私は聞いた。

「わかんないよ」

「さっきも一瞬で配役決めてたじゃん」

「あれは見えてるだけ。わかってるわけじゃない」

「見えてるって何が」

神保は少し考えた。

「自分のことを自分が一番理解してるとか、傲慢だと思う」

意味がわからなかった。

「人は他人のことはよく見えて、自分のことを何も知らない。だから本人に聞いても無駄。聞くだけ時間の無駄。見ればわかる」

私は何も言えなかった。

神保は別の生徒の方を見て、「あ、あいつにやらそう」と言って歩いていった。

私はその場に立っていた。

わたし、何やってたんだろう。

何度も話して、何度も確かめて、値段をつけて。それは丁寧なつもりだった。誠実なつもりだった。

神保は確かめない。聞かない。一瞬で見て、配置して、終わる。それで誰も間違えない。

時間をかけることが、丁寧さの証拠だと思っていた。

そうじゃなかったのかもしれない。

時間をかけていたのは、私が見えていなかったからだ。

神保には最初から見えていた。だから時間がかからなかった。

私が今までやっていたことは、見えないものを、時間で無理やり埋めていた作業だったのかもしれない。

それに気づいた瞬間、何かが少し、崩れた。

崩れたのに、嫌な感じはしなかった。

放課後、教室に残っていたのは数人だった。

クラスの男子の一人——進行台本を任された子——が、神保の席の前に立っていた。

何かを言おうとして、なかなか言葉が出てこなかった。

私は離れた席で課題をやっているふりをしていた。聞いていないふりをするのは得意だった。

「あの、神保さん」

「うん?」

「俺、神保さんのこと——」

そこまで言って、止まった。

神保は別に焦らせなかった。ノートに何か書きながら、待っていた。

「好きです」

教室が一瞬、静かになった。

神保は手を止めた。

しばらく、その男子を見ていた。

「ありがとう」

「あの——」

「でも、私はやめた方がいい」

男子が固まった。

「なんで——」

神保は少し考えた。それから、教室の反対側を指差した。

「〇〇くんには、ゆいかちゃんがお似合い」

私はノートから顔を上げた。

「え」

「気づいてないでしょ。気配り屋で観察力あるとこ、ゆいかちゃんと似てる。波長合うと思う」

男子は何も言えなくなった。

神保はそれから、男子の方をまっすぐ見た。

「あと、おっぱい星人!」

声が大きかった。

「バレてんのよ!」

男子の顔が一瞬で赤くなった。

「な——なんで知って——」

「隠してるつもりだった?」

男子は何も言えなくなった。

教室にいた数人が一斉にそっちを見た。

私は固まった。自分が話を振られたわけではないのに、急に名前を出された方が落ち着かなかった。

神保はノートを閉じた。荷物をまとめ始めた。

「ちょっ——」と私は言った。

「なに?」

「私と〇〇くんが、波長合うって、何を根拠に」

「見ればわかる」

「見ただけで?」

「見ればわかるって言ってるじゃん」

神保は荷物を持って、教室を出ていった。

途中で一回も振り返らなかった。

男子はまだ顔が赤いまま、その場に立っていた。

私はノートを見た。

何も書いていなかった。

なんだったんだ。

今度は、新しい意味だった。

文化祭が近づくにつれて、神保は「現場監督」と呼ばれるようになった。

誰が言い出したのかは覚えていない。気づいたら誰もが「現場監督」と呼んでいた。神保自身もそれを否定しなかった。

配置は文化祭が近づくほど過激になっていった。

柔道部の男子が、舞台の大道具を運ばされていた。重量物を一人で軽々と持ち上げて、誰も手伝う必要がなかった。

「神保さんが、これは俺にしかできないって言うから」と柔道部の男子は言った。

事実だった。誰も持ち上がらなかった荷物を、彼だけが涼しい顔で運んでいた。

放送部の女子が、謎の演説原稿を読まされていた。文化祭の開会宣言にしては妙に長く、妙に熱量が高い文章だった。

「内容、どこから持ってきたんですか」と私は聞いた。

「神保さんが書いた」

「神保さんが」

「うん。読んでみたら、自分の声に妙にハマって。なんか、こう……語れる気がした」

放送部の女子は、自分でもよくわかっていない顔をしていた。

吹奏楽部が、聞いたことのない曲を演奏していた。リズムが普通じゃなかった。途中で拍子が変わって、また戻った。

「曲、誰が決めたんですか」

「神保さんが持ってきた」

「これ、何の曲ですか」

吹奏楽部の部長が楽譜を見た。

「タイトル、ないんですよ。神保さんが『これしかない』って言って渡してきて」

私はその楽譜を見た。

見覚えのある旋律が、断片的に混ざっていた。どこかで聞いた気がした。

うまく言葉にできなかった。

クラスの演劇は「七ひきのこやぎ」になった。

神保が決めた。理由は特に説明されなかった。

「なんでこれ?」と私は聞いた。

「人数がちょうどよかった」

「人数」

「七匹、オオカミ、赤ずきん、お母さんヤギ。九人。クラスの暇そうな子が九人だった」

理屈になっていた。なっていないようにも聞こえた。

台本を読んだ。

お母さんヤギが森に出かける前に、合言葉を子やぎたちに教える。「金沢城ができる前の城の名前は何?」

正解は尾山御坊。

オオカミが三回来る。一回目と二回目は、合言葉に答えられず黙って帰る。三回目、オオカミは「尾山神社」と答えた。

不正解だった。

それでも子やぎたちは扉を開けた。

火縄銃、槍、石、熱湯、蜂の巣、臼、唐辛子。

七匹全員が武装していた。

オオカミは帰れなかった。

「これ、不正解でも開けてるけど」と私は神保に言った。

「うん」

「なんで開けたの」

「正解しなかったから」

「正解しなかったら、開けちゃ駄目なんじゃないの」

「正解しなかった時点で、お母さんでも知り合いでもないって確定する。だから開けて、容赦なく迎撃する」

私は少し黙った。

「警戒して閉めとく、じゃないんだ」

「閉めとくのは、まだ可能性があるときだけ。不正解になった瞬間、可能性は終わってる。だったら閉める意味がない」

理屈は通っていた。通っているのが、少し怖かった。

台本の続きを読んだ。

片付けが終わった後、赤ずきんが来る。合言葉に正しく答える。「尾山御坊」——そこから尾山御坊の歴史を、誰も求めていない詳しさで延々と説明する。

子やぎたちは黙って聞く。

赤ずきんは森八の羊羹を届けに来ただけだった。お母さんヤギに頼まれた、という話だった。

子やぎたちは何も聞かなかった。羊羹を受け取って、切って、七匹で食べた。

おしまい。

最後の一行に、教訓が書かれていた。

「もりへは、きをつけて。」

私は台本を閉じた。

「お母さんヤギ、結局帰ってこないんだね」

「うん」

「それ、誰も気にしないの」

「気にしてたら話が進まないでしょ」

私は何も言えなかった。

配役表を見た。

オオカミ役は、さっき神保に「自分のことを自分が一番理解してるとか、傲慢」と言われた、告白した男子だった。

なぜその配役になったのか、聞かないことにした。

聞いても、たぶん理屈が通っている答えが返ってくる。それが一番怖かった。

なんだったんだ、この台本。

放課後、台本を抱えたまま、神保の席に行った。

「これ、誰が書いたの」

「くろきち」

「誰?」

「くろきち。霧島玄」

「玄って、くろって読むんだ」

「うん。本名」

「霧島クロって名乗ってるの、知ってたから、てっきりペンネームの方から来てるのかと」

「ううん、玄をくろって読むの、最初からそう。玄人のくろうとから来てるんだって」

「玄人」

「うん。プロってことでしょ。名前からして、もうプロ宣言されてる」

そう考えると、霧島クロという名乗りは、ペンネームというより、本名の読みをそのまま据え置いただけのものだったのかもしれない。

「だからきちんと『くん』とか『さん』つけるの、なんか性に合わない」

「音楽の方は?」

「トッキー」

「トッキー」

「智樹だから、トッキー」

「智樹って、もしかして蒼井——」

「うん、蒼井智樹」

知っている名前だった。聞いた瞬間、何かが少し痛んだ。前に好きだった人だ、ということは言わなかった。

「あの曲、頼んだの」

「頼んだっていうか、渡されたから使った」

「渡された」

「あいつ、誰にも頼まれてないのに勝手に曲作って、勝手に持ってくる。今回もそう。だから使った」

「丸投げって言うより、押し付けられてる側なのかも」

「そう。私、何も作ってない。くろきちが書いて、トッキーが作って、私は配っただけ」

「それでいいの」

「いいでしょ。私が書いても、たぶんあの台本より面白くならない。曲も作れない」

理屈は通っていた。

「神保さんは、何ができるの」

「あー、だるー。聞かれるの、それ一番だるい」

神保は荷物をまとめ始めた。

「今日もこれから大杉神社行くの?」と私は聞いた。

「うん」

「精神統一って噂で聞いたけど」

神保は一瞬、止まった。

「精神統一」

「うん。小さい頃から通ってるって」

「ああ、それね」

神保は荷物を肩にかけた。

「あれ、寝てるだけ」

「え」

「銀杏の木の下、めちゃ涼しいの。風通しもいいし、誰も来ないし。気づいたら一時間とか経ってる」

「それ、精神統一じゃなくて」

「うん、ただ寝てる」

「噂と違う」

「噂の方が、なんか格好いいから否定してない」

神保は教室を出ていった。

私はその場に立っていた。

なんだったんだ。

くろきちもトッキーも、自分では何も作らない現場監督に振り回されて、それでも誰も損をしていなかった。精神統一という嘘の下で、本人はただ涼しい木陰で眠っているだけだった。

それなのに、全部がうまく回っていた。

うまく回りすぎていて、少し怖かった。

配役発表の日、唯花の名前が呼ばれた。

「お母さんヤギ、藤原さん」

私は耳を疑った。

「え」

「お母さんヤギ」

「私、出演者だったの」

「決まったの今」

教室がざわついた。

「ちょっと待って」と私は神保に言った。「なんで私」

神保は何でもないことのように言った。

「背高いし、おっぱいでかいから」

教室が静かになった。

「は」

「お母さんヤギ、堂々として見える方がいいでしょ。藤原さん、立ってるだけで説得力あるもん」

なんつー理由だよ。

この女の辞書に「デリカシー」の文字はないらしい。

「他に理由ないの」

「ある。声も通るし、暇そうだったし」

「暇そうって」

「忙しそうな子に渡すと可哀想じゃん」

それは一応、配慮らしきものだった。配慮の方向性がおかしいだけだった。

「お母さんヤギ、最初に出てきてすぐ退場するだけの役だよね」

「うん。楽でしょ」

「楽だけど、配役理由が体型なのはどうなの」

「体型も才能のうちでしょ」

理屈は通っていた。通っているのが、一番腹立たしかった。

二木が小声で言った。

「藤原さん、災難だね」

「うん」

「でも神保さん、悪気ないからね、それが」

「それが一番タチ悪い」

二木は何も言わなかった。否定もしなかった。

私は台本のお母さんヤギの台詞を見た。

「子やぎたちよ、戸を開けてはいけませんよ」

その一言だけ言って、森に出かけて、そのまま戻ってこない役だった。

出番は数十秒だった。

それだけのために、私は今日、自分の体型を公開の場で理由にされた。

なんだったんだ。

今度のは、一番納得できない種類の「なんだったんだ」だった。

「赤ずきんは、橘さん」

教室がまたざわついた。

演劇部の橘が、軽く手を挙げた。

「私でいいの?」

「うん」

「セリフ量、エグいけど」

「知ってる。だから橘さんにした」

橘は台本を受け取って、尾山御坊の歴史を語る部分のページをめくった。

声に出して読み始めた。

「尾山御坊は、永正三年、加賀一向一揆の拠点として——」

教室がしんとした。

聞いている全員が、台詞だと思っていないような顔をしていた。

橘は最後まで一息で読み切った。誰も飽きていなかった。

「すごい」と誰かが言った。

「ただの歴史の説明文だったよね、今の」

「うん。でも橘さんが読むと、なんか聞ける」

神保は満足そうに頷いた。

「でしょ。橘さんじゃないと、あの量、誰も聞いてくれないから」

私はその様子を見ていた。

お母さんヤギの私は、一言だけ言って退場する。赤ずきんの橘は、誰も求めていない長尺の解説を、聞かせる演技力で押し切る。

配役の重さが、まったく釣り合っていなかった。

それでも、誰も間違っているとは思っていなかった。

橘は明らかに、この役を楽しんでいた。

私は台本をもう一度見た。

お母さんヤギの出番は、やっぱり数十秒だった。

なんだったんだ。

衣装合わせの日、神保が紙袋を持ってきた。

「お母さんヤギの衣装、これね」

取り出されたのは、浴衣だった。

柄が、尋常じゃなく派手だった。大輪の花が全身に咲き乱れていて、色も原色が何種類も重なっていた。

「これ、どこから持ってきたの」

「粟津温泉の旅館。不要になったやつ、もらってきた」

「もらってきたって、こんな派手なの、誰が着るの」

「藤原さんが着るんだよ、今から」

体操服の上に、その浴衣を羽織らされた。

下は普通に体操服のままだった。柄も生地も、舞台用に見せるための簡易な羽織り方だった。

鏡を見た。

露出は、どこにもなかった。首も腕も、体操服に隠れていた。柄が派手なだけで、肌は何も出ていなかった。

それなのに、なぜか恥ずかしかった。

「なんで、これだけ恥ずかしいの」

「似合ってるからじゃない」

「似合ってるとかの話じゃなくて」

二木が横から覗き込んだ。

「うわ、なんかエロいね、それ」

「露出ないのに?」

「うん。なのに、なんか変な感じする」

理由がわからなかった。胸の強調も、肌の露出も、ゼロだった。それなのに、無駄にエロかった。

神保が満足そうに頷いた。

「いいね。やっぱり思った通り」

「思った通りって、何が」

「藤原さんは、隠すと逆に効くタイプ」

「効くって何に」

神保は答えなかった。ただ笑っていた。

私は浴衣の袖を見た。

体操服の袖が、浴衣の袖からちらっと見えていた。アンバランスだった。アンバランスなのに、変に目を引いた。

リハーサルが始まった。

「子やぎたちよ、戸を開けてはいけませんよ」

その一言を言うために、私はこの派手な浴衣を着ていた。

数十秒で退場する役に、こんな手間のかかる衣装がついていることの意味を、誰も説明しなかった。

なんだったんだ、この浴衣。

家に帰っても、浴衣はバッグの中に入れたままだった。

返さなくていいのか、聞くのを忘れた。

部屋に入って、バッグから取り出した。

もう一度広げてみた。

派手だった。学校の蛍光灯の下で見たときよりも、部屋の柔らかい光の下だと、柄の重なりがもっと目立った。

着てみるつもりはなかった。

ただ、広げて、しばらく見ていた。

気づいたら、体操服に着替えて、その上に羽織っていた。

鏡の前に立った。

誰もいない部屋だった。

それなのに、頬が熱くなった。

「なんでこんなに恥ずかしいの」

声に出してみたが、答えは出なかった。

体操服に隠れて、肌はどこも出ていない。誰の目もない。それなのに、心臓が変な速さで動いていた。

神保の言葉を思い出した。

「藤原さんは、隠すと逆に効くタイプ」

効くって、誰に対して効くのか。今この瞬間、効かせる相手なんて、どこにもいなかった。

それでも、鏡の中の自分を見ているだけで、落ち着かなかった。

袖を少し直してみた。

意味もなく、もう一回直した。

スマホが鳴った。

二木からのメッセージだった。

『浴衣、まだ持ってる? 写真送って』

指が止まった。

写真を撮るところを想像した。それだけで、また顔が熱くなった。

『今ちょっと無理』と返した。

『なんでー』

『無理』

それ以上は答えなかった。

浴衣を脱いで、丁寧に畳んだ。

畳んでいる間も、まだ何かが落ち着かなかった。

なんだったんだ、これ。

理由がわからないまま、浴衣をバッグに戻した。

「七ひきのこやぎ」の上演が終わって、クラスの出し物の枠が空いた。

文化祭の特設ステージは、クラスの出し物だけでなく、有志のパフォーマンスも受け入れていた。神保が、その枠に唯花を勝手にねじ込んでいた。

「歌う」と言われたのは、出番の十分前だった。

「は」

「歌う。これ」

スマホで音源を渡された。タイトルは「声にならない叫びを抱いて」。

「いつ練習するの」

「今から」

ステージ裏に押し込まれた。浴衣——粟津温泉の、あの派手な浴衣——をもう一度着せられた。

「これ、文化祭の出し物用じゃなかったの」

「これも文化祭の出し物だから、いいでしょ」

理屈になっていなかった。なっているようにも聞こえた。

歌詞を渡された。冒頭がいきなり絶叫から始まる構成だった。

「これ、本当に私が歌うの」

「うん」

「無理がある」

「大丈夫。藤原さん、声出るタイプだから」

出るかどうかの話ではなかった。

舞台袖で、出番を待った。

隣に誰か立っていた。

見覚えがあった。

「あ、火祭りの——」

「寺前です」

「藤原です」

「次、僕の出番なんですけど」

「私も今からです」

寺前が制服のジャケットを直していた。学校指定の、見覚えのあるデザインだった。

「その制服、もしかして——」

「同じ学校ですよ」

「え」

「藤原さん、転校生でしょ。僕も去年、県外から来たので」

知らなかった。今初めて聞いた。

「なんで今まで会わなかったんですか」

「クラス違いますからね。あと、僕、教室にあんまりいないので」

理由になっているのか、わからなかった。

「火祭りで会ったときは——」

「あれもただの偶然です。趣味でライブしてただけで」

ステージの司会の声が聞こえた。

「次は、藤原唯花さんによる弾き語り——あ、すみません、フルバンドでお願いします」

弾き語りではなかった。神保がいつのまにか吹奏楽部とバンドを組ませていた。

「行ってきます」

「頑張ってください」

寺前の声は、相変わらず落ち着かなかった。それでも、不思議と励みになった。

ステージに出た。

イントロが鳴った。

そして、いきなり絶叫した。

自分の声とは思えなかった。

客席が一瞬、固まった。

「サトゥルマス サトゥルマス」

歌詞の意味はわからなかった。それでも声は出た。出るというより、勝手に出た。

浴衣の袖が揺れた。露出はどこにもないのに、ステージの照明の下で、なぜか視線が集まっているのがわかった。

歌い終わった瞬間、拍手が起きた。

予想していたより、大きかった。

舞台袖に戻ると、寺前が次の出番に向かっていた。

「すごかったです」と寺前は言った。

「ありがとうございます」

「僕も、頑張ります」

寺前がステージに出た。

別の曲だった。「炎の舞」ではない、聞いたことのない曲だった。

歌い始めた瞬間、また客席がざわついた。

中性的な見た目から想像できない音域と声量が、また会場を支配していた。

私は舞台袖で、それを聞いていた。

同じ学校で、今まで一度も会わなかった人。今日、二度も同じステージに立った人。

なんだったんだ、今日。

二回分、まとめての「なんだったんだ」だった。

「声にならない叫びを抱いて」のクレジットを、もう一度確認した。

作詞作曲、闇源氏。

「闇源氏って誰なのよ」

検索しても、まともな情報は出てこなかった。SNSのアカウントもなければ、顔写真もない。曲だけが、ぽつぽつとあちこちに置かれている。

「神保さん、これ誰の曲なの」

「知らない」

「知らないのに歌わせたの」

「いい曲だったから、いいでしょ」

理屈になっていなかった。なっているようにも聞こえた。

文化祭が終わった後、寺前と話す機会があった。

「寺前さんが歌ってた曲も、誰の曲なんですか」

「ああ、あれも闇源氏さんの曲です」

「同じ人」

「みたいですね。僕も人から渡されただけなので、よくわからないんですけど」

「誰にもらったんですか」

「知り合いの神主さんです」

知り合いの神主さん。

聞いたことのある単語だった。どこの神社かまでは聞かなかった。

「闇源氏って、結構曲提供してるんですかね」

「みたいですね。検索しても出てこないのに」

二人とも、同じ謎の作家の曲を、別々の経路で歌わされていた。

「なんだったんだ、闇源氏」

寺前も、少し笑いながら頷いた。

「僕も、それ思いました」

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第十六章

よいこのおとぎばなし

猿かに合戦

 秋の夕暮れだった。

 猿は柿を持って帰る途中だった。

 角を曲がったところで、取り囲まれた。

 加能ガニ一杯と、子がに二十杯だった。

「おい」と加能ガニが言った。「その柿、よこせ」

 猿は断った。

 断った瞬間、足元に昆布が撒かれた。

 滑った。倒れた。

 上から臼が落ちてきた。

 動けなくなった。

 蜂が刺した。昆布が巻きついた。子がにが二十杯、全員で挟んだ。

 栗が火の中から飛んできて、顔を焼いた。

 所持金を全部取られた。

 加能ガニが去り際に言った。

「また来い。毎回恵んでやる」

 笑い声が遠ざかった。

 猿は地面に転がったまま、しばらく動けなかった。

 空が暗くなった。

 生きていた。

 それだけだった。

 冬の間、猿は読んだ。

 五輪の書。地・水・火・風・空。

 繰り返し読んだ。

 春になっても読んだ。

 夏になって、読み終えた。

 秋になった。

 夜明け前、猿は山を下りた。

 持っているのは三つだった。

 火縄銃。蛇槍(じゃやり)。日本刀。

 苦労して手に入れた蛇槍だった。この日のために徹底して手入れしていた。六・三メートル。

 馬が一頭、後ろにいた。

 生きて帰るつもりはなかった。

 帰れたらそれでよかった。

 加能ガニの家は川沿いにあった。

 夜明けの霧の中に、輪郭が見えた。

 猿は木の陰に伏せた。

 火縄銃の筒先を向けた。

 栗が、家の前の石の上にいた。

 朝の空気を吸っていた。

 引き金を引いた。

 銃声が山に響いた。

 栗は動かなくなった。

 銃声で家の中が騒いだ。

 声がした。足音がした。

 猿は馬に跨った。

 槍を構えた。

 奇声を上げた。

 馬が走り出した。

 子がにAが飛び出してきた。

 馬の前脚が蹴った。

 子がにAは飛んだ。着地しなかった。

 子がにBが横から来た。

 後脚で踏んだ。

 子がにCとDが並んで来た。

 馬が走り抜けた。二杯とも下に消えた。

 子がにEが槍の穂先に気づかずに突っ込んできた。

 子がにFGHが後ろから回り込んだ。

 馬が旋回した。三杯まとめて蹄の下になった。

 子がにIJKが遠巻きに様子を見ていた。

 猿は槍を横に薙いだ。

 三杯が宙を舞った。

 子がにLMNOPが散開した。

 馬を走らせた。一杯ずつ踏んだ。五杯全員踏んだ。

 子がにQRが家の陰に隠れた。

 猿は馬を止めた。降りた。

 家の裏に回った。

 QとRが背中を向けていた。

 槍で突いた。二杯まとめて。

 子がにSが屋根の上にいた。

 猿は槍を投げた。

 Sは落ちた。

 子がにTが残っていた。

 遠くで立っていた。動かなかった。

 猿はTを見た。

 Tは逃げなかった。

 猿が目の前まで来た。

 Tは目を閉じた。

 猿は槍を突いた。

 子がに二十杯、全員いなくなった。

 昆布が来た。

 足元に巻きつこうとした。

 猿は槍を下ろした。

 真っ二つにした。

 蜂が来た。

 猿は槍を水平にした。

 真っ二つにした。

 臼が屋根の上にいた。

 上から飛んできた。

 猿は横に一歩ずれた。

 臼は地面を叩いた。

 猿は槍を突き刺した。

 臼を引きずって川へ歩いた。

 川に投げ込んだ。

 臼は流れていった。

 二度と戻ってこなかった。

 猿は家の周りを歩いた。

 腰の袋からごま油を撒いた。

 一周撒いた。

 火をつけた。

 炎が上がった。

 日本刀を抜いた。

 家の戸を開けた。

 中に入った。

 家の外観が見えた。

 炎が上がっていた。

 風がなかった。

 静かだった。

 中から声がした。

 一声だった。

 それだけだった。

 家が燃えた。

 朝の光の中で燃えた。

 川の水が光っていた。

 鳥が一羽、遠くを飛んでいた。

 おしまい。

――――――

シンデレラ

 継母は今日も謝っていた。

「シンデレラ様、昨日の夕食の塩加減が——」

「多かった」とシンデレラは言った。「わかってる」

「申し訳ございません」

「次から気をつけて」

 シンデレラは馬車の手入れをしながら言った。

 立派な馬車だった。白い馬が二頭ついていた。シンデレラが自分で買ったものだった。

 継母は床を磨いていた。磨き方が足りないと言われると、また最初からやり直した。

 義理の姉二人は庭の草むしりをしていた。手が荒れていた。文句は言わなかった。言えなかった。

 春になった。

 王宮から知らせが来た。舞踏会を開くという。

 継母がおずおずと言った。

「シンデレラ様、舞踏会の招待状が——」

「行く」とシンデレラは言った。

「ドレスの準備が——」

「着る」

 義理の姉たちのドレスを、シンデレラは黙って一枚選んだ。

 一番いいやつだった。

 義理の姉が何か言いかけた。

 シンデレラは振り返らなかった。

 当日、シンデレラは自分の馬車で出発した。

 時間はたっぷりあった。

 夜中の十二時という概念は、シンデレラには関係なかった。馬車は自分のものだったから。

 会場に入った。

 広間は明るかった。音楽が流れていた。人が大勢いた。

 シンデレラは一番いい場所に立った。

 誰かが飲み物を持ってくるのを待った。

 持ってきた人間に「これじゃない」と言った。

 別の人間が持ってきた。

「まあいい」と言って受け取った。

 王子が来た。

 広間を歩いていた。招待客に挨拶をしていた。

 シンデレラの前で立ち止まった。

「お名前は」と王子は言った。

「シンデレラ」とシンデレラは言った。

「どちらからいらっしゃいましたか」

「近く」

「……そうですか」

 王子は少し間を置いた。

「今夜は楽しんでいただけていますか」

「まあまあ」とシンデレラは言った。「飲み物が今ひとつだったけど」

「……申し訳ございません」

「あなたが謝ることじゃないけど」

 王子はまた少し間を置いた。

「では、踊りを——」

「疲れてるから」とシンデレラは言った。「後で」

 王子は黙った。

 しばらくして、別の方向に歩いていった。

 夜が更けた。

 王子はシンデレラを三度避けた。

 シンデレラは気づかなかった。

 四度目に廊下で鉢合わせた。

「あの」と王子は言った。

「何」

「少し、外の空気を——」

「私も行く」とシンデレラは言った。

「……いえ、一人で——」

「遠慮しなくていい」

 王子は城の外に出た。

 シンデレラもついてきた。

 庭園を歩いた。

 シンデレラもついてきた。

 噴水の前まで来た。

 シンデレラが噴水の水に指を入れた。

「冷たい」と言った。

「……そうですね」

「もっと温かくできないの」

「噴水は——」

「できないならいい」

 王子は噴水を見た。

 逃げ場がなかった。

 城の裏口のあたりで、王子はようやく一人になった。

 厩の近くだった。

 薄暗かった。

 女が一人、石の上に座っていた。

 汚れた服を着ていた。疲れた顔をしていた。でも静かだった。

「こんな場所で何を」と王子は言った。

 女は顔を上げた。

「姉が舞踏会に行ったので、留守番をしています」

「舞踏会に来なかったのですか」

「ドレスを持っていかれましたので」

 王子は少し黙った。

「寒くないですか」

「少し」

 王子は上着を脱いだ。

 女は受け取らなかった。

「それはあなたのものです」

「今はあなたに必要そうなので」

 少し間があった。

 女は受け取った。

 二人は厩の前でしばらく話した。

 馬の話をした。

 それから星の話をした。

 それから特に何の話もしなかった。

 それでよかった。

 シンデレラは夜中の二時に自分の馬車で帰った。

 ガラスの靴は脱げなかった。

 自分のサイズに合った靴を履いていたから。

 翌朝、王子は城の裏口に行った。

 女はいなかった。

 石の上に、上着が畳んで置いてあった。

 王子は上着を持って帰った。

 一週間後、王子は義理の姉を見つけた。

 探すのはそれほど難しくなかった。

 女は庭で草むしりをしていた。

 王子を見て、立ち上がった。

「上着を返しに行こうと思っていたのですが」

「もう持っています」と王子は言った。

「そうですか。良かった」

 少し間があった。

「よければ」と王子は言った。「もう少し話しませんか」

 女は手の泥を服で拭いた。

「こんな格好で」

「構いません」

 女は少し考えた。

「では少しだけ」

 継母は今日も謝っていた。

 義理の姉の姿が見えないので、シンデレラは少し不満だった。

 でも特に何も言わなかった。

 代わりに継母に草むしりをさせた。

 継母は黙ってやった。

 シンデレラは馬車の手入れをしながら、舞踏会のことを少し思い出した。

 まあまあだった、と思った。

 飲み物が今ひとつだったけど。

 おしまい。

――――――

美女と野獣

 お姫様は美しかった。

 顔が良かった。スタイルが良かった。声が良かった。

 それだけだった。

 他に取り柄はなかった。

 男と遊ぶのが好きだった。一人に飽きたら次の男に移った。次に飽きたらその次に移った。飽きるのが早かった。城の中だけでは足りなくなった。城の外にも出た。村にも出た。隣国にも出た。

 神様が見ていた。

 しばらく見ていた。

 それからため息をついた。

「もうええわ」

 お姫様は能登もち雌豚になった。

 雌豚になって最初に思ったのは、においだった。

 能登もち雌豚のにおいがした。自分のにおいがした。

 次に思ったのは、腹が減ったということだった。

 次に思ったのは、明日食べられるかもしれないということだった。

 前の二つより、三つ目が一番怖かった。

 豚小屋から逃げた。

 野原を走った。森に入った。

 森の中で、キノコを見つけた。

 腹が減っていたので食べた。

 悪くなかった。

 次の日も走った。川を渡った。別の村に入った。

 ゴミ捨て場に野菜の切れ端があった。

 食べた。

 悪くなかった。

 それどころか、組み合わせが気になった。

 昨日のキノコと、この野菜の切れ端を一緒に食べたらどうなるか。

 試した。

 良かった。

 それから雌豚は料理を始めた。

 道具はなかった。火も最初はなかった。

 石を使った。葉っぱを使った。雨水を使った。

 失敗した。何度も失敗した。

 食べられそうになったことも何度かあった。そのたびに逃げた。

 逃げながら、次は何と何を組み合わせるか考えた。

 考えているときは、食べられる恐怖を忘れた。

 季節が変わった。

 雌豚は森の奥に小屋を作った。

 火の起こし方を覚えた。土器の作り方を覚えた。

 スープを作った。

 焼いた。蒸した。干した。漬けた。

 誰も食べてくれなかった。豚だから。

 一人で食べた。

 悪くなかった。いや、良かった。

 でも誰かに食べさせたかった。

 理由はわからなかった。ただそう思った。

 ある秋の夕方、森の入口に人影があった。

 老人だった。

 八十歳を超えているように見えた。服がぼろぼろだった。髪が白くて長くて汚かった。においがした。

 雌豚より、においがした。

 老人は立っていられないようだった。木に寄りかかっていた。腹が減っている顔だった。

 雌豚はしばらく見ていた。

 豚だから、話しかけることができなかった。

 老人が倒れそうになった。

 雌豚は小屋に走って戻った。

 その日作ったスープを、葉っぱで作った器に入れて、老人の前に置いた。

 老人は少し目を開けた。

 器を見た。

 雌豚を見た。

「……豚が、料理を」

 老人はスープを飲んだ。

 一口飲んで、止まった。

 もう一口飲んだ。

 また止まった。

 それから全部飲んだ。

 老人は少し黙っていた。

「もう一杯、もらえるか」

 雌豚は次の日もスープを作った。

 老人はまた来た。

 その次の日も来た。

 老人は毎日来た。

 雌豚は毎日作った。

 老人は何も言わなかった。ただ食べた。食べ終わるといなくなった。

 ある日、老人が言った。

「お前は、なんでこんなに旨いものが作れる」

 雌豚は答えられなかった。豚だから。

 老人はしばらく考えていた。

「食べられたくなかったからか」

 雌豚は何も言わなかった。

 老人は続けた。

「俺も、似たようなもんだ」

 ある晩、老人が言った。

「俺はもともと二十歳だった」

 雌豚は聞いていた。

「会社をいくつも持っていた。ロケットを飛ばした。電気自動車を作った。SNSを買った。金は使い切れないほどあった。女がいた。次々といた。飽きたら次に行った。それだけのことだった」

 老人は手を見た。

 しわだらけの手だった。

「神様が見ていた。ある朝起きたら八十三歳になっていた。金も会社も消えていた。女たちは誰も来なかった。当たり前だ」

 雌豚は聞いていた。

「六十年分、一気に老いた。でも死なせてもらえなかった。歩き続けた。腹が減り続けた。お前のスープを飲むまで、旨いと思ったことが一度もなかった」

 翌朝、雌豚は今まで作った中で一番良いものを作ろうと思った。

 森で一番良いキノコを選んだ。川で一番良い水を汲んだ。秋の実を集めた。根を掘った。

 半日かけて作った。

 老人の前に置いた。

 老人は食べた。

 最初の一口で、何かが変わった。

 老人の手のしわが、少し薄くなった気がした。

 二口目で、髪が少し短くなった気がした。

 老人は黙って全部食べた。

 食べ終わって、顔を上げた。

 二十代の顔だった。

 きれいな顔だった。

 途方もない富を持ち、最先端のテクノロジーで世界を動かしていた男の顔だった。

 男が雌豚を見た。

 雌豚は自分の前足を見た。

 前足ではなかった。

 手だった。

 人間の手だった。

 鏡がなかったので顔はわからなかった。でも手が人間だった。足も人間だった。

 二人はしばらく黙っていた。

「お前が作ったのか」と男は言った。

「そうだ」とお姫様は言った。

 声が出た。

「なんで料理を」

「食べられたくなかった」

 男はしばらく考えた。

「俺はなんで食べに来たんだろう」

「腹が減っていたからだろう」

「そうだな」

 二人はしばらく森の中に座っていた。

 男が言った。

「これからどうする」

「さあ」とお姫様は言った。

「城に戻るか」

「戻ってどうする」

「さあ」と男は言った。

 風が吹いた。

 森のにおいがした。

 お姫様は立ち上がった。

「もう一品作る」

「また食うのか」

「食べてみたい組み合わせがある」

 男は少し考えた。

「俺も手伝う」

「料理できるのか」

「できない」

「じゃあ火を起こしておいて」

「わかった」

 火が安定してきたころ、男が言った。

「春になったら山を降りて、二人で暮らそう」

 お姫様は少し間を置いた。

「嬉しい」

 男が立ち上がった。

 足を滑らせた。

 崖下へ消えた。

 お姫様はしばらく崖の縁を見ていた。

 それから火に戻った。

 鍋がぐつぐつしていた。

 おしまい。

――――――

浦島太郎

 浜辺で亀をいじめていた。

 特に理由はなかった。暇だったから。

 子供が三人、通りかかった。

「やめてください」と子供が言った。

 浦島は子供を見た。

 子供を暴行した。

 三人とも倒れた。

 亀が海に逃げた。

 竜宮警察が来たのは翌朝だった。

 のどぐろ警部が手錠をかけた。

「浦島太郎、亀への暴行および未成年者三名への傷害罪で逮捕する」

「亀は生き物じゃないのか」

「当管轄では亀は保護対象だ」

 浦島は連行された。

 竜宮刑務所は海の底にあった。

 受付は能登牛だった。

「名前」

「浦島太郎」

「罪状」

「暴行と傷害」

「所持品を預ける。ポケットの中身も全部」

 浦島はポケットを空にした。

 玉手瓶が一本出てきた。

「これは?」

「知らない。気づいたらあった」

 能登牛が瓶を袋に入れた。

「没収ではなく預かり。出所時に返却する」

 浦島は独房に入った。

 刑務所の職員は全員食材だった。

 看守はがすえびだった。

 医務室はのどぐろだった。

 食堂の担当は能登牡蠣だった。

 図書室の管理は能登ブリだった。

 所長室には「能登フグ様」と表札があった。

 所長は男だった。

 三年が経った。

 模範囚だった。

 刑期満了の朝、能登フグ様に呼ばれた。

「浦島太郎」

「はい」

「反省はしているか」

「しています」

「どこを反省している」

「子供を暴行したことです」

「亀は?」

 浦島は少し間を置いた。

「亀も」

「順番が逆だ」

 浦島は黙った。

「まあいい」と能登フグ様は言った。「出所だ。預かり物を返す」

 玉手瓶が戻ってきた。

「開けるなよ」と能登フグ様は言った。

「なぜですか」

「ろくなことにならない」

「わかりました」

 浦島は瓶をポケットに入れた。

 海面に出た。

 浜辺に上がった。

 千里浜だった。

 砂が固かった。波が静かだった。

 車が走っていた。

 浜辺を走っていた。

 砂の上を車が走っていた。

 浦島は車を見た。

 見たことのある車と、見たことのない車が混じっていた。

 見たことのない車の形が、知っている形と少し違った。

 浦島は近くにいた男に聞いた。

「今、何年ですか」

「昭和五十九年だが」

 男は不思議そうな顔で行ってしまった。

 浦島は浜辺を歩いた。

 いじめた亀は見つからなかった。

 暴行した子供たちも見つからなかった。

 当たり前だった。三年ではなく、もっと長い時間が経っていた。

 子供たちは今頃、大人になっている。

 浦島は砂の上に座った。

 波が来た。引いた。また来た。

 ポケットの玉手瓶が、温かくなった。

 それから、爆発した。

 音はなかった。

 ただ、白い煙が出た。

 砂浜に三歳の子供が座っていた。

 車が走っていた。

 波が来た。

 引いた。

「なんだったんだ」

 おしまい。

――――――

マッチ売りの少女

 大晦日の夜だった。

 女の子はマッチを売っていた。

 売れなかった。

 寒かった。

 マッチを一本、擦った。

 隣を歩いていた男が止まった。

 立ったまま動かなくなった。

 目が開いていた。

 でも、見ていなかった。

 口が少し開いた。

 何かを言おうとしていた。

 言えなかった。

 マッチの火が消えた。

 男は首を振った。

 早足で行ってしまった。

 女の子はもう一本、擦った。

 向かいのパン屋の主人が、ショーウィンドウを磨いていた。

 布を持ったまま止まった。

 ショーウィンドウに顔を押しつけた。

 中は何もなかった。

 閉店後で、棚は空だった。

 主人は何かを見ていた。

 涙が出た。

 マッチの火が消えた。

 主人は布を落とした。

 しばらくその場に立っていた。

 それから布を拾って、店に入っていった。

 翌朝、主人は開店しなかった。

 女の子は三本目を擦った。

 荷車を引いていたロバが止まった。

 荷車の主人が気づかずに引き続けた。

 ロバは動かなかった。

 主人は引いた。

 ロバは四本の脚を踏ん張った。

 主人は怒鳴った。

 ロバは怒鳴られても動かなかった。

 前を向いたまま、動かなかった。

 何かを見ていた。

 主人が手綱を強く引いた。

 ロバは振り返った。

 後ろ脚で蹴った。

 主人は飛んだ。

 荷車が壁に突っ込んだ。

 ロバは暴れた。

 荷物が散乱した。

 人が集まってきた。

 マッチの火が消えた。

 ロバは止まった。

 荷車の主人は雪の中に座っていた。

 何が起きたかわからない顔だった。

 ロバは何も言わなかった。

 ロバなので。

 通りを走っていた子供が転んだ。

 起き上がらなかった。

 泣かなかった。

 地面に座ったまま、上を見ていた。

 母親が駆け寄った。

「どこか痛い?」

 子供は答えなかった。

 見ていた。

 空を見ていた。

 雪が降り始めていた。

 雪を見ていた。

 母親が揺さぶった。

 子供はゆっくり瞬きした。

「なんか、いた」

「何が?」

「しらない」

 子供は立ち上がって走り出した。

 四本目のマッチが消えた。

 女の子は手が温まっていた。

 マッチが減っていた。

 売れてはいなかった。

 五本目から先は、夜が深くなるにつれて速くなった。

 通りを歩く人が次々と止まった。

 泣く人がいた。

 笑う人がいた。

 その場に座り込む人がいた。

 何かに向かって手を伸ばす人がいた。

 届かなかった。

 走り出す人がいた。

 どこへ向かっているかわからない走り方だった。

 叫ぶ人がいた。

 言葉になっていなかった。

 全員、マッチが消えると我に返った。

 全員、足早に去っていった。

 誰も女の子を見なかった。

 夜が深くなった。

 通りに人がいなくなった。

 百七本のマッチが燃えかすになっていた。

 一本残っていた。

 女の子は最後の一本を擦った。

 暖かかった。

 明るかった。

 大きなストーブがあった。

 ごちそうがあった。

 おばあさんがいた。

 女の子の知っているおばあさんだった。

 おばあさんは笑っていた。

 女の子も笑った。

 マッチの火が消えた。

 暗かった。

 寒かった。

 マッチの箱が空だった。

 女の子は笑ったままだった。

 雪が積もっていった。

 男が来た。

 いつからそこにいたのかわからなかった。

 立派な身なりだった。

 雪の中に立っていた。

 寒そうではなかった。

 男は女の子を見た。

 しばらく見ていた。

 それからしゃがんだ。

「こんなところに、こんなかわいらしい子が」

 男は言った。

「こんな夜に、一人でいてはいけない」

 女の子は笑ったままだった。

「あなたは、誰?」

 女の子が言った。

「闇源氏という」

 男は答えた。

「あなたは?」

 女の子は答えなかった。

 笑ったままだった。

 男は続けた。

「私が育てよう。理想の女性に」

 女の子は何も言わなかった。

 男は女の子を抱き上げた。

 軽かった。

 女の子はまだ笑っていた。

 男は歩き出した。

 雪が降っていた。

 静かだった。

 元日の朝、女の子がいた場所に、燃えかすが散らばっていた。

 数えたら百八本あった。

 女の子はいなかった。

 どこへ行ったかは、誰も知らなかった。

 翌年から、その通りではマッチの行商が禁止された。

 理由は「近隣住民への影響」だった。

 詳しくは書かれていなかった。

 おしまい。

――――――

マッチあそび、ダメ、ぜったい。

はだかの王さま

 王さまは演説しようと思った。

 城の外へ出た。

 家臣が全員いた。

 全員にモザイクがかかっていた。

 おしまい。

――――――

ひとにしか みえないふくを かうまえに よくかんがえて かねつかえ

走らないメロス

 メロスは激怒しなかった。

 面倒くさかった。

 王城に連れていかれた。

 王に会った。

 王は言った。

「お前を処刑する」

 メロスは言った。

「三日待ってくれ。妹の結婚式がある」

 王は言った。

「人質を置いていけ」

 メロスは親友セリヌンティウスを呼んだ。

 セリヌンティウスは来なかった。

 女といた。

 メロスは仕方なく自分が残った。

 牢屋に入った。

 三日あった。

 することがなかった。

 一日目。

 看守が食事を持ってきた。

 メロスは食べながら言った。

「三日後に処刑が終わったら、故郷に帰るつもりだ」

 看守は黙った。

 メロスは続けた。

「母が待っている」

 看守がそっと目を逸らした。

 メロスは気づかなかった。

 二日目。

 セリヌンティウスが面会に来た。

「すまなかった」

「いい」とメロスは言った。

「お前が来なかったから俺が残ることになった」

「本当にすまなかった」

「妹の結婚式には出られそうか」

「出られる」

「よかった」とメロスは言った。「俺も出る。処刑が終わったら一緒に行こう」

 セリヌンティウスが何か言いかけた。

 言わなかった。

「お前に借りた金も返す」とメロスは言った。

 セリヌンティウスは帰った。

 走って帰った。

 三日目。

 処刑台に連れていかれた。

 王が見ていた。

 メロスは王を見た。

「王を信じさせてみせる」とメロスは言った。

 誰にともなく言った。

 処刑人が困った顔をした。

 その瞬間だった。

 空が曇った。

 雷が鳴った。

 処刑人が滑った。

 縄が切れた。

 王が転んだ。

 メロスは立っていた。

 王は地面から顔を上げてメロスを見た。

 しばらく見ていた。

「信じよう」と王は言った。

 理由は言わなかった。

 メロスも聞かなかった。

 セリヌンティウスが迎えに来た。

 女も一緒に来た。

 三人で故郷に帰った。

 母がいた。

 妹の結婚式があった。

 借金は帰り道に返した。

 全部終わった。

 後から数えたら死亡フラグが五本あった。

 全部回収されなかった。

 霧島流奥義・死相砕きだった。

 おしまい。

――――――

フラグは、立てた数だけ、帰れる。

ヨハネの黙示録 確変篇

 我は見た。

 第一の封印が開かれた。

 轟音が鳴り響いた。

 光が溢れた。

 玉が解き放たれた。

 数を数えることができなかった。

 第二の封印が開かれた。

 さらに大いなる光が降り注いだ。

 玉は川のごとく流れ、床に満ちた。

 隣の者が振り返った。

 目が合った。

 何も言わなかった。

 第三の封印が開かれた。

 天使が告げた。

「これは始まりに過ぎない」

 我は震えた。

 玉は止まらなかった。

 第四の封印が開かれた。

 我の箱に枚数を数えることのできない硬貨が満ちた。

 我は泣いた。

 理由はわからなかった。

 第五の封印が開かれた。

 光はさらに激しくなった。

 音はさらに大きくなった。

 周囲の者たちが立ち上がった。

 我も立ち上がった。

 第六の封印が開かれた。

 解放は最高潮に達した。

 玉と硬貨は山をなした。

 我は両手を広げた。

 受け止めきれなかった。

 第七の封印が開かれた。

 天地が静まった。

 光が消えた。

 音が消えた。

 元に戻った。

 我の手には何も残っていなかった。

 おしまい。

――――――

その数は、九九九であった。

草枕

 Xを炎上させながら、こう考えた。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 おしまい。

――――――

すみにくい。

七ひきのこやぎ

 お母さんヤギは森へ出かけた。

 出かける前に子やぎたちを集めて言った。

「オオカミが来ても絶対に開けてはいけない。合言葉を聞きなさい。答えられなかったら開けてはいけない」

「合言葉は?」と子やぎたちが聞いた。

「金沢城ができる前の城の名前は何?」

 子やぎたちは頷いた。

 お母さんヤギは森へ入った。

 帰ってこなかった。

 理由は誰も知らなかった。

 オオカミが来た。

「お母さんですよ。開けなさい」

「合言葉は?」と子やぎたちが言った。

 オオカミは黙った。

 しばらく黙った。

 帰った。

 オオカミは声を変えて戻ってきた。

「お母さんですよ。開けなさい」

「合言葉は?」

 オオカミはまた黙った。

 帰った。

 オオカミは三回目に来た。

「合言葉は?」

「……尾山神社」

 子やぎたちは顔を見合わせた。

 火縄銃を構えた。

 槍を持った。

 石を握った。

 熱湯を用意した。

 蜂の巣を持った。

 臼を構えた。

 唐辛子を握った。

 扉を開けた。

 オオカミが入ってきた。

 七匹が迎撃した。

 オオカミは帰れなかった。

 片付けが終わった頃、扉をノックする音がした。

「どちら様ですか」

「赤ずきんと申します。つまらないものですが」

「合言葉は?」

「尾山御坊」と赤ずきんは即答した。

「尾山御坊は」と赤ずきんは言った。「かつて加賀国に存在した浄土真宗の寺院です。加賀一向一揆の拠点であり、石垣や堀を巡らせた一大軍事要塞でした。1580年に織田信長の軍勢に攻め落とされた後、その跡地に築かれたのが現在の金沢城です。創建は1546年、本願寺によって金沢御堂として建立されました。当時は百姓の持ちたる国と呼ばれた加賀国において、一向一揆の政治・軍事の中枢として機能していました。大阪の石山本願寺と同様に、周囲に空堀や柵、石垣などを備えた実質的な城でした。1580年、織田信長の命を受けた佐久間盛政が攻略し、城郭化して金沢城と命名しました。1583年、賤ヶ岳の戦いで盛政が敗北した後、前田利家が城主となりました。利家は城を大幅に拡張・改修し、現在の金沢城の礎を築きました」

 子やぎたちは黙って聞いていた。

 扉を開けた。

 赤いずきんをかぶった女の子が立っていた。

 風呂敷を持っていた。

「森八の羊羹です」

 羊羹を受け取った。

「お母さんへのお届けものだったんですが」と赤ずきんは言った。「森で会いまして。こちらへ持っていくように言われました」

 子やぎたちは黙った。

「どうかされましたか?」

「いいえ」と一番上の子やぎが言った。

「そうですか。では」

 赤ずきんは帰った。

 子やぎたちは羊羹を切った。

 七匹で食べた。

 うまかった。

 おしまい。

――――――

もりへは、きをつけて。

しらゆきひめ

 お妃は鏡に向かって聞いた。

「この世で一番美しいのは誰?」

 鏡は答えた。

「お妃様、あなたです」

 九官鳥が叫んだ。

「ハルシネーション! ハルシネーション!」

 お妃は九官鳥を見た。

 鏡を見た。

「課金したのに」とお妃は言った。

 鏡を叩き割った。

 おしまい。

――――――

かがみは、ただしいことを、いうとはかぎらない。

さんびきのこぶた

 三匹の子豚は家を建てることにした。

 一匹目は藁で建てた。

 完成した。

 崩れた。

 地元の農民が通りかかった。

 野焼きに使った。

 炎上した。

 能登もち豚として、美味しくいただきました。

 二匹目は木で建てた。

 完成した。

 オオカミが来た。

「吹き飛ばしてやる」

 オオカミが吹いた。

 オオカミが吹き飛んだ。

 家は無傷だった。

 オオカミは帰った。

 壁が外側に倒れた。

 豚にタライが落ちてきた。

 三匹目はレンガで建てた。

 完成した。

 オオカミが来た。

「吹き飛ばしてやる」

 オオカミが吹いた。

 何も起きなかった。

 オオカミはもう一度吹いた。

 何も起きなかった。

 オオカミは帰った。

 豚が外に出た。

 上から水が降ってきた。

 おしまい。

――――――

いえは、しっかりたてよう。たてたあとも、きをつけよう。

第十七章

凱旋

昭和二十年八月十三日の朝、霧島清は妻に言った。

「心配するな、必ず生きて帰る」

妻が泣き崩れた。

清は一本目を立てた。

同じ日の夕方、門下生幹部を集めた。

「帰ってきたらみんなで飲もう」

門下生幹部が膝から崩れ落ちた。

清は二本目を立てた。

八月十四日、出発二日前の夜、最後の宴会があった。

兵士たちが酒を飲んでいた。

清は写真を取り出した。

「この写真を見てくれ。妻が地元で待ってるんだ」

兵士Aが目を逸らした。

三本目。

「この基地、広いから明日ちょっと探検してみようと思うんだ」

兵士Bが歌をやめた。

四本目。

「この戦争が終わったら田舎に帰って養子をもらうんだ」

兵士Cの泣き方が変わった。

五本目。

清は立ち上がった。

「死ぬことが前提の奴らと酒が飲めるか。俺は一人で街で飲む」

基地から出た。

誰も追わなかった。

街に出た。

暗かった。

灯火管制で、看板も窓も全部消えていた。

それでも一軒だけ、細い光が漏れている店があった。

扉を開けた。

カウンターに椅子が四つあった。主人が一人いた。客は一人だった。

清は端の椅子に座った。

主人が何も言わずに酒を出した。

清は少しだけ飲んだ。

隣の男が振り向いた。

立派な身なりだった。

戦時中にこの格好をしている人間がいるのか、と清は思った。

寒そうではなかった。

男は清を見て、少し目を細めた。

「軍人さん」

「そうです」

「こんな夜に飲みに来るとは」

「たまには」

男は清の酒を見た。

「少ししか飲まないんですね」

「酔いたいわけじゃないので」

男は小さく笑った。

「私もそうです」

男が主人に目で合図した。主人がまた酒を出した。

「闇源氏という」と男は言った。

「霧島清」と清は言った。

それだけで、話が始まった。

男の話は長くなかった。

ある冬の夜に、大晦日の通りで女の子を拾った。

死にそうだった。

マッチを売っていた。売れなかった。寒くて、箱が空になっていた。

「育てようと思いました」と男は言った。

「養女にしたんですか」

「翌日、役所に届け出ました。元日でも開いていました」

清は少し間を置いた。

「嫁に行きましたか」

「行きました」

男は酒を飲んだ。

「幸せな時間でした」

清は何も言わなかった。

男も何も言わなかった。

主人がカウンターを拭いていた。

しばらく、二人とも黙っていた。

「明日、何かありますか」と男は言った。

「さあ」と清は言った。「わかりません」

「そうですか」

男は立ち上がった。懐から金を出して、カウンターに置いた。清の分も含まれていた。

「ご武運を」

「あなたは」

「私はどこへでも行けますので」

男は扉を開けて、出ていった。

清は残りの酒を飲んだ。

少しだけだった。

外に出た。

公園があった。

ベンチに座った。

空を見た。

星が出ていた。

目を閉じた。

爆発音で目が覚めた。

遠かった。

それから近くなった。

それから遠くなった。

それから静かになった。

空が明るかった。

朝だった。

基地のある方角から煙が出ていた。

子供が来た。

男の子だった。

ベンチに座ったまま空を見ている清を、じっと見ていた。

「おじさん、大丈夫?」

「大丈夫だ」

「煙、出てるよ」

「出てるな」

子供はベンチの隣に座った。

二人で煙を見た。

しばらくして、子供が言った。

「おじさんちは?」

「大杉神社の近くだよ」

「けっこう離れてるね」

「離れてる」

子供はまた煙を見た。

「帰れる?」

清は少し考えた。

「帰れると思う」

「そっか」

子供は立ち上がった。どこかへ行こうとして、止まった。

「あ、お母さんが言ってた。今日、ラジオで大事なことあるって」

「そうか」

「聞いた方がいいって」

「そうか」

子供は走っていった。

昭和二十年八月十五日の正午、霧島清は公園のベンチで玉音放送を聞いた。

ラジオはなかった。

近くの家の窓が開いていて、そこから聞こえてきた。

雑音が多くて、半分しか聞き取れなかった。

それでも、終わったことはわかった。

清は立ち上がった。

ベンチを見た。

清は大杉神社へ向かって歩き出した。

第十八章

逆転世界

第一章:目覚め

目を開けると、空が白かった。

真っ白というわけではない。淡い青みがかった光が、霧のように漂っている。その中を、金色の粒子がゆっくりと舞い上がっていく。重力に逆らうように。

小林琢也は身体を起こした。

足元には柔らかな草が広がっていた。だが、その先に広がる光景に、彼は息を呑んだ。

眼下には、果てしなく広がる水面。

いや、湖だ。

巨大な、あまりにも巨大な湖が、地平線の彼方まで続いている。その形は、どこか見覚えがあった。細長く、複雑に入り組んだ輪郭。本州、四国、九州──かつて日本列島と呼ばれた陸地の形そのものだった。

「ここは……」

琢也は立ち上がり、周囲を見渡した。

自分が立っているのは、なだらかな丘陵地帯だった。遠くには小高い山々が連なり、その向こうには別の湖が見える。太平洋だったはずの場所が、今は陸地になっている。

空には太陽が二つあるように見えた。いや、太陽と、その光を反射する何かだ。光は屈折し、虹色の帯となって空を横切っている。

風が吹いた。

それは温かく、どこか懐かしい匂いがした。潮の香り。けれど、ここに海はない。

「死んだのか、俺は」

呟いた声は、空気に吸い込まれるように消えていった。

第二章:逆転の大地

琢也は丘を下り始めた。

足音は、草の上ではほとんど聞こえなかった。代わりに、遠くから微かな音楽が聞こえてくる。それは音楽というより、風が奏でる旋律のようなものだった。

湖の岸辺に近づくと、水面が銀色に輝いているのが見えた。波はなく、鏡のように静かだ。そこに映るのは、空と、光の粒子と、そして自分の姿。

琢也は屈んで、水に手を浸した。

冷たくも温かくもない。ただ、触れた瞬間に、記憶が蘇った。

父親と釣りに行った日。小学生の頃だ。川の水に手を浸して、「冷たいな」と笑った父の顔。

「懐かしいな……」

立ち上がり、湖の向こうを見つめる。かつて東京があった場所は、今は湖の底だ。人々の暮らし、ビル、電車、すべてが水の下に沈んでいる。

いや、違う。

ここは「あの世」なのだ。すべては最初から、こうだったのだろう。

琢也は湖畔を歩き始めた。

足元には、見たことのない花が咲いていた。透明な花びらを持ち、中に光を宿している。踏むと、ほのかに光が広がった。

どれくらい歩いただろうか。

前方に、人影が見えた。

第三章:再会

その人は、丘の上に立っていた。

背を向けて、湖を見下ろしている。

琢也の足が、自然と速くなった。

「……父さん」

声は、震えていた。

人影が振り返った。

小林健一。琢也の父親だった。

三年前に亡くなった。心臓発作だった。突然のことだった。

「琢也か」

父親は、穏やかに笑った。

生前と同じ笑顔。けれど、どこか透明感があった。この世界の光に溶け込んでいるような。

「父さん……本当に、父さんなのか」

「ああ。驚いたか?」

琢也は頷いた。言葉にならなかった。

父親は、隣に立つよう促した。二人並んで、湖を見下ろす。

「ここが、あの世なんだな」

「そうだ。お前もここに来たんだな」

「……まだ実感がない」

「そうだろうな」

沈黙が降りた。

けれど、それは居心地の悪いものではなかった。風が、二人の間を通り抜けていく。

「不思議だな」父親が言った。「生きていた頃は、海だったところが陸になって、陸だったところが湖になってる」

「逆転してるんだな」

「ああ。すべてが」

琢也は、ふと思った。

「父さんは……ずっと、ここにいたのか?」

「ああ。お前たちを見守ってた」

「見守ってた?」

「見えるんだよ、ここからは。生きている者たちの世界が」

父親は、遠くを見つめた。

「お前が大学を卒業したこと。就職したこと。母さんが元気でいること。全部見ていた」

琢也の胸が、熱くなった。

「……ありがとう」

「何のお礼だ」

「ちゃんと、言えなかったから。父さんが死んだ時、俺は何も言えなかった」

父親は、琢也の肩に手を置いた。

「いいんだ。お前の気持ちは、ちゃんと届いていた」

第四章:湖畔の対話

二人は、湖畔を歩いた。

かつて富士山があった場所には、巨大な穴が開いていた。いや、穴ではない。湖の中の湖だ。深い青色をした、底の見えない水たまり。

「あそこは、特別な場所なんだ」父親が言った。「魂が集まる場所」

「魂が?」

「ああ。生まれ変わるために、準備をする場所だ」

琢也は立ち止まった。

「生まれ変わる……?」

「そうだ。ここはあの世だが、終わりの場所じゃない。次への準備をする場所なんだ」

「父さんも、生まれ変わるのか」

「いつかはな」

父親は微笑んだ。

「だが、まだだ。もう少し、ここにいる」

「どうして?」

「お前に会いたかったからな」

その言葉に、琢也の目が潤んだ。

「生きてる時、もっと話せばよかった」

「そうだな」

「父さんの好きなものとか、考えてることとか、全然知らなかった」

「俺もだ」父親は笑った。「お前のことも、よく分からなかった」

二人は顔を見合わせて、笑った。

第五章:光の粒子

日が傾き始めた──いや、この世界に本当の「日」があるのかは分からない。けれど、光が変わった。

オレンジ色の光が、湖面に反射している。

空を舞う光の粒子が、より鮮やかに輝き始めた。

「綺麗だな」琢也は呟いた。

「ああ」

「この光は、何なんだろう」

「魂の欠片だと言われてる」父親が答えた。「想いとか、記憶とか、そういうものが形になったもの」

琢也は、手を伸ばした。

光の粒子が、掌に降りてきた。温かかった。そして、一瞬、映像が見えた。

誰かの笑顔。知らない人の、幸せそうな笑顔。

「見えたか?」

「ああ……誰かの記憶だ」

「そうだ。ここでは、すべての想いが光になる」

琢也は、空を見上げた。

無数の光が、星のように輝いている。

その一つ一つが、誰かの記憶。誰かの愛。誰かの悲しみ。

「俺も、いつかあの光になるのか」

「ああ。そして、また新しい命として生まれ変わる」

「父さんの光も、見えるかな」

「見えるさ。お前が探せば」

終章:別れと余韻

時間の感覚はなかった。

けれど、別れの時が近づいているのは、なぜか分かった。

「行かなきゃいけないのか」琢也が聞いた。

「ああ。お前はまだ、ここに留まる時じゃない」

「どういうことだ?」

父親は、優しく微笑んだ。

「お前はまだ、生きてるんだ」

琢也は、息を呑んだ。

「生きてる……?」

「そうだ。今、病院で眠ってる。だが、もうすぐ目を覚ます」

「じゃあ、これは……」

「夢のようなものだ。死の淵で、ここに来た。だが、お前はまだ戻れる」

琢也の胸に、複雑な感情が渦巻いた。

嬉しさ。安堵。そして、寂しさ。

「父さんと、もっと話したかった」

「また会えるさ。いつか、本当にここに来る時が来る。その時まで、しっかり生きろ」

父親は、琢也を抱きしめた。

温かかった。

生きていた頃と同じ、温もり。

「ありがとう、父さん」

「こちらこそ。会えてよかった」

光が、眩しくなった。

琢也の身体が、宙に浮き始めた。

「父さん!」

「行け、琢也。母さんを頼む」

父親の姿が、遠くなっていく。

湖が、丘が、逆転した世界が、光の中に消えていく。

最後に見えたのは、父親の笑顔だった。

目を開けると、白い天井があった。

病院の匂い。機械の音。

「琢也!」

母親の声。

「目が覚めたのね!」

琢也は、ゆっくりと母親を見た。涙を流している。

「母さん……」

「よかった……本当によかった……」

琢也は、窓の外を見た。

青い空。白い雲。そして、遠くに見える海。

あの世界とは逆の、この世界。

けれど、どこか繋がっている気がした。

空を見上げると、陽の光の中に、小さな光の粒子が舞っているように見えた。

もしかしたら、父さんが送ってくれた光かもしれない。

琢也は、小さく微笑んだ。

「ありがとう、父さん」

その呟きは、風に乗って、どこか遠くへ届いていった。

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